みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

後始末

2016年09月05日 | 歴代誌第二

歴代誌第二 29章1−19節

 きのうの礼拝には、スイスの日本語教会のIさん親子が出席してくださったので、さっそくプロジェクターの操作をお願いしました。これを書いている頃は、スイスへの帰路にあることでしょう。とても、とても助かりました。

 「ついに、ヒゼキヤの登場」というと大げさでしょうか。南王国ユダの最も厳しい時に、神はヒゼキヤを備えてくださったということもできます。

 ヒゼキヤは父アハズのした悪行の後始末をしました。土曜日の本欄にも書きましたが、南王国ユダの王たちの姿を読んで思うのは、一人一人が神への姿勢や行ないについて、神の前に責任を持つのだということです。その点、ヒゼキヤは父親の問題点が何かをよく見ていて、二度と繰り返すまいという決意をもって王を始めたのではないかと考えます。

 ヒゼキヤは父アハズが閉じた「主の宮の戸」を再び開きました。主の宮の戸を閉ざすというのは、主への礼拝をやめるということでした。この行為はアハズの背信がどのようなものであったかを伝えています。「主の宮の戸を閉じ」という28章24節は悲しい一言です。神を礼拝し信頼するならば祝福を賜わるという機会を、アハズは自分でふさいでしまったのです。しかし、ヒゼキヤはそれを再び開きました。

 ここから、長い間教会の礼拝から遠ざかっていた人が、もう一度礼拝者として歩むというようなことを覚えました。一人でも「主の宮の戸」を開く人が出るようにと、祈ります。祈りませんか。


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