日々のことを徒然に

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岩国藩と疱瘡の闘い

2010年10月17日 | 町かど
           

市営バス千石原バス停から狭い旧道へ歩いて入る。山裾沿いを御庄方面へ数分くらい進んだ左側に小さな鳥居が立っており、それをくぐると、狭い境内の奥にひっそりとした小さな社がある。その背中は岩国城のある城山に接しているかのように見える。

そこは「稲背脛命を祭神とする疱瘡除けの神社」と説明されている鷺神社。天正年間、吉川広家の重臣若林宗甫の子が霊夢によって鷲大明神に祈念して疱瘡が平癒し、若林氏が崇敬するようになった。

慶長5(1600)年岩国に移った時、鷲大明神を勧請した。若林氏の家臣の子が重い疱瘡から救われたことにより、その霊験のあらたかさが周囲に知らされた。寛文10(1670)年、吉川家3代広嘉はこの鷲大明神を疱瘡退散の神として再興している。広嘉は少年のころ、疱瘡を患ったという記録がある。

疱瘡の恐ろしさから開放されたのは名医ジェンナーの出現だった。それまで岩国藩も藩主を守り抜くため様々な方策をとった。その核心をなすのが「疱瘡遠慮定」という。細部にわたり具体策が示されている。

その中で関心を持ったのは「完全隔離策」だった。患いの本人は勿論、家族や患者と接触した者は隔離された。隔離後は家族といえども接近すらさせなかった。また、患者の家に対しては隔離療養の費用を支給し、平年で200石以上あったという。


隔離は定められた「疱瘡村」とし、旅人も域内住民と同じに隔離した。こうした方策中も疱瘡が流行した。市内には亡くなった人を弔った疱瘡墓がいくつかあるそうだ。流行すると白山宮・椎尾宮・白崎八幡宮などで祈祷した記録が多く残されている。

嘉永3(1850)年1月に家中の士へ、同年3月吉川経幹が種痘した。同じ5月より在中諸民へ種痘が開始された、とある。長い長い疱瘡との闘いが偲ばれる。今も新しい難病に苦しみ、それを救わんと挑む人たちがいる。藩主を守るためとはいえ、文明の違うかっての流行病とのすさまじい闘いが偲ばれる。

(写真:城山に接するように建っている疱瘡平癒の鷺神社)
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