列王記第二 1章
「みことばの光」は、きょうから列王記第二を読みます。列王記第一22章52節で確かめますと、アハブの子アハズヤは、父アハブの道、母イゼベルの道、それに…ヤロブアムの道に歩んだと紹介されています。徹底して主なる神にそむいたということが強調されているかのようです。このアハズヤ、屋上の欄干から落ちて病気になります。この時、彼は主に尋ね求めずに、バアル・ゼブブという偶像を求めるのです。その時、主はエリヤによって必ず死ぬとアハズヤにお語りになります。
「イスラエルに神がいないためか」ということばに心を留めました。人の生死の鍵を握っているのはエクロンの偶像ではなくて、イスラエルの神。それなのにアハズヤは主を求めようとしません。なんと悲劇的な行動なのかと思うのです。どんなに王として神に背いていたとしても、危急の時に上に求めるならば、神は苦しむ者をあわれんで、祈りに身を傾け耳を傾けてくださるお方です。アハズヤは、その唯一の助かる道を放棄してしまったのです。
病になることもあります。貧しくなってしまうこともあります。そのようなときどうして神ではなくて、代用品のようなものにすがるのだろうかと考えつつ、果たして自分はどのようなときにも神を求め、拠り頼んでいるのかと問われます。