創世記 45章
朝、新しい滞在ビザを受け取りに行きました。時々訪れるショッピングモールの中にある市の窓口です。そう言えば、2015年に当地に来た時住民登録をしたのも、この窓口でした。無事受け取ると、急に力が抜けたような感じに…。
ヨセフが兄弟に自分のことを明らかにして、感動の再会を果たせたのが今日の箇所。兄たちは腰が抜けるほど驚いたことでしょう。そして、自分たちがしたことに対して仕返しされるのではないかと恐れたことでしょう。しかし、ヨセフにはそんな思いは全くなかったのです。
ここで心に留めたのはヨセフのことば。そこには「遣わす」ということばが三度用いられています。ヨセフは兄たちによってエジプトに奴隷として売られました。しかし神が自分を遣わされたと、その身に起こったことを受け止めているのです。「遣わす」とは神がご自分の働きをさせるために、ヨセフをエジプトに送ったということです。これまでのヨセフの歩みを振り返るなら、まさに「遣わす」がふさわしいのです。
それはそれこれはこれ、自分をひどい目に遭わせた兄たちに意地悪、仕返ししたいという思いがヨセフにはなかったのだろうかと考えます。しかもこの時のヨセフは、自分をひどい目に遭わせた兄たちをどうにでもできる力がありました。しかし彼は、神が自分に与えられたファラオの次の位というエジプトでの立場を用いて、兄たちの心を神の真実へと導いたのです。
26節の「ヨセフはまだ生きています」ということばが心に留まります。これがヤコブをどれほど元気づけたかは、その後の彼の行動が物語っています。