日々のことを徒然に

地域や仲間とのふれあいの中で何かを発信出来るよう学びます

岩国の剣客 1

2010年10月06日 | 町かど
           

片山伯耆守久安は、天正3(1575)年に生まれ、初め藤次郎または勝次郎といい、駿州片山の里で、伯父松庵について学び、居合18刀の伝授を受け、京都の愛宕神社に参籠して悟りを開いたという。元亀・天正から慶長・寛永(1570年~1644年ころ)の時代は剣道の非常に盛んなときで、剣客が次々と雲のごとくあらわれてにぎやかっだた。

関白秀次は、久安が20歳のときその武名を聞きわが師として招いた。秀次の死後、豊臣家を継いだ秀頼も久安を師とし「武将2代の師」となった。元和元年(1615年)豊臣家は徳川家に亡ぼされた。その時久安は41歳、大阪を去り流浪に出る。

この年岩国の地に入り、岩国藩主吉川広家に客分として迎えられ、嗣子広正の師範役となる。これによって吉川藩の剣道は片山流によって最初の道が開かれた。久安は芸州や九州にも伯耆流を広めた。九州では肥後を中心に行われ、今も盛んだといわれる。

久安の武道観は「天理に従って天下ことなく平和であることが武の理想である」とした。武の字を解釈して「戈(ほこ)を止めるのではなく戈がやむのである」を理想とした。戈とは敵を突き刺すのに用いるとある。戈が止む、戦をしない、今にも通じる。

慶安3(1650)年3月に死す。

伯耆流は第八代・片山武助久道まで伝えられたが、武助は伝承を断念し昭和19(1944)年に伝書を含む家伝の古文書を吉川報效会に寄贈した。これらの伝書等は現在、岩国徴古館に収蔵されている。

(参考:郷土岩国のあゆみ より)

(写真:片山伯耆守久安の墓がある普済寺山門)
コメント (2)
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