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コミュニケーションの場としてのビブリオバトル

『ビブリオバトル入門』より ビブリオバトルの科学 書籍がとりもつ人との出会い

ビブリオパドルの魅力を語る上で欠かすことができない要素の一つに「コミュニケーションの場の提供」があります。私はビブリオバトルはそれ自体がコミュニケーション・メディアとして機能するものだと考えています。

まず初めに「メディア」という言葉について考えてみましょう。普段から新聞やテレビをメディアと呼び慣れている私たちにとって「果たしてビブリオパドルはメディアなのか?」という疑問が浮かび上がるかと思います。また通常の場合、コミュニケーション・メディアといってまず思い出されるのは携帯電話やe-mailといった情報ツールです。しかし「井戸端会議」という言葉があるように、定期的に人があっまる場所は古くからコミュニケーションの場として機能してきました。また西洋では印刷複製技術が普及するまでの間、人々が集まる教会の建築が「見える精神」として信仰を支えるメディアとしての働きをもっていました。教会建築を実際に訪れた人がそのすばらしさを家族や友人知人に語り、これを聞いた人たちが信仰の場に惹きっけられたのです。これは教会建築がきっかけとなってコミュニケーションが生まれ、それによって信者間のコミュニティが形成されたと考えることができます。もちろん今でも教会は、休日に同じ信仰をもつ者同士が顔を合わせて挨拶をかわしあう場として機能しています。このように人々が集まり交流する「場」もコミュニケーション・メディアとして考えることができるのです。ビブリオバトルという、本に興味をもった仲間かあつまり交流する場に参加することによって私たちは、新しい本を知り、その本のもつ魅力に気付き、そして本を紹介してくれた人の人柄を知ることができます。これはまさに「ビブリオバトルの場」が人と人を繋ぐコミュニケーション・メディアとして機能しているからです。

本は古くから知識を時間や場所を越えて伝えるために用いられてきた重要な情報メディアの一つです。 しかし本には、そのなかに書かれた文章の意味内容に含まれない情報をも伝えるメディアとしての能力があるのです。かつて大学生はブックバンドというツールを好んで使っていました。本を束ねて持ち運びできるようにするベルト状のツールです。本を持ち運ぶだけであれば、トートバッグでもリュックでも良いはずです。むしろ本をわざわざ揃えて崩れないように上手くベルトで固定しなければならないブックバンドは不便なツールだと思われます。それなのになぜその当時はブックバンドが好まれたのでしょうか。実はそこに、自己表現メディアとしての本を説明するためのヒントが隠されています。かつての大学生にとっては、自分が読んでいる本を他者に「見せる」ことが大切だったのです。そこには「こんなに分厚い本を読んでいるんだよ」「英語の本だって読めるよ」「哲学に興味があるから」「芸術を勉強しているんだよ」といった実にさまざまなメッセージが含まれているのです。ここでは本は自己表現のためのメディアとして機能しています。このことについては次節でもう少し掘り下げてみます。

このように本には、読む人の興味の対象や趣味ばかりではなく、自分の生活スタイルや生き方をも象徴して伝える働きがあります。つまり好きな本を開示するということは、自分自身を開示することでもあるのです。ビブリオパドルは、このような自己開示の場と、それに関連した議論の場を提供することによって、参加者相互の理解を深めることを狙って設計されています。

ビブリオバトルは「ゲーム」という形式を採ることによって、この自己開示を半強制的に要求しています。これが「自分のことを知って貰いたい」という潜在的な欲求を行動に移すための背中を押すことになります。自分から進んで自己を開示することに抵抗かおる人も、ルールだから仕方がないという理由付けが得られることで自分を表現することができるのです。

コミュニケーションの場として、5分間の発表の後のディスカッション・タイムもとても重要な意味をもちます。聴衆はバトラーの発表を聴いて気になったことを確認したり、コメントしたりすることができます。そしてバトラーは、5分間の緊張から解放されることによって聴衆の質問にリラックスした気持ちで答えることができます。このようにディスカッション・タイムでは、バトラーと聴衆との双方向コミュニケーションがうまく成立するように考えられているのです。
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国力の諸要素 国民性の存在

『国際政治』より 国力の諸要素

国力に影響を及ぼす質的な三つの人的要素のうち国民性と国民の士気は、次の二つの点で特徴をもっている。すなわち、それらは合理的予測という観点からすると把握しにくいということ、そして、それらは国家が国際政治の天秤に加えることのできる重量に永続的かつしばしば決定的な効果を及ぼすということ、である。われわれは、ここでは、どのような要素が国民性の高揚にとって重要であるのかという問題には関心がない。われわれの関心は、ある特定の知性と性格が、ある国家においては他国家よりも一層頻繁にあらわれ、また他国家よりも高く評価されている、という事実に対してだけである。もっともこの事実は、異議のさしはさまれる余地はあるが、とくに「文化類型」という人類学的な概念の観点からは問題はない(と思われる)。次にコールリッジを引用してみる。

「………全国民のなかに息づいていて、しかもすべての国民が同じようにではないにしてもお互いに共有している、目にみえない精神がある。この精神は、人びとの行なう善と悪に、ある色調と特性を与えることになる。そのため、同じ行動--これは同じ言葉によって表現されると私には思われるのだが--は、フランス人とスペイン人の場合とでは、依然として同じものではないのである。しかしこうしたことを、私は否定できない真理であると考えている。これを認めることなくしては、あらゆる歴史は謎となるであろう。同様に次のようにも考えている。諸国家間の相違、諸国家の相対的な偉大さと劣等性は、その精神の結果である。要するに、国家そのものすべて、あるいは国家が行なっているすべてのこと(実際、ある特定の時期のことではない。つまり、大クサンティッポスの率いるカルタゴ人のように、そして後には、カルタゴ人であるハンニバルの率いるカルタゴ人のようにひとりの偉大な人物の偶然的な影響力の下にある場合ではない)は、しかも国家が代々変わりゆく個人をつうじて一個の国として保持するすべてのものは、いま述べた精神の結果なのである。………」

このような性質によって、ある国家は他の諸国家から区別されるのである。またこの性質は、変化に対してかなりの弾力性をもっている。任意に選んだ次のような二、三の例がこの点を物語っている。

ジョン・デュー砲やその他多くの人びとが指摘したように、カントとヘーゲルがドイツ哲学の伝統の代表者であり、デカルトとヴォルテールがフランス精神の代表者であり、ロックとパークがイギリスの政治思想の代表者であり、ウィリアム・ジェームズやジョン・デューイが知的諸問題に対するアメリカ的態度の代表者であるということは、問題にする余地のない事実ではないだろうか。また、このような哲学上の相違は、基本的な知的・道徳的特徴--それはあらゆるレヴェルの思想と行動にあらわれ、なおそれぞれの国家に明白な独自性を与えている--を、最も高いレヴェルの抽象化および体系化によって表現しているにすぎないということは、果たして否定できるであろうか。デカルト哲学の機械論的合理主義と体系的完全性は、それがジャコバン改革の合理主義的熱狂のなかにあらわれたときにまさるとも劣らないほど、コルネーユとラシーヌの悲劇のなかに再びあらわれている。それは、フランスにおける現代の知的生活の多くの特徴となっている学問の形式主義が不毛であることにもあらわれている。またそれは、理論的には完全であるが実際的ではない多くの平和計画-その点で、フランスの政治的手腕は戦間期に秀でていたが--のなかにもあらわれている。他方、ジュリアス・シーザーがゴール人のなかにみいだした知的好奇心という特性は、各時代をつうじてフランス精神の独自の特質として存続してきた。

ロックの哲学も、マグナ・カルタや、法の適正な手続きや、プロテスタントの分派主義などと同様にイギリスの個人主義を示している。道義原則と政治的方便とを教条的にならぬよう結びつけたエドマンド・バークのなかには、一九世紀の選挙法改正案や、ウルジー枢機卿およびカニングのバランス・オブ・パワー政策においてと同様に、イギリス国民の政治的天才があらわれている。ゲルマン部族の破壊的な政治的・軍事的性向についてタキトゥスが述べたことは、フリードリヒ・バルバロッサの軍隊と同様にウィルヘルムニ世やヒトラーの軍隊にも妥当する。そのことはまた、ドイツ外交にみられる伝統的な粗暴さや無器用な過ちにもあてはまる。ドイツ哲学の権威主義、集団主義、国家崇拝は、独裁的政府の伝統のなかに、さらには、いかなる権威もそれがみずから拡大する意志と力とをもっていると思われる限りは盲目的にこれを受容するという態度のなかにあらわれている。それに付随してこれらの主義は、市民的勇気の欠如、個人的権利の無視、政治的自由の伝統の欠如という特徴のなかにもあらわれているのである。トックヴィルの『アメリカの民主主義』のなかで述べられているように、アメリカの国民性についての描写は、一世紀以上経ったあとでも通用している。アメリカのプラグマティズムの優柔不断な性格は、盲目的な教条的理想主義と真理の尺度としての成功に対する信頼との間にみられるが、その性格は、一方における「四つの自由」および大西洋憲章と、他方における「ドル外交」との間でアメリカ外交が動揺していることのなかにあらわれている。
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持続可能性

プロと仕事がしたい

 ソーシャルウェブである理由。「Webマーケティング&集客・販促」を見ると、FacebookとかTwitterを使って、かなりのことができます。

 販売店のシステム会社には、それが感じられません。彼らは、単なるユーザーです。小手先です。何しろ、プロと仕事がしたい。言う相手が居ないのでは、どうしようもない。

図書館のヒット率

 先週の岡崎市立図書館のヒット率は高い。10冊中7冊です。月単位に新刊書が入るみたいです。だから、第1週の日曜日が狙い目です。豊田市は、毎週出てくるけど、予算の都合か、月の真ん中が豊富です。今週の金曜日は狙い目です。

持続可能性

 欲望は無限です。現実は有限です。その矛盾から、持続可能性をどう持ってくるのか。そこから、出てきたのが、「従う」ということです。従業員という言葉に「従う」が入っている。会社に入って、従うことが基本になっている。入れば、済む世界です。持続可能性は、そこからは出てきません。

 サファイアをいかに輝かせるか。構造を変えることしかない。むやみに変えるのではなく、数学的に考え方で変えることです。一人一人が主役になるということ、意味を持つということは責任を持ってやることです。

 個人がそういうものを持たない限り、難しい。夢は何ですか。夢は多様です。会社の従業員になることが夢ではない。会社に従うのはゆめではない。会社を使って、夢を実現することです。

構造を変えようとする

 構造を変えようとするから、歴史から飛び出します。過去の繰り返しではなく、新しい世界を作ることです。

 当然、それはデジャブでもないし、従来の慣行でもない。新しい概念です。人にはなじみがないのは当たり前です。存在の力で意識から変えていく。新しい概念です。チャレンジです。だから、教育が重要だし、成果をどう出していくのか、その成果をどう展開していくのか。

アナロジーとしての共産主義

 これと似たような考え方は、資本家の搾取の認識から出てきた、共産主義です。マルクス以前の原始共産主義です。一種のユートピアです。ロシアで出来たものは、まるで違うものです。中央集権国家です。中国に至っては、単なる、漢民族の国民国家です。

 中国が共産主義ならば、クルマ社会を始めるにあたって、シェアさせていくカタチになったはずです。私有財産を認めないということではなく、むしろ、共有で使っていくことを認める。

 土地自体が共有というのは、国家独占とは異なります。そこに乗るものも共有にしていく。共有というのは、各自の要望を聞いて、インフラ負荷を最低限にするものです。移動する目的に適合させていくことです。

 なぜ、共産主義は中央集権になってしまったのか。計画経済という名のもとに、上からノルマを課す形になった。どこに夢を見たのか。トロッキーの動きを見ていても、何しろ、先に成果を上げないと、潰されてしまうということを感じていた。

 キューバは、あまりにもアメリカに近かったので、逆にゆっくりと変えることができた。クローズドな空間で、やれることをやってきた。個人の分化をせずに、従わせようとしたためです。

 スターリンがウクライナに対して、行ったことは許されない。ウクライナが自分たちが考えて、本来的なことをやっていける可能性は見えてきた。彼らこそが新しい世界を作る可能性を持っている。

本来的なモノを求める

 皆の夢は何なのか。各自の存在の力を示すことです。それ以外のものは本来的ではない。本来的なものを内なる世界に入れ込んで、それ以外を外なる世界に朴り出すことです。存在を示すというのは、何物にも負けない自分です。

 存在である限りは、格差はありえない。一人に一つ。それを大きくすることは可能です。
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