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概念の弊害を超える

未唯へ

 痩せたソクラテスになりましょう。

 近くに、みそカツ丼屋ができました。500円です。気を付けないといけない。

 皆が、全てを知りたいと思っているのか? していないという仮説のもので動いています。

ポルテしかない

 トヨタ店もネッツ店も自意識ばかりのクルマしかない。インナーがドンドン、痩せていきます。やはり、ポルテしかないのか。

社会の位相化

 もう、いい加減なことはやっておれない、というのが、今の感覚です。それがまだ、現実になっていない。今から、現実にしましょう。

 ICレコーダーへの入力を画期的に増やさないといけない。

概念の弊害を超える

 抽象的な概念の弊害。ある一面を切り取る。それでもって、決めつける。現象というのは、内なる世界から見えるものだけを手繰っていく、そんなあやふやなものからすべてを作ろうというもの。

 最初から、フレームを決めずに、そういう具体的なモノから始める。未唯空間はそうして、トポロジーというフレーム、歴史というフレームでもって、一つずつを決めて、積上げている。見える現象をすべてを対象にしている。

 反映があるから、拡大する、または縮小する。それをなすのは、大いなる意思と存在の力による。創造的な矛盾の中で、それを理解せねばならない。

未唯空間の循環プロセス

 長い時間を掛けて、自分自身の戻る経路が扱われている。何回も同じところに戻っています。その時に、同じなのか、違っているのか。成長したと感じるのか、そうでないのか。単なるスパイラルなのか。

 そして、それは円になっているのか、点なのか。ぐるっと回るだけで十分です。もし、円になれば、循環できれば、それで系としては成り立ちます。円となることで、一つずつの制約から解き放されている。

 その中に、共通なものと区別すべきものが与えられる。それが次のエネルギーになっている。無限である。一つのところに全てがあり、全ての中に一つがある。部分は全体であり、全体は部分である。集合と点の関係です。

 そうなっているかを未唯空間で確認することが重要です。スタート時点はどこでもいい。どっち道、戻ってきて、円になっていくから。

自己顕示欲の世界

 フェースブックも自己顕示欲だけの世界です。発信する人と、そうでない人に分かれていて、食べ物と自慢話だけです。本来的なテーマで合意するものが俎上に上がらないのか。
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ハンガリー 東方からやって来た民族の国

『スラヴの十字路』より

スラヴ民族が主要民族を成しているロシア・旧東欧地域。だが、もちろん、この地域にはスラヴ民族だけが暮らしているわけではなく、非スラヴ民族が支配的な国もある。例えば、東西スラブと南スラヴの間には非スラヅの国が並んでいる。西からハンガリー、ルーマニア、モルドヴァだ。本節ではその中のハンガリーを取り上げよう。

ヨーロッパの中央部に位置するハンガリーは、東西にそれぞれ国境を接するルーマニアとオーストリアを除けば、北から時計回りにスロヴァキア、ウクライナ、セルビア、クロアチア、スロヴエニアというスラヴの国々に囲まれている。それでは、なぜスラヴの地に非スラヴ民族の国があるのだろうか。

ハンガリー人はもともと現在の地にいたわけではない。彼らの故地はウラル山脈あたりと考えられており、そこから民族移動を繰り返して、九世紀末に現在のハンガリーの地にたどり着いたのである。彼らは本来のヨーロッパ民族ではなく、東方からヨーロッパにやって来た異民族だったのだ。ちなみに、ハンガリー人は五世紀にヨーロッパに大帝国をうち立てたフン族の子孫だからハンガリーというのだと考えている人もいるが、それはまったくの俗説にすぎない。そもそも、ハンガリー人の自称は「マジャルMagyar」なのである。

東方からやって来た彼らの用いる言語も、ヨーロッパの基本語族であるインド=ヨーロッパ語族ではない。ハンガリー語はウラル語族に属し、他のヨーロッパ諸語とは文法構造も語彙もまったく異なる。また、長期にわたる民族移動は言語にも痕跡を残しており、様々な民族と接触した結果、ハンガリー語にはチュルク系やスラヴ系の茜言語からの借用語が多くなっている。人名の表し方にも特徴がある。ハンガリー語では、日本語と同じように、姓・名の順で表すのである。ハンガリーを代表するT九世紀の音楽家リストもハンガリー式に記せば、リスト・フェレンツとなる。

さて、九世紀末に現在のハンガリーの地に進出してきたハンガリー人だが、一〇〇〇年にはイシュトヅァーンー世がハンガリー王国を成立させ、一五世紀後半のマーチャーシュ王の時代には、現在のスロヴァキアやクロアチアなどを含む中欧の大王国へと発展した。ハンガリーには華麗なルネサンス文化が花開き、美しい細密画に彩られたコルヴィナ文庫はヨーロッパ中にその名をとどろかせた。

だが、その後、ハンガリーはオスマン帝国やハプスブルク家など、他国に支配され続けることになった。独立ではないが、実質的な自治を獲得できたのは、一八六七年に「アウスグライヒ(妥協)」により、オーストリア=ハンガリー二重帝国が成立してからである。これ以降、一九一八年に第二次世界大戦で敗北し、二重帝国が崩壊するまで、ハンガリーは経済的にも文化的にも飛躍的に発展を遂げる黄金時代を迎えるのである。

首都ブダベスト(ハンガリー語ではブダペシュト)を例にとろう。ドナウ右岸のオーブダ、ブダと左岸のペストが統合されてブダペストとなるのは一八七三年のことで、現在、世界中から多くの観光客をひきつけるブダペストの景観が形づくられたのも基本的にはこの時代である。合併時には約三〇万人だった人口は一九○○年には七三万人、一九一〇年には一一〇万人と急増し、ブダペストは「ドナウの真珠」と称される、ヨーロッパを代表する大都市になるのである。一八九六年にはハンガリー・建国千年祭に合わせて、世界で二番目、ヨーロッパの大陸部では初の地下鉄がブダペストの街を走り出してもいる。

また、この時期、ハンガリーではカフェ文化が花開いた。一九世紀末の百科事典によると、ハンガリーには一三七七軒の、ブダペストだけでも六六三軒のカフェがあったという。ブダペストはパリやウィーンと並ぶカフェの街だったのであり、カフェは都会で暮らす市民の生活の不可欠な一部になっていたのである。そしてここには芸術家やジャーナリストらが集い、新たな文化を生み出す場ともなっていた。

カフェ文化というのはいかにもヨーロッパ的だが、東からやって来た彼らの文化には東方的な要素もかいま見える。ブダペストの応用美術館などを設計した建築家レヒネルはそうした東方起源のモチーフを重視して、ハンガリーの民族様式を作り上げたのだった。さらに、ハンガリーの温泉文化はオスマン時代から受け継がれたものだ。現在温泉大国として知られているハンガリーには、ブダペストだけでも一四ヵ所に一二三の源泉と四〇ほどの温泉施設があり、市民の憩いの場となっている。なかには、宮殿と見まがうばかりの豪華で大規模な施設もある。

ヨーロッパ文化に東方的な要素も加味された国ハンガリー。その魅力は尽きない。
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知られざる大国ポーランド

『スラヴの十字路』より

北はバルト海、南はカルパチア山脈を国境とするが、東西は見渡す限りの平原が続く、西スラヅ最大の国ポーランド。ポーランドという国名自体、「野の国」「平原の国」という意味なのである。

平原に位置するこの国は、自然の障壁を持かないため、敵の侵略を容易にした。ポーランドはドイツ、ロシア、オーストリアなどさまざまな国の支配を受け、国家の消滅まで経験した。歴史上、多くの悲劇に見舞われてきたポーランドだが、この国ががっては中・東欧を代表する、そしてヨーロッパでも有数の大国であったことは、あまり知られていない。

ポーランドが国家として形成されるのは一〇世紀後半のことだが、大国として姿を現すのは、一三二〇年に分裂していた王国が再統一され、さらに一三八六年にリトアニア大公国と連合し、ヤギェウォ朝が開かれてからである。これ以降、ポーランド王国は発展し、その繁栄は一六世紀まで続く。その版図にはポーランドとリトアニアだけでなく、現在のウクライナ、ベラルーシ、そしてロシアの一部も入っていた。

当時、ポーランドがいかに大国だったかは、その文化面からも知ることができる。イタリアから広まったルネサンスは一五世紀後半にはポーランドにも波及し、一六世紀になるとポーランドの文化は高度に発達し、「黄金時代」を迎えるのである。それは華麗で、国際色豊かな文化だった。この時期に地動説を提唱したコペルニクスやプーシキン以前のスラヴ圏内における最大の詩人と称されるコハノフスキがポーランドから現れたのも、偶然ではない。コペルニクスやコ(ノフスキはヤギェウォ大学に学んでいるが、この大学は一三六四年の創設で、ヨーロッパ有数の歴史を誇り、ドイツ最古のハイデルベルク大学より二二年古い。こうしたことも当時のポーランドの文化の高さを証明するものだろう。ちなみに、前々ローマ教皇ヨハネ・パウロ二世や国際的に有名なSF作家レム、ノーべル文学賞を受賞した詩人シンボルスカなどもこの大学の出身である。

ところで、栄華を誇っていたポーランド王国の首都だったのは、ワルシャワではない。首都はポーランド南部の、上記ヤギェウォ大学があるクラクフという都市だった。クラクフは一六一一年にワルシャワに遷都されるまで、王国の首都であり続けたのである。

クラクフは、第二次世界大戦時にポーランドのほぼ全土が焦土と化したにもかかわらず、奇跡的に大きな破壊を受けなかった。そのおかげで、中世以来の街並みや建造物がそのまま残り、現在、この都市はヨーロッパで最も美しい町のひとつに数えられている。ヴィスワ川のほとりに建つ王城ヅァヴエル、中世都市の広場としてはヨーロッパ最大規模で、織物会館などのある中央市場広場、左右非対称の二本の塔を持つマリア教会など、見所満載だ。数多くの文化遺産を残すクラクフの歴史地区は一九七八年に世界遺産に登録されたが、最初の登録地一二件のうちのひとつとして選ばれたのである。

クラクフ近郊には、さらに二つの世界遺産がある。ひとつはクラクフから南東に一五キロほど行ったヅィエリチカの岩塩坑である。最盛期にはポーランド王家の収入の三分の一がここで取れる「白い金」、すなわち岩塩によるものであったという。現在では岩塩の採掘はほとんど行われていないが、壁面の彫刻、シャンデリア、祭壇等、すべてが岩塩でできた地下世界を体感することができる。もうひとつはクラクフの西五〇数キロのところにあるオシフィエンチム、ドイツ名アウシュヅィッツである。人類史上最大の負の遺産とも言われるこの場所に関しては、多言を要すまい。近い距離にあるこの三つの世界遺産を見て回れば、いろいろな意味で人間の「すごさ」を感じることだろう。

クラクフに話を戻そう。この都市には日本とかかわりのある施設もある。それは日本美術・技術博物館、通称「マンガ・センター」である。現在、ポーランドでも日本のアニメやマンガは人気だが、この「マンガ」はそれとは関係なく、美術評論家・収集家のフェリクス・ヤシェンスキの雅号「マンガ」(北斎漫画にちなむ)からとられたものである。彼は何千点にものぼる浮世絵などの日本の美術品を収集していたが、それを展示するためにこの施設は建てられたのだった。建設にあたっては、『灰とダイヤモンド』などで世界的に知られる映画監督ワイダが尽力した。開館は一九九四年で、設計を行ったのは磯崎新である。

この博物館の存在が示すように、ポーランドはヨーロッパを代表する親日の国である。日露戦争で当時ポーランドを支配していたロシアを破った日本に対して、ポーランドの人々は好感情を抱き続けてくれているのだ。ヤギェウォ大学やワルシャワ大学など、ポーランドを代表する大学には日本学科があり、受験生の人気は高いという。それに対し、日本でポーランド語の専攻課程があるのは東京外国語大学ひとつだけである。

たしかに、日本におけるポーランドヘの関心は低い。とはいえ、ポーランドヘの日系企業の進出は旺盛である。現在、二〇〇社ほどが進出しているという。ポーランドの経済成長は堅調で、リーマン・ショックによる世界的な金融危機のあおりを受けてもプラス成長を続けたヨーロッパ唯一の国たった。また、二〇〇九年には日本とポーランドの国交樹立九〇周年を迎えた。今後、両国のさらなる交流を期待したい。
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ウクライナ 自由と独立を求めて

『スラヴの十字路』より

ヨーロッパにおいて、ロシアに次ぐ面積を有する国、ウクライナ。この国がようやく独立を果たすのは一九九一年のことだが、そこにいたるまでのこの国の歴史は苦難の連続であった。二〇世紀に入るまで隣国のポーランドやロシアに支配され続け、二〇世紀になってからもロシア革命時の国内戦や第二次世界大戦で激戦の地となり、甚大な被害を被った。

ウクライナにはかつて東スラヴ族最初の統一国家キエフ・ルーシがあったが、この国が二一世紀前半に滅んで以降、全ウクライナ的な独立国家は二〇世紀末にいたるまで現われることはなかった。しかし、自由を求め、独立国を建設しようとする動きがなかったわけではない。それを推し進めたのが、「自由の民」コサックである。

コサック(ウクライナ語でK03aK'ロシア語では~~已の語源は、「自由な独立した人、冒険者、放浪者」を意味するチュルク語の言葉にあるとされる。この語源の通り、農奴制を嫌って逃亡した農民や自由を求めて社会から逃れてきた人々が、コサックとなるのである。彼らはドン、ヴォルガ、ドニエプルなどの大河の流域に独自の社会を築いていった。このうち、ポーランドやリトアニアからドニエプル川流域に逃亡し、一五世紀から一六世紀にかけて形成されたのがウクライナ・コサックである。

彼らの根拠地となったのは、一五五〇年頃にドニエプル川の中州のホルティツァ島に築かれた要塞だった。この根拠地は「シーチ(本営)」と呼ばれ、ここに結集したコサックたちはウクライナ・コサックの中でもドニエプル・コサック、あるいはザポロージエ・コサックと呼ばれるようになった。ザポロージエとは「早瀬の向こう」という意味である。

このコサックたちによって、一七世紀中頃にウクライナの地に国が築かれたのである。それはこの頃ウクライナを支配していたポーランドに対して反乱を起こしたボグダン・フメリニツキーをヘトマン(「頭領」の意)とする、ウクライナ・コサックによるものだった。フメリニツキーはポーランドに対抗するため、コサックと同じ正教徒の国ロシアに協力を求め、ペレヤスラフ協定を結んだ。その結果、ウクライナ・コサックはロシアの宗主権を認める代わりに、自分かちの自治が認められることになったのである。フメリニツキーの乱によって成立した国家はヘトマン国家と呼ばれるが、こうして、完全に独立した国家ではないものの、自治国がウクライナの地に誕生したのである。

さらに、ウクライナ・コサックによる独立を求める動きもあった。それはヘトマン国家成立から約半世紀後のイヅァン・マゼッパによる反乱である。当時、ドニエプル川左岸のウクライナはロシア領になっていたが、マゼッパはヘトマン国家の独立を目指し、かつては良好な関係にあったロシアのピョートル大帝に反旗をひるがえすのである。マゼッパはロシアと戦うために、当時ロシアが戦っていたスウェーデンのカール一二世と同盟を結んだ。しかし、マゼッパとカール一二世の同盟軍は一七〇九年のポルタヴァの戦いで敗れてしまい、ウクライナ独立の夢も砕け散ってしまうのである。その結果、コサックの自治はいっそう制限されるようになっていった。そして、エカチェリーナ二世時代の一七八三年にはヘトマン国家自体が消滅させられ、この地域は「小ロシア」と屈辱的な名前をつけられ、完全にロシアの一部となってしまうのである。

こうしてウクライナ・コサックによる独立の夢はついえた。しかし、自由と独立を求めたウクライナ・コサックの伝統をウクライナの人々は今も忘れない。フメリニツキーの像はキエフをはじめとした様々な町に建ち、マゼッパの肖像を印刷した紙幣もある。

ウクライナ・コサックによる独立の試みは失敗に終わったが、しかしマゼッパの反乱から二世紀以上経た後に、ウクライナがほんのつかの間ではあるが、独立国家を建設したことがある。ロシア革命の時代である。

一九一七年、二月革命が起こると、キエフに民族統一戦線としてウクライナ中央ラーダ(ラーダとはウクライナ語で「会議、評議会」の意)が結成された。中央ラーダは十月革命後の一一月に「ウクライナ人民共和国」の創設を宣言し、翌年一月にはこの国が完全に独立した主権国家であると宣言したのである。しかし、この国は長続きしなかった。四月にはドイツ軍の後押しするスコロパッキーのクーデタによって倒されてしまう。コー月にはディレクト・リア政府によってウクライナ人民共和国は復活するが、この政権がキエフにとどまっていられたのは三ヵ月にも満たなかった。

苦難の道を歩み、二〇世紀末にようやく独立を果たしたウクライナだが、その潜在力は高いという声が多い。科学技術の水準は高く、ソ連時代から工業国として知られていた。石油や天然ガスはほとんど生産されないものの、鉱物資源は豊かで、特に石炭や鉄鉱石は豊富な埋蔵量で知られている。また、ウクライナは肥沃な黒土地帯を有し、古くは「ヨーロッパのパンかご」と呼ばれていたほどの大穀倉地帯でもある。現在も穀物不足が叫ばれているが、ウクライナは将来の食糧危機を救う国のひとつであろうという予想もあるほどだ。ウクライナは今後どうなるのだろうか。注視する価値のある国ではないだろうか。
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