みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

望みえないときに

2016年09月28日 | ローマ人への手紙

ローマ人への手紙 4章13−25節

 パウロは、信仰によって義とされることについて、アブラハムの例を引き続き挙げています。アブラハムは、「あなたを大いなる国民と」する、「地上のすべての民族は、あなたによって祝福される」という神からの約束を信じて、75歳の時にカナンを目指しました。

 その後の25年間は、祝福の約束が自分の力や可能性にはまったく基づくことなく、ただ神がなさることによってのみ実現するのだということを知らされる期間だと言ってもよいと思います。

 この間、アブラハムは神を信じ続けました。一方で神の約束の実現のために何をしたら…と試みました。しかし神は、年を重ねたアブラハムと不妊の妻のサラの間に子どもが生まれるのだとお告げになります。自分たちの手の内にある可能性を手放し、神の約束のことばのみを頼りにしたアブラハムは、「それが彼の義とみなされた」のです。

 「望みえないときに望みを抱いて」という18節のことばを思い巡らしてみました。ちょっとでも可能性があると信じるけれども、望みのないような局面では信じるのを投げ出してはしまわないだろうかと考えているのではないだろうか、と。

 あれこれ自分の手の内にあるものをいじっている間は、実は「信じる」というのが、神も自分もというというところにあるのではないだろうか、と心探られます。

 


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