『国際政治』より 国力の諸要素
国力に影響を及ぼす質的な三つの人的要素のうち国民性と国民の士気は、次の二つの点で特徴をもっている。すなわち、それらは合理的予測という観点からすると把握しにくいということ、そして、それらは国家が国際政治の天秤に加えることのできる重量に永続的かつしばしば決定的な効果を及ぼすということ、である。われわれは、ここでは、どのような要素が国民性の高揚にとって重要であるのかという問題には関心がない。われわれの関心は、ある特定の知性と性格が、ある国家においては他国家よりも一層頻繁にあらわれ、また他国家よりも高く評価されている、という事実に対してだけである。もっともこの事実は、異議のさしはさまれる余地はあるが、とくに「文化類型」という人類学的な概念の観点からは問題はない(と思われる)。次にコールリッジを引用してみる。
「………全国民のなかに息づいていて、しかもすべての国民が同じようにではないにしてもお互いに共有している、目にみえない精神がある。この精神は、人びとの行なう善と悪に、ある色調と特性を与えることになる。そのため、同じ行動--これは同じ言葉によって表現されると私には思われるのだが--は、フランス人とスペイン人の場合とでは、依然として同じものではないのである。しかしこうしたことを、私は否定できない真理であると考えている。これを認めることなくしては、あらゆる歴史は謎となるであろう。同様に次のようにも考えている。諸国家間の相違、諸国家の相対的な偉大さと劣等性は、その精神の結果である。要するに、国家そのものすべて、あるいは国家が行なっているすべてのこと(実際、ある特定の時期のことではない。つまり、大クサンティッポスの率いるカルタゴ人のように、そして後には、カルタゴ人であるハンニバルの率いるカルタゴ人のようにひとりの偉大な人物の偶然的な影響力の下にある場合ではない)は、しかも国家が代々変わりゆく個人をつうじて一個の国として保持するすべてのものは、いま述べた精神の結果なのである。………」
このような性質によって、ある国家は他の諸国家から区別されるのである。またこの性質は、変化に対してかなりの弾力性をもっている。任意に選んだ次のような二、三の例がこの点を物語っている。
ジョン・デュー砲やその他多くの人びとが指摘したように、カントとヘーゲルがドイツ哲学の伝統の代表者であり、デカルトとヴォルテールがフランス精神の代表者であり、ロックとパークがイギリスの政治思想の代表者であり、ウィリアム・ジェームズやジョン・デューイが知的諸問題に対するアメリカ的態度の代表者であるということは、問題にする余地のない事実ではないだろうか。また、このような哲学上の相違は、基本的な知的・道徳的特徴--それはあらゆるレヴェルの思想と行動にあらわれ、なおそれぞれの国家に明白な独自性を与えている--を、最も高いレヴェルの抽象化および体系化によって表現しているにすぎないということは、果たして否定できるであろうか。デカルト哲学の機械論的合理主義と体系的完全性は、それがジャコバン改革の合理主義的熱狂のなかにあらわれたときにまさるとも劣らないほど、コルネーユとラシーヌの悲劇のなかに再びあらわれている。それは、フランスにおける現代の知的生活の多くの特徴となっている学問の形式主義が不毛であることにもあらわれている。またそれは、理論的には完全であるが実際的ではない多くの平和計画-その点で、フランスの政治的手腕は戦間期に秀でていたが--のなかにもあらわれている。他方、ジュリアス・シーザーがゴール人のなかにみいだした知的好奇心という特性は、各時代をつうじてフランス精神の独自の特質として存続してきた。
ロックの哲学も、マグナ・カルタや、法の適正な手続きや、プロテスタントの分派主義などと同様にイギリスの個人主義を示している。道義原則と政治的方便とを教条的にならぬよう結びつけたエドマンド・バークのなかには、一九世紀の選挙法改正案や、ウルジー枢機卿およびカニングのバランス・オブ・パワー政策においてと同様に、イギリス国民の政治的天才があらわれている。ゲルマン部族の破壊的な政治的・軍事的性向についてタキトゥスが述べたことは、フリードリヒ・バルバロッサの軍隊と同様にウィルヘルムニ世やヒトラーの軍隊にも妥当する。そのことはまた、ドイツ外交にみられる伝統的な粗暴さや無器用な過ちにもあてはまる。ドイツ哲学の権威主義、集団主義、国家崇拝は、独裁的政府の伝統のなかに、さらには、いかなる権威もそれがみずから拡大する意志と力とをもっていると思われる限りは盲目的にこれを受容するという態度のなかにあらわれている。それに付随してこれらの主義は、市民的勇気の欠如、個人的権利の無視、政治的自由の伝統の欠如という特徴のなかにもあらわれているのである。トックヴィルの『アメリカの民主主義』のなかで述べられているように、アメリカの国民性についての描写は、一世紀以上経ったあとでも通用している。アメリカのプラグマティズムの優柔不断な性格は、盲目的な教条的理想主義と真理の尺度としての成功に対する信頼との間にみられるが、その性格は、一方における「四つの自由」および大西洋憲章と、他方における「ドル外交」との間でアメリカ外交が動揺していることのなかにあらわれている。
国力に影響を及ぼす質的な三つの人的要素のうち国民性と国民の士気は、次の二つの点で特徴をもっている。すなわち、それらは合理的予測という観点からすると把握しにくいということ、そして、それらは国家が国際政治の天秤に加えることのできる重量に永続的かつしばしば決定的な効果を及ぼすということ、である。われわれは、ここでは、どのような要素が国民性の高揚にとって重要であるのかという問題には関心がない。われわれの関心は、ある特定の知性と性格が、ある国家においては他国家よりも一層頻繁にあらわれ、また他国家よりも高く評価されている、という事実に対してだけである。もっともこの事実は、異議のさしはさまれる余地はあるが、とくに「文化類型」という人類学的な概念の観点からは問題はない(と思われる)。次にコールリッジを引用してみる。
「………全国民のなかに息づいていて、しかもすべての国民が同じようにではないにしてもお互いに共有している、目にみえない精神がある。この精神は、人びとの行なう善と悪に、ある色調と特性を与えることになる。そのため、同じ行動--これは同じ言葉によって表現されると私には思われるのだが--は、フランス人とスペイン人の場合とでは、依然として同じものではないのである。しかしこうしたことを、私は否定できない真理であると考えている。これを認めることなくしては、あらゆる歴史は謎となるであろう。同様に次のようにも考えている。諸国家間の相違、諸国家の相対的な偉大さと劣等性は、その精神の結果である。要するに、国家そのものすべて、あるいは国家が行なっているすべてのこと(実際、ある特定の時期のことではない。つまり、大クサンティッポスの率いるカルタゴ人のように、そして後には、カルタゴ人であるハンニバルの率いるカルタゴ人のようにひとりの偉大な人物の偶然的な影響力の下にある場合ではない)は、しかも国家が代々変わりゆく個人をつうじて一個の国として保持するすべてのものは、いま述べた精神の結果なのである。………」
このような性質によって、ある国家は他の諸国家から区別されるのである。またこの性質は、変化に対してかなりの弾力性をもっている。任意に選んだ次のような二、三の例がこの点を物語っている。
ジョン・デュー砲やその他多くの人びとが指摘したように、カントとヘーゲルがドイツ哲学の伝統の代表者であり、デカルトとヴォルテールがフランス精神の代表者であり、ロックとパークがイギリスの政治思想の代表者であり、ウィリアム・ジェームズやジョン・デューイが知的諸問題に対するアメリカ的態度の代表者であるということは、問題にする余地のない事実ではないだろうか。また、このような哲学上の相違は、基本的な知的・道徳的特徴--それはあらゆるレヴェルの思想と行動にあらわれ、なおそれぞれの国家に明白な独自性を与えている--を、最も高いレヴェルの抽象化および体系化によって表現しているにすぎないということは、果たして否定できるであろうか。デカルト哲学の機械論的合理主義と体系的完全性は、それがジャコバン改革の合理主義的熱狂のなかにあらわれたときにまさるとも劣らないほど、コルネーユとラシーヌの悲劇のなかに再びあらわれている。それは、フランスにおける現代の知的生活の多くの特徴となっている学問の形式主義が不毛であることにもあらわれている。またそれは、理論的には完全であるが実際的ではない多くの平和計画-その点で、フランスの政治的手腕は戦間期に秀でていたが--のなかにもあらわれている。他方、ジュリアス・シーザーがゴール人のなかにみいだした知的好奇心という特性は、各時代をつうじてフランス精神の独自の特質として存続してきた。
ロックの哲学も、マグナ・カルタや、法の適正な手続きや、プロテスタントの分派主義などと同様にイギリスの個人主義を示している。道義原則と政治的方便とを教条的にならぬよう結びつけたエドマンド・バークのなかには、一九世紀の選挙法改正案や、ウルジー枢機卿およびカニングのバランス・オブ・パワー政策においてと同様に、イギリス国民の政治的天才があらわれている。ゲルマン部族の破壊的な政治的・軍事的性向についてタキトゥスが述べたことは、フリードリヒ・バルバロッサの軍隊と同様にウィルヘルムニ世やヒトラーの軍隊にも妥当する。そのことはまた、ドイツ外交にみられる伝統的な粗暴さや無器用な過ちにもあてはまる。ドイツ哲学の権威主義、集団主義、国家崇拝は、独裁的政府の伝統のなかに、さらには、いかなる権威もそれがみずから拡大する意志と力とをもっていると思われる限りは盲目的にこれを受容するという態度のなかにあらわれている。それに付随してこれらの主義は、市民的勇気の欠如、個人的権利の無視、政治的自由の伝統の欠如という特徴のなかにもあらわれているのである。トックヴィルの『アメリカの民主主義』のなかで述べられているように、アメリカの国民性についての描写は、一世紀以上経ったあとでも通用している。アメリカのプラグマティズムの優柔不断な性格は、盲目的な教条的理想主義と真理の尺度としての成功に対する信頼との間にみられるが、その性格は、一方における「四つの自由」および大西洋憲章と、他方における「ドル外交」との間でアメリカ外交が動揺していることのなかにあらわれている。
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