みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

レビ人の町

2013年07月04日 | ヨシュア記
ヨシュア記21章1-26節
 

 「ヨシュア記も前半は面白いが後半は地名の羅列で読むのが大変」と思っておられる方もいるでしょう。富士登山でいえば胸突き八丁。頂上まで8丁(およそ872メートル)の険しい上り坂にあたります。もう少し!
 
 「もう少し」といえば、以前中学生のためのアウトキャンプで登山をした時のことを思い出します。
 中学生が「ねぇ、まだぁ?」と聞いてきますので、私はその度に「もう少し!」と答えていました。ところが、私の「もう少し!」はそこから先がまだ長かったようで、あまり信じてもらえませんでした。疲れている自分を励ます意味で、「もう少し!」と言っていたのですが…。

 きょうの箇所を読みながら、メモをしました。
 メモするのは、このような箇所を読み飛ばさないための方法の一つです。聖書地図を脇に置きながら、地名をメモしていきました。レビ人の町が割り当て地にちりばめられているのがわかります。

 「主が相続地」であるレビ人が、住むべき町と放牧地だけをイスラエルの割り当て地のあちらこちらに与えられたことの意義を考えてみました。なぜ、レビ人は固まって住むようにはならなかったのでしょうか。
 レビ人はもっぱら主に仕えていました。主に仕える奉仕者が民の生活のそばにいるのです。生活が礼拝とともにある、生活と礼拝が切り離せないものであるということを民は覚える必要があったのです。

 もう一つ思うのは、それぞれ自分たちの相続地を割り当てられた各部族は、その中からレビ人のための町と放牧地をレビ人に与えました。与えられたものはすべて神からのものであることを忘れず、その一部を神に返すことの意義が明らかにされているのではないでしょうか。

    
     


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