日々のことを徒然に

地域や仲間とのふれあいの中で何かを発信出来るよう学びます

痕跡

2010年10月21日 | 生活・ニュース
           

奄美大島では台風13号から流れた雨雲が前線を刺激し観測史上最多の雨量を記録している。その雨はまだ続くという。TVで「どうして通信のインフラが整備されていないのか」とコメンテーター。地方の実態を知ってほしい、と思った。

今年は局地的豪雨が各地で頻発し、大きな被害が発した。広島県では集落が集団移転に踏み切った地区の様子が報道されている。ふるさとを出なければならなくした自然災害の猛威を改めて知らされる。

幸いにそれほどまでには至らなかったが、今年の夏を思い出せばいくつかある。短時間だったがどしゃ降りの雨が道を川に変えた。ダムの放流が何日間も続いた。防災情報をこまめにチェックした日もあった。錦川の増水を見に川土手まで何回も見に出た日もあった。

いつの増水でそうなったか知らないが、自然が自然のままに作った竹アートが岩徳線の錦川鉄橋の橋脚にある。上流から流れ来た竹が橋脚で折れ曲がりUの字になって引っかかっている。それはみんな同じ形をしいる。上手く引っかかったものだと思う。

朽ちてもろくなり、また、いつかやってくる増水のときに下流へ旅していくのだろう。それまでのアート展、気づく人はいないかもしれない。

(写真:橋脚と折れ曲がった竹)
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緑色の堀

2010年10月20日 | 地域
           

その昔は濠という重要な役目を担っていたかも知れないが、今は公園の堀として、訪れる人に周辺の四季のたたずまいを映してみせる。

そこでは、色鮮やかな鯉が悠々と水の中を進む。いつから住み着いたか亀も年々その数が増えている。季節の水鳥も羽をやすめ先住の生きものとひと時を過ごしている。こんなときは水面がひときわ華やかになる。

この堀でいち番大きな生きものは白鳥。近づいても人を恐れる気配は全く見せず、そばへ寄ってくることもある。今、白鳥のその白さが堀の中でひときは映えている。

何かの植物が繁茂しているのか、堀がこれまで見たことのない鮮やかな緑色に覆われている。あの鯉も亀も見えない。緑色の下でどうしているのか、思いながらも水面下を伺うすべがない。

これまでに記憶のない堀の色を見ながら、猛烈な暑さを経験した自然の反応なのかと、澄み渡る秋空を映さない堀を後にした。

(写真:緑をバックに一心に羽を綺麗にしている白鳥)
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きらきら

2010年10月19日 | 生活・ニュース
           

生き生きとした人を「きらきら輝いている人」という。それにはマスコミに名前の出る有名人もそうでない人もある。そうでない人が多いかもしれない。そうでない人を身近で知っている。

輝いている人とはどんな人だろうか。学生と社会人では違うだろうが共通点は「一生懸命頑張っている人」だと思う。学生なら勉学を、社会人なら仕事を頑張っている人だろう。地道なことを真面目にこなす人へは自然に敬意が湧く。輝いているというのは周りが感じることで、その人が思うことではない。

ひんやりとした空気は冷たくて肌寒く、星はいやにきらきらと輝いて見える。公園のもみじは少し紅葉を始めた葉も見えるが、まだまだ時間がかかりそうだ。それでも日中は少し動けば汗ばむような休日の午後、子どもらが膝まで川へ入り、しゃがんで見ている母親と会話しながら、遊んでいる。

秋の午後の日が川面の波へきらきらと反射している。何をして遊んでいるのか遠くでよく判らなかったが、眺めていてなんとも穏やかな光景だった。あんな風にきらきら光る人になって欲しい、子どもたちのはしゃぐ声にそう祈った。

(写真:きらきらする川面で遊ぶ子ら)
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雲の形

2010年10月18日 | 自然 季節
           

秋の澄んだ空、そこに漂う白い雲の写真、そして秋へのいろいろな想いがブログで紹介されている。みなさんいい秋に出会われている。閉じこもっていては出会えない、と散歩に出た。

手を伸ばして親指を立てる。浮かんでいる雲がその指先からはみ出ていたらひつじ雲、小さかったらいわし雲、そんなにわか仕込みの見分け方を頼りに出かける。白いけれどどちらにも当たらない風呂敷を広げたような雲ばかりが流れている。

雲の形は風まかせ、地上からではどうしようもない。いい形に出会えたら幸いと、悟ったような風をしながらも秋空が気になり何度も見上げる。歩いては見上げるをくりかえす。

何度目か「これはいかがですか」、と石膏で作った人形のような顔が見える。モンスター面の黒い雲はみているが、こんな人面は面白い。あわてて数回シャッターを押すうちに人形は姿を変えた。願いが通じたような変わった雲の形に感謝した。

パソコンへとり込んで見直した。高齢男性の横顔のようでもある。犬が泳いでいるようでもある。ひとの顔がこちらを向いているようでもある。TVマンガに登場する子どもの主人公のようでもある。世の中、自分流に解釈すれば好き勝手が出来る。それを戒めるような白い変形雲だった。

(写真:初めは人面と思った雲の形)
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岩国藩と疱瘡の闘い

2010年10月17日 | 町かど
           

市営バス千石原バス停から狭い旧道へ歩いて入る。山裾沿いを御庄方面へ数分くらい進んだ左側に小さな鳥居が立っており、それをくぐると、狭い境内の奥にひっそりとした小さな社がある。その背中は岩国城のある城山に接しているかのように見える。

そこは「稲背脛命を祭神とする疱瘡除けの神社」と説明されている鷺神社。天正年間、吉川広家の重臣若林宗甫の子が霊夢によって鷲大明神に祈念して疱瘡が平癒し、若林氏が崇敬するようになった。

慶長5(1600)年岩国に移った時、鷲大明神を勧請した。若林氏の家臣の子が重い疱瘡から救われたことにより、その霊験のあらたかさが周囲に知らされた。寛文10(1670)年、吉川家3代広嘉はこの鷲大明神を疱瘡退散の神として再興している。広嘉は少年のころ、疱瘡を患ったという記録がある。

疱瘡の恐ろしさから開放されたのは名医ジェンナーの出現だった。それまで岩国藩も藩主を守り抜くため様々な方策をとった。その核心をなすのが「疱瘡遠慮定」という。細部にわたり具体策が示されている。

その中で関心を持ったのは「完全隔離策」だった。患いの本人は勿論、家族や患者と接触した者は隔離された。隔離後は家族といえども接近すらさせなかった。また、患者の家に対しては隔離療養の費用を支給し、平年で200石以上あったという。


隔離は定められた「疱瘡村」とし、旅人も域内住民と同じに隔離した。こうした方策中も疱瘡が流行した。市内には亡くなった人を弔った疱瘡墓がいくつかあるそうだ。流行すると白山宮・椎尾宮・白崎八幡宮などで祈祷した記録が多く残されている。

嘉永3(1850)年1月に家中の士へ、同年3月吉川経幹が種痘した。同じ5月より在中諸民へ種痘が開始された、とある。長い長い疱瘡との闘いが偲ばれる。今も新しい難病に苦しみ、それを救わんと挑む人たちがいる。藩主を守るためとはいえ、文明の違うかっての流行病とのすさまじい闘いが偲ばれる。

(写真:城山に接するように建っている疱瘡平癒の鷺神社)
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実りの秋だが

2010年10月16日 | 生活・ニュース
           

夏の異常気象でキノコ類の生育がものすごくいいと評判になっている。道の駅など直売所での売り上げも伸びているという。それを追っかけるように毒キノコによる中毒発生が大きく報道されている。素人では見分けがつかないらしい。

「図鑑で勉強しただけでは毒キノコは見分けられません」とキノコ狩り参加者の感想があった。だからお店のものなら安心と秋を味わったら食べてはいけないキノコだった、ではたまらない。

松茸はキノコと違ってまだ豊富に出回っていない。というのは中国やアメリカ産は見かけるが、地物はスパーに並んでいない。雨も降ったので期待できるという人もあるが、庶民の口へはなかなか入らない。木の子ご飯へ松茸の吸い物の素を加えて焚くと、いい香りになります。

柿や栗は渋さを避ければ安心して食べれる。その柿も今年は裏作という。近所でいつも鈴なりの木にわずかしか実が見えない。栗も山中で野生の生き物の餌になっているとか。実りの秋、何が狂っているのだろう。

角を曲がったら栗のイガが見えた。「おっ、落ちている、実があるか」とちょっと小走りに駆け寄った。「残念でした」と栗のイガは口を開けて笑っていた。収穫なし。近くでは銀杏を拾う人も多い。ミカンも店頭に並び始めたが、猛暑と水不足で収穫量が心配されている。今年の味は、まだ仏壇に供わっている。

(写真:来るのが遅いと笑っている栗のイガたち)
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考えをハッキリと

2010年10月15日 | 地域
           

各地で市議の大幅な議員数削減や報酬の引き下げなど、身近な自治体のあり方について関心と議論が高まっている。そんな中で17日告示、24日投開票の日程で市議選が行われる。その入場券も届いた。18日からは期日前投票も可能になる。

今回から定員は2名減の32名、立候補予定者は説明会のときより数名減で40台前半といわれている。10名余の候補者は無念という事になる。

いつの選挙でも同じだが、近づくと連日ように候補予定者のチラシが入る。中には玄関まで出るように求める陣営もある。議会報告を定期的に発行している人のチラシは、継続性があり賛否は別にして内容が理解できる。

選挙直前だけチラシを発行する現職のそれには、なんとも嘘っぽいものもある。土木建設関係の工事を「私がやりました」と100項目近くも並べてある。こういう人は当選率が高いそうだが、困ったことと思う。

肝心の艦載機移駐に関連する幾つかの問題にはひと言も触れない候補予定者もある。市民が関心を持っていることだけに、自身の考えを示して欲しい。

候補予定者に残された日は少ない。自分の姿勢を明確にして臨んでほしい。

(写真:候補者のポスター掲示板)
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よみがえれ美竹林

2010年10月14日 | 町かど
           

「名勝錦帯橋近くの錦川沿岸竹林は、かって、京都の嵯峨野・岐阜県の揖斐川とともに、日本三大美竹林として称されていましたが、近年放置され、竹藪化しています」と、美竹林ボランティア錦川の掲示が立ている。

この竹林は毎日のウオーキングのコース沿いにある。古い竹は気ままな方向へ折れ、雑草は伸びるに任せ、蔓は竹も雑草もお構いなしにひと括りにしているなど、まさに荒廃という様相だった。春の竹の子も伸び放題、陽射しが入り込む余地のないほど混んでいた。

ボランティア錦川は「竹林を整備し、美竹林として再生するとともに、竹林内にある古道の再生と竹垣を設置することにより、名勝錦帯橋に見合う景観・歴史資源・市民の癒しの場として広く利用される竹林とする」活動を起こされた。

あの荒れ果てていた竹林は徐々に生き返り、手入れされた地面に陽射しが届いている。竹の葉を通り抜けた月の光が幻想的な模様を描き、笹の葉が風に揺れるとその模様が舞っているようにも見える。ここ数年ですっかり変わった。

丁寧に作られた竹垣の道を歩くと、岩国藩士の一団がやって来そうな雰囲気へタイムスリップしそうになる。茶店でもあるとその雰囲気はをもっとかもし出すかもしれない。この竹林では茶会が催されることがある。1度その味を味わってみたい。

(写真:岩国藩時代へ通じそうな竹垣の道)
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生 還

2010年10月13日 | 生活・ニュース
           

チリ北部鉱山落盤事故で待ちわびた「奇跡」が現実のものとなったその瞬間、「よかった」それしか言葉がなかった。

8月5日の事故以来、地下約700メートルに閉じこめられていた作業員が救出カプセル「フェニックス」で69日ぶりに最初に救出、いやあえて生還と呼びたい、その人の落ち着いた様子にホットした。待っていた男の子の泣き声が印象に残った。

地底700メートルでの33人の過酷だった生活はこれから明らかになるだろう。そこには素晴らしいリーダーの存在と、生きるという男たちの強い気持ちが団結力となり、それが今日に繋がったと心から思う。

日本から遠く離れた国の鉱山での落盤事故、当初は報道されなかった。それが地下700メートルで全員の生存が確認されてから大きく報道され、知るところとなった。地下というより地底の感じさえする。

救出には2日かかるという。世界中の人が見ている。安全第一で地上に出られることを願いながらその様子を見ている。

(写真:左側が最初の生還者、NHK-TVより)
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岩国の剣客 2

2010年10月12日 | 町かど
           

岩国が出した剣士として有名な人がもう1人いる。その名は宇野重義、通称を金太郎と呼んだ。文政11(1828)年に今津に生れ、小鼓の家、宇野正九郎の養子となるが、剣道を片山流の正統・片山友猪の門に学んだ。

弘化4(1847)年に藩校養老館の師範となる。嘉永元年(1848)から数度に渡って江戸へ修行の旅に出ている。修行の途中で各地の武家で剣道の指南を委託せられている。文久2(1862)年2月藩主吉川経幹より正宗の短刀を授与せられたその功を賞された。同年8月35才の若さで死去したのは惜しまれる。

これだけでは金太郎の強さやその剣術について伝わらないが、逸話が20編あまり紹介されている。母堂が飯を盛られる間も箸で剣に換え撃刺しの状をなし、工夫を怠らず、ついに箸をとり、飛んでいる蝿をはさむことが出来るようになったという。

ある日萩藩の桂小五郎が岩国来て宇野先生に試合を申し込んだ。桂は「お小手なり」と打ち込んだ。「失礼ながら肘の上では竹刀剣法としては真の小手ではない。明日、真の小手をお打ちしよう」。翌日、宇野先生は上段の構えからただ一撃、桂は「参りました」といい、手や腕の療養をしたという。

数々の勝負でいかなる剣豪にも負けなかった金太郎が負けた逸話。「当時の武道者は、豪壮をもって任じよく食することを誇り、かえって衛生面をゆるがせにした傾向があった。宇野氏も『うなぎ』を暴食し、ついに一命をおとしたことは惜しみてもあまりある」(原文のまま)。38歳の若さで死去。

昔から「柔能く剛を制す」という。剣豪がにょろっとしたウナギに負けた逸話、作り話でないだけに剛にも弱みがあった、とほっとさせる。

(参考:郷土岩国のあゆみ)

(写真:宇野金太郎の墓がある普済寺の遠景)

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