みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

主の前に、自分の道を確かなものに

2016年09月03日 | 歴代誌第二

歴代誌第二 27章

 買い物に行く途中、道を尋ねてきた方が…。よりによって、ドイツ語が今一歩どころか何歩も手前の私たちに…、と思いましたが、話していることばをつないでみると、行きたい場所がわかりました。自宅に戻ろうとしているのに、行き方がわからなくなったようなのです。「左に曲がれば行けるの?」と尋ねておられたので、そうだと答えましたが、散歩も兼ねていたので、いっしょに案内することにしました。

 同じぐらいの年齢のご夫妻で、クロアチアの出身とのこと。ご主人は心臓の手術をしたために今は仕事をしていないなどとおっしゃっていました。自宅の近くまで来ると、「もうだいじょうぶ、ここからは行けるから」とおっしゃり、「月曜日午後7時半に家に二人でいらっしゃい」と招いてくださいました。あいにく私たちは月曜日に日本に戻るので…と言いますと、それならこちらに戻って来たらいらっしゃいということで、互いの電話番号を交換しました。不思議な出会いを神さまは用意してくださいました。

 27章にはヨタム王のことが記されています。ヨタムはここで、「すべて、主の目にかなうことを行った」、また、「彼の神、主の前に、自分の道を確かなものとした」と評価されています。つまり、神に従順な王として描かれているのです。

 南王国ユダの王がどうであったかを読み進めていく中で教えられるのは、その人物の生い立ちによってではなくて、あくまでも一人一人が、その姿勢や行ないについて神の前に責任を持つということです。ヨタムは父ウジヤの良い面を学び、悪しき面からも学びました。しかしそれは、ウジヤが善かったから善い王であったとか、悪かったからだめだったということではありません。

 何事かが起こると、育てた親が悪いとか環境が悪いなどと論じる向きもあります。そのようなものが人の成長に影響を与えるというのを否定するものではありませんが、不幸の原因を周りのせいにして自分が責任を取らないわけにはいきません。

 「彼が、彼の神、主の前に、自分の道を確かなものとした」ということばを心に留めたいと思います。


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