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食の最後の開拓前線(デトロイトの姿)

『未来の食卓』より

デトロイトは豊田市の未来の姿と思っています。

二〇三五年には、近くの小さなショッピングモールや行きつけのファストフード・レストランや大型食料品店で、サハラ砂漠以南の食材や香辛料を目にすることになるだろう。

このことばはクリス・ウォルフのものでもなければ、カラ・ニールセンやスージー・バダラッコやフィル・〝スーパーマーケットの権威〟・レンパートのものでもない。わたしがはじめて行った食の予測だ。

必ずそうなるはずだとわたしが確信を抱いたのは、二〇一〇年の秋にアフリカの食べ物を調査しはじめて数ヵ月後のことだった。もちろん、デトロイトも訪れた。

デトロイトは歴史的に見て、食の流行を育むという点でサンフランシスコや東京やニューヨークに対抗しうる場所ではない。だが、考えてみると、アフリカ料理がほかの場所よりも先にデトロイトに登場するという予想は、じつに理にかなっている。デトロイトは国内でもとくにアフリカ系アメリカ人が多い都市で、ずいぶん前からアフリカ中心主義が色濃かった。また、目下のところ、国内有数の食の都市でもある。

そう、斜陽工業地帯のシンボルとも言うべきこの。モータウン(自動車の町ごが、食の革新家たちのメッカとして台頭してきたのだ。デトロイトは、抱えていた問題-大幅な人口減少(一九六〇年の時点から一四○万人も減った)―を長所に変えた。悲惨ないちじるしい食の砂漠化現象に住民が不満を募らせて(なにしろ、市内には〈セイフウェイ〉〈ジュエル〉〈ホール・フーズ〉などのスーパーが一軒もなかったのだ)、自分たちの手で食べ物を栽培しはじめた。結果として、一〇〇〇ヵ所を超す菜園ができた。わが国最大の青果物直売市があるのは、カリフォルニアのサンタモニカでも、ウィスコンシンのマディソンでもなく、デトロイトだ(ある年の夏は、毎週土曜日に、イースタン・マーケットに四万人の人出があったという)。

このように自動車の町を栽培の町(だれかがこの菜園運動をそう名づけた)に変えることによって、デトロイトは食の改革活動の中心地と化した。妊娠した少女たちのために設けられたある学校では、数種類の果物や野菜、ヤギの乳を独自に生産している。ダウンタウンのMGMグラウンドは一〇○万ドルを投じて屋上菜園を設けた。さらに都市農家から市当局に、放棄された倉庫で魚を育てたいとか、古い空きホテルで高層ビル農業を行いたいとか、かつての自動車走行試験場で小麦を育てたいといった提案が寄せられた。ある投資銀行家はおよそ一六ヘクタールの土地を安く買いあげ、三〇〇〇万ドルを投資して世界最大の都市型農場を築くことを約束した。この農場は、ミミズ養殖、魚の養殖と水耕栽培の一体化、空中栽培といった農業技術のための研究施設となる。

巾街のいたるところで、〝栽培の町〟の兆候を目にすることができる。丹念に育てられたトマ卜、焼け落ちた建物やがらくただらけの駐車場を背景に整然と並んだスイスチャードやレタスやコラード(キャベツの一種)。これらは、ソノマバレーにあるカナードの零細農園のような肥沃な楽園風景とも、サリナスバレーの広大な眺望とも、大きくかけ離れている。だが、アースワーク農園-メルドラムとセントポール通りの交差する角、貧困者のための無料食堂の向かい、放棄された住宅供給計画地の斜め向かいにある農園-は、はっと息をのむような光景だ。廃墟のまっただなかという、およそありえない場所に忽然と出現し、ただ存在するだけでとても美しい。

都市農園運動をこの目で見ただけでデトロイトに行く価値はあったが、アフリカ料理という面ではさほど収穫はなかった。ざっと食の偵察活動を行い、デトロイトの食料雑貨店を何軒か急襲してみたが、アフリカ料理の持ち帰り専門店はなかったし、アフリカ料理の影響もうかがえなかった。デトロイトにただ一軒だけあるナイジェリア料理のレストランは閉まっていた。近郊のマウントクレメンズにはセネガル料理の店があり、たしかに食べ物も出してはいたが、料理店というよりもダンスクラブだった。

のちに、わたしはデトロイトやその近郊にある食料雑貨店に電話してみた(ひょっとして、わたしがモータウンに出かけたときは、アフリカ料理の季節はずれだったのかも?)。おびただしい数の店を電話で調べたあとで、ようやくガンドラムの描写にあてはまるものをひとつ見つけたーロイヤルオークにある〈ホリデイ・マーケット〉の総料理長が、ケニアふうココナッツライスにピーナッツと豚肉を添えた料理をときどき提供していると答えたのだ。
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グローバル空間としての「アジア」と人の移動

『移動という経験』より

グローバリゼーションという語は、世界の均質化や標準化あるいは相互依存の深まりと、国境を越えた分裂や排除を引き起こしてきている差異化/分断化の広がりとの、相反する事象を含意しており、人の移動は、その相反する事象の交差する課題を明らかにしうる問題領域である。グローバリゼーションと呼ぱれてきたさまざまな事象が、一方では統合化や標準化の浸透のように、近代の徹底として進展しつつも、他方では、これまでの欧米を中心とした近代世界を揺るがせている。

アジアにおけるグローバリゼーションは、一方では輝く未来を見出そうとしたプロジェクトとしてあらわれるとともに、他方ではかっての植民地支配を想起させるような絶望的な世界が生みだされてきた。この半世紀あまりの間に、アジアは、世界の工場として急激な産業化を遂げ、ダイナミックに変化しながらも、そのすぐ隣では、これまでかろうじて維持してきた生存手段が奪われ、多くの人びとにとっての生活や雇用不安のいっそうの拡大が引き起こされてきている。現代のアジアにおける人の移動は、グローバリゼーションの光と影を映し出す鏡でもある。

多義的な意味で用いられるグローバリゼーションを、人の移動という観点からアジアという文脈のなかで論じるときに、どのような課題をたてることが可能であるのか。グローバリゼーション研究が提起した課題は、政治や経済において進行する市場化とネオリベラリズム的手法が、メディアや思想においてあらわれてきた文化状況と結びついてあらわれる。そこで要求されるのは、新たにあらわれた事象を丹念に分析するとともに、既存の学問分野を越えて、知の枠組みを組み替える試みである。グローバリゼーションは、たんに経済的な、あるいは政治的・文化的な地理的ボーダーを揺るがせてきただけでなく、これまでの専門分化した分析枠組みのボーダーをも解体してきている。

人の移動も、経済的であるとともに、政治的・文化的かつ社会的な事象である。ここでは、「アジア」としてとらえられてきた対象を、人の移動を通して、グローバリゼーションの観点から読み替えようとするものである。今日、アジアを対象とするということは、アジアという自明と思われてきた地域を問い直すことであり、アジアを対象として分析してきたこれまでの知の枠組みの組み替えや解体をも必要とすることを含意している。移民研究においても、欧米をモデルとした既存の理論やパラダイムの適用だけではなく、アジアと呼ばれる地域での固有の問題を踏まえた問題関心の発見を必要とする。

アジアと呼ばれてきた地域は、その抱える矛盾を含めて、この数十年の間にもっとも大きな変化を遂げた地域のひとつである。アジアあるいは「東洋」はかつては、オリエンタリズムの対象であり、「西洋」に対して「異質な他者」であった。第二次世界大戦の直後の時期は、一次産品あるいは原料や食料の生産・輸出地域であり、膨大な失業人口を抱えた貧困地帯であり、「後進国」・「低開発国」・「発展途上国」・「第三世界」などと呼ばれ、国際機関などによる開発政策/研究の対象であり続けた。しかしその半世紀余りの間に、アジアNICsと呼ばれた新興工業国の躍進、そして最近では中国やインドといった大国の台頭によって、近代世界のなかでアジアという場所が占めてきた位置が大きく変化してきた。そういう時代状況からは、新しい歴史認識の転換としてアジアを考えていくことが求められる。それは、西洋中心の学問のありかたを再審し、国民国家の学あるいは国民国家間の学に収斂してきた戦後社会科学・人文科学を問い直す作業でもあり、アジアにおける「人の移動」は、そうした作業に取りかかる試みのひとっである。
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来年は図書館コミュニティ

オレンジ色のキャリングツール

 あと、4か月、自分しかできないことを精いっぱいやりましょう。

 オレンジ色の大き目なキャリングツールで、自分のスタイルを決めました。考えるのに、必要なものは、この中に入れ込みます。

図書館コミュニティ

 図書館という、圧縮された情報の場に色々なものがあります。まだまだ、充分、使われていません。市民とのコラボレーションを含めて、ここを一つのたたき台にします。ここなら、10年来の馴染みだから、入り込めます。

 図書館は、デジタル化で変わろうとしています。どういうコミュニケーションになるのか。本を無料で貸し出すという根本があります。

 その意味では、図書館コミュニティでの情報共有なら、すぐにアプローチできる。それを地域コミュニティに引き継ぐことも容易です。来年、これがテーマの一つです。
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