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一神教は不寛容で攻撃的か?

『一神教の起源』より 

典型的な多神教文化を持つわが国では、一神教は自分たちの価値観や考え方と異なるものを排除しようとする点で不寛容で独善的であり、自己の立場を非妥協的に主張する点で攻撃的・暴力的であると否定的に見られることも多い。また、超越的な唯一の神のみを信じ、例えば自然の中に神聖性を認めないので、自然の濫用や環境破壊につながるというような批判も多く見られ、そこから東洋的な多神教やアニミズムの再評価が説かれることも少なくない。たしかに、一般的に見て、指摘されるような傾向が一神教に存在することは必ずしも否定できないし、世界の紛争や戦争にユダヤ教、キリスト教、イスラム教が絡んできたことも少なくない。この点については、それぞれの宗教の信徒の真摯な自覚と反省が必要とされよう。しかし、十字軍やホロコースト、中東戦争やユーゴ紛争を含め、それらの衝突や紛争の多くは、実は宗教戦争ではなく、宗教以外の要因によるものであり、ただ宗教が対立の「旗印」に利用されたとも見られることを忘れてはならない。初期キリスト教は、多神教徒であるローマ人に厳しく迫害されたし、わが国のキリシタンも神仏を奉ずる徳川幕府に弾圧された。二〇世紀における最も長く悲惨な民族紛争の一つは、共に多神教徒であるスリランカの仏教徒(シンハラ人)とヒンドゥー教徒(タミル人)との間のものであった。多神教国であるインドは、カースト制度を持つ点でどの一神教よりも排他的であり、最も強大で過酷な支配を行った世界帝国の多くが、アッシリア、バビロニア、ローマ、モンゴルなど、多神教の国々であったことも忘れてはならない。神道で「八百万の神」を奉じるわが国も、「大日本帝国」の時代には、アジア諸国に対して天皇崇拝を強要するなど、極めて不寛容な支配を行ったのである。

普遍的な絶対的平和の理念を最も早い時期に打ち出したのが、旧・新約聖書であったという事実も指摘しておきたい。ニューヨークの国連本部前にあるモニュメントには、旧約聖書のイザヤ書の一節が刻まれている。

 主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。

 彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。

 国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。

次のイエスの言葉は、平和主義のスローガンとしてしばしば引用される。

 平和を造り出す人々は、幸いである。

 その人たちは神の子と呼ばれる。

 剣を取る者は皆、剣で滅びる。

白か黒かの単純化したレッテルを他者に貼り付け、問答無用で諸悪の根源であるかのように断罪する態度こそ、不寛容な独善であると言えるであろう。

いずれにせよ、寛容ということの本質は、自分たちとは違ったもの、異質なものについても適切な理解を目指すということである。本書が、旧約聖書とそこから生まれた一神教的神観をより適切に理解するうえで、「多神教的風土」である日本に生きる読者のお役に立つことを願って止まない。
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転倒した全体主義

『批評キーワード辞典』より 「世界」

セカイ系が社会の喪失であるということの意味を把握するためには、社会と共同体との差異を強調しておくことが重要かもしれない。たとえば、冷戦の終了を思想的に定義付けようとしたサミュエル・P・ハンチントンの「文明の衝突」は、イデオロギー闘争が世界を二分した冷戦が終わり、これからはアイデンティティの(差異による)闘争の時代が始まるのだと論じた。リペラリズムの勝利を予言し、ネオリペラリズムの拡張を裏から支えたフランシス=フクヤマの「歴史の終わり」を引き受けたこの議論は、その後の世界的な民族紛争の続発を半ば予言して大きな評判を呼んだ。ハンチントンは民族主義、ナショナリズム、文化間の差異を世界の構成単位として認識することを提唱し、世界を共同体から認識することを求めている。国家主権の絶対性が失効し、新たなる《帝国》の時代の到来を指摘したアントニオ・ネグリとマイケル・ハートの『〈帝国〉』も--ある種のグローバリズム論と考えれば当然だが--アイデンティティについて革命(単独的な主体によるマルティチュードの創成)を求めることで、社会ではなく共同体の次元における革命を理想とする。近年流行の『正義論』のマイケル・サンデルも、自身が認めるようにコミュニタリアニズムの系譜に属する思想家であり、他者に対する倫理的義務は、(社会を思考することではなく)共同体を思考することで定められると論じる。私たちはみな、「方法的に社会領域を消去した」世界に住むセカイ系なのである。

シェルドン・ウォリンは、ブッシュ政権下のアメリカの右傾化を批判しながら、「転倒した全体主義」という概念を提出した。私たちの現在は、ジョージ・オーウェルが警告した『一九八四年』のような世界にはならなかったが、それが完全に転倒した結果現れた、もうひとつの全体主義の世界になっているのだと。一方では、それは、政治が経済の従属下に陥って市民が政治に対して希望を失うことであり、他方では、リスク社会化によるテロと失業への恐怖をあおることで、市民の関心を、政治より差し迫った(ように思われる)問題に集中させることにある。テロや失業への恐怖は長期的な政策決定の結果現れるものである。ところが、格差社会の誕生という認識と自助努力というそれへの処方箋は、そうした長期的なプロセスを見えなくさせる。市民が政治や選挙への希望を失えば、富裕層を優遇する政策は逆に容易になり、政治が経済に従属することが結果的には政治家も富裕層も歓迎する政策となる。規制緩和を唱える新自由主義の表向きのスローガンは自由の拡大だが、自由の拡大は、いわゆる滑り台社会において、市場の有能なプレーヤーになって二四時間働き続けることを求める全体主義国家なのだとウォリンは主張する。つまり、社会的な保障とセーフティーネットを失った(政府がその役割を放棄した)新自由主義のセカイは、全体主義的なのだと。

このような見取り図を補助線として引くことで、たとえば、カズオ・イシグロの『わたしを離さないで』(二〇〇五年)や村上春樹の『IQ84』(二〇〇九-一〇年)を、ここまで論じてきた新自由主義の反映としてのセカイ系の枠組みに関連づけることができるだろう。イシグロの作品の奇妙な特徴は、その世界の悪であるクローン人間の生産を強制する社会の描写が作中まったくと言っていいほど欠落していること、そして同時に、その世界に抵抗しようとする主人公たちの想像力のなかに、(その制度自体を改めようとする)社会的な想像力が一切現れることなく、逆に、愛の力によってのみその制度をサヴァイヴできると主人公たちが信じることである。社会はここでも欠落している。

この社会の欠落を、新左翼の共同体主義から、その宗教団体への変容というプロセスをたどることで、系譜的に位置づけようとしたのが、(明示的に『一九八四年』への応答として「転倒した全体主義」を描く)『IQ84』である。そもそも村上は、大ベストセラーとなった『ノルウェイの森』(一九八七年)において、一九六九年を、政治の季節から愛と死の季節へと変容させていた。いわばこの変容を反省的にたどり直したのが『IQ84』であり、そこでもまた、『わたしを離さないで』と同じように、セカイにおける抵抗は愛の力によってのみ可能と想像されることになる。しかし、『わたしを離さないで』の結末は、愛による解決の不可能性を示しているし、『IQ84』はよりニュアンスに富んではいるが、そもそも主人公間の愛を超自然的なものに設定することで、愛による解決の信頼性を括弧に入れている。二作はともに、新自由主義化したセカイが、愛という私的な抵抗しか許さない「転倒した全体主義」のレジームであることを示している。このセカイにおいて、私たち新自由主義下の主体は、(政治的、社会的想像力を予め奪われて)愛することだけが許され、愛だけのために生きる家畜なのだと。

社会とは、客観的な構造を内包し、それゆえ、その内部に利益の不一致が必然的に存在すると想像されるものである。対して、自由な人々のつながり、絆として想像される共同体は、リベラリズムの想像力であると同時に、愛によって正当化されるセカイである。思えば、この系譜は、ディザスター映画を純愛映画に翻訳し、愛をアイデンティティとして表象することで大ヒットした『タイタニック』(一九九七年)から続いている。転倒した全体主義としての新自由主義的なセカイは、共同体と愛によって管理運営される。そもそもセカイ系作品もまた、本質においてはそうであったように。共同体と愛は、新自由主義のセカイをより住みやすいものにするであろうが、新自由主義のセカイを変革するものではなく、継続させるものである。
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岡崎市立図書館の10冊

岡崎市立図書館の10冊

 131.3『「国家」逆説のユートピア』プラトン 書物誕生

 223.8『ビルマ・ハイウェイ』中億とインドをつなぐ十字路

 002『デジタル人文学のすすめ』

 292.3『アンコールワット・ホーチミン』

 312.1『未来の選択』僕らの将来は、政策でどう変わる?

 333.6『グローバル経済の誕生』貿易が作り変えたこの世界

 361.7『都市のリアル』

 024.9『蔵書の苦しみ』予約本

 G293.7『サルデーニャ島の小さな町々』南イタリア 全島に散らばるヌラーゲ、人々を山中へ追い上げた湿地帯、羊飼いの伝統、外部勢力もくわわった海岸ぞいの町々 列車とバスによる挑戦の旅Ⅳ

 293『スラヴの十字路』
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