みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

しかし、今は

2016年09月26日 | ローマ人への手紙

ローマ人への手紙 3章21−31節

 土日とデュッセルドルフに行きました。そして、日本語キリスト教会の皆さんと、みことばに聴くゆたかな時間を過ごしてきました。「みことばの光」をご利用くださる方々、そしてこのブログを訪ねてくださる方々ともお目にかかれて、とても嬉しい二日間でした。

 行き帰りに利用したのは、前回はライン川沿いをゆったりと走る列車でしたが、今回は新幹線区間を走る特急を利用しました。確かに所要時間はおよそ半分。でも、昼に走るのでしたら、川沿いの路線を利用したいところです。

 「律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められない」と、絶望的なことをはっきりと告げたパウロは、「しかし、今は、律法とは別に…神の義が示された」と続けます。それが、イエス・キリストを信じる信仰による神の義、つまり、イエスを信じる者を神が義と認めてくださるという道が開かれたというのです。

 神には人間の罪を見過ごしにすることはおできになりません。それなのに、どうして罪を犯した人間を義とすることができるのでしょうか。ただ神の恵みによるほかはありません。そこには、人間の努力が入り込む余地は全くありません。それが「神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、値なしに義と認められる」ということでした。罪ある人が救われる唯一の道がイエス・キリストを信じる信仰なのです。ここでは、「信じる」「信仰」ということばが10回(新改訳聖書によれば)用いられています。

 「しかし、今は」という21節のことばが心に留まりました。この「しかし」は絶望を希望に、死をいのちに変える力をもった力強い接続詞です。

 


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