知人のブログに秋満喫中とし、そのひとつに栗に柿、梨にぶどうなど近場で採れた果物を味わっていると、かごに盛ったそれらの写真を載せている。栗も梨もぶどうも一応味わった。残るは柿、通り過ぎる道路沿いの柿の木にかなりの実がなっているのをみて、仲間内で楽しむ農園周りの柿の木のなり具合を気にしていた。
前夜の雨は止み農園に着いた頃には青空も見え始め作業ははかどる。柿の木の下での休憩時間、見上げるとどの木も数個あまりしか実がなついていない。聞くと今年は不作と教えられた。昨年はどっさりと分け前を貰いドライフルーツ風にして食し、堪能した。夢再びにはならなかった。特別に手をかけているわけではない、これが自然の生業だろう。
農園仲間には私より経験の浅い人もあり、大根の種を見て「これがあんなに大きく育つの」と驚きながら触っている。その驚きに驚いたが、何事も初めはそこから始まるのだろう。一粒万倍という熟語がある。わずかなものから多くの利益を得ることから、些細なものでも軽んじてはいけないと戒める。小さな種一粒に宿る命も粗末にできないことを教える。
そんな小さな一粒が大根となるまでは何度も間引き菜の作業がある。万倍の大きさの1本に育つまでにそれに負けないくらいの間引き菜の収穫があり食卓にのる。青菜に塩、青菜に塩をふりかけるとしおれることから、人が力なくしおれた様をいうが、間引き菜と塩の相性は格別でご飯のお代わりを促すこの時期ならでばの一品、冷蔵庫で熟成中。