ダブログ宣言!

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☆二つの講演

2008年09月14日 01時35分23秒 | 文学
昼に、おにぎりと味噌汁と目玉焼きを作って食べる。炊き立てのご飯でおにぎりを作っても熱くない丈夫な手が欲しい。
そのあと網戸と窓を洗って、玄関を流した。
今日はよく働いた。

そのあとだらだらと過ごす。
勉強は申し訳程度しかしていない。
吉本隆明の講演が期間限定で(9月24日まで)無料で聴けるので少し聞いてみる(ほぼ日刊イトイ新聞)。が、途中で疲れてしまいやめる。吉本隆明の講演は僕には合わないようだ。読む方が良い。
なんか不完全燃焼な感じだったので、今度は茂木健一郎の講演をダウンロードして聴く(茂木健一郎クオリア日記)。
滑らかなおしゃべりで楽しく聴けた。
作文は、頭の中に書くことがあってそれを表現するもの、ではなくて、書いてみてやっと書きたいことがわかるものだ、ということはほんとにそうだなと思う。
ヘーゲルの考えでも「行動する良心」というのがあって、頭の中で考えるのではなくて実際に行動しないと駄目だという考えに最近よく出会う。
自分で自分はこういう人間だということをあまり決めてしまうなという話もあったが、ヘーゲルの自己意識ということを思い出した。
自分はほにゃららである、と言ってしまうと、それを意識することでそこから抜けられなくなるということはよくあることだろう。
まるでヘーゲリアンになったように最近ヘーゲルのことをよく考える。
しかし私はもちろんヘーゲリアンではない。
そんな自己規定をするといけない。そこから抜けられなくなってしまう。
よって、非ヘーゲリアンでもない(笑)。
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☆平山秀幸監督「しゃべれども しゃべれども」

2008年09月13日 01時34分38秒 | 映画
近所の体育館に泳ぎに行く。
ひさしぶりなのでもうくたくた。
200メートル泳いだあたりでもう腕が回らなくなり、なんとか500メートルを泳いでへとへとになって家に帰る。ほんとうは1キロ泳ぐつもりだったのに。

しゃべれども しゃべれども 特別版 (初回限定生産2枚組)平山秀幸監督の「しゃべれども しゃべれども」を見た。
落語ものとしては「タイガー&ドラゴン」に劣る。
まあおもしろかったけれど、ところどころ無理があるなあと感じることがあった。無理やり恋愛を入れる必要があるのだろうか。
やれやれってみんなから言われてた毒舌の野球解説を聞きたかった。
あれは絶対やるべきじゃないかなあ。

見た後に気になったので古今亭志ん生の「火焔太鼓」を聴く。
おもしろい。
しかしオチの意味がよく分からなかった。
「半鐘はいけないよ、オジャンになるから」というもので、オジャンという言葉が半鐘から来ていることが調べてわかる。半鐘もかすかに見た記憶があるくらいだ。
昔の話はよくわからないことも多い。
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☆大いなる眠り、新しい水着

2008年09月12日 00時47分28秒 | 文学
今朝バスで勉強しようと思ったら酔いそうになったのでやめた。
本を読むのは平気なのに、勉強だと駄目なことを知った。使ってるところが違うということか。
やはり通勤時は文庫本を持ち歩くべきなのだな。

今月はチャンドラーの「大いなる眠り」の新訳がハヤカワ文庫から出るんだな、とそこまで気にもしていなかったのに、出ないことになったらしいと知ると「じゃあいつ出るんだ! いつなんだ!」とものすごく気になっている。
手に入らなくなると途端に欲しくなる。
チャンドラーの長編を順番に読んでみたくなっている。

新しい水着をインターネットで買った。
これも店で買おうと思ったら欲しいものがなくて、ないとなったら意地でも欲しくなり、店で買うより少し高くなったのだがネットで購入。
いつも思うが通販は写真で見るほど実物はよくない。わりと失望することが多い。
アリーナ社のショートボックスという形の水着です。
男ものの下着も水着も、ほとんど流行はないようで、やはり少しずつは変化している。
で昨日着てみたが、やはりちょっと太ったかな。
近所のプールに通いたいと思っている。
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☆アラン「音楽家訪問」感想

2008年09月10日 22時06分41秒 | 文学
音楽家訪問 ベートーヴェンのヴァイオリンソナタアランの「音楽家訪問 ベートーヴェンのヴァイオリンソナタ」(岩波文庫)を読んだ。
しかし調性っていうのか、なんというのか、ホ長調とかト短調とか、そういうことが一切分からないので、ここはト短調だからこんな感じと説明されても全く理解できない。学生時代の音楽の授業は古典の授業以上に身についていない。
いくらアランが好きでもこれは読めなかった。
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☆トランスクリティーク

2008年09月08日 23時41分21秒 | 文学
資格試験は午前の試験と午後の試験に分かれているのだが、今日は午前の過去問題を時間を計ってやってみた。時間は充分足りたのだが48点しか取れなかった。100点満点です。70点で合格と言われている。
うーむ。しかし午前の問題は覚えてしまえばおしまいなのでもう少しと言えばもう少しか……。
勉強中に平常心を保つのが難しい。腹が立って仕方無い。

ちょっとずつ勉強モードにしようと思って(試験は来月半ばなので遅いけど)、新しい本はもう読まないようにしようと決めた。
いま読んでいるのは竹田青嗣の「人間的自由の条件」と会社の往復で読んでいるアランの「音楽家訪問」。しかし会社の往復でも勉強しないといけないかな。
アランの本は短いのですぐに終わるだろうから勉強時間に充てよう。
竹田青嗣の本は最初の、柄谷行人の「トランスクリティーク」についてのところだけ読んだ。
全体的には批判的な論調だったが、貨幣が超越的な、宗教的な性質を持っているという説に感心し、柄谷に興味を持つ。
こんなことは経済を研究しているひとなら誰でも言うことなのかもしれないが初めて聞いたので感心した。
何か自分の理解を超えている出来事があった場合にかつては神のせいにしたのだと思うが、いまは金のせいにしている気がする。
何らかの活動をしているひとがいたときに、そのひとの動機が分からない場合「どうせ金が目当てだよ」とは本当によく言われる台詞だ。

それはさておき、この竹田青嗣の本をゆっくり読んで試験が終わるまでこれ以上読まないようにしたい。
したいものだなあ。
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☆スリー・インタビューズ

2008年09月07日 22時09分36秒 | 文学
ナイン・インタビューズ 柴田元幸と9人の作家たちカズオ・イシグロのインタビューが載っている「ナイン・インタビューズ 柴田元幸と9人の作家たち」(アルク)を図書館で借りた。
タイトル通り9人の作家のインタビューが載っているのだが、読んだことのある作家、カズオ・イシグロとポール・オースターと村上春樹の3人のインタビューを読んだ。
レベッカ・ブラウンの「体の贈り物」は読んだのだが、語り手をずっと男だと思って読んでいたのに女であることを最後に気付いたというようなことがあり、全然読めてないなとショックを受けたことしか記憶に残っていない。カズオ・イシグロの「わたしを離さないで」とちょっと似た設定だったと思う。
で、それ以後読んでないしあまり興味のある作家でもないのでインタビューも読まなかった。
この本は左のページに英語、右のページにその日本語訳が載っていて、ご丁寧にインタビューのCDまで付いているのだが、日本語しか読んでない。英語を聞くことに熱心だった時期だったらCDも聴いたのだろうけれど。

カズオ・イシグロの「日の名残り」「充たされざる者」「わたしたちが孤児だったころ」を順番に読んでみようかなあ、とちょっと思った。
ポール・オースターはたしか「幽霊たち」「シティ・オブ・グラス」「鍵のかかった部屋」「ムーン・パレス」くらいは読んだ。嫌いじゃないけれど熱心な読者にはならなかった。映画「スモーク」は大好き。インタビューに出てきたオースターの小説「幻影の書」に少し惹かれた。調べてみると来月翻訳が出るらしい。なんたる偶然、いや(江原啓之的)必然。
村上春樹のインタビューのうなぎの話は、何度も内田樹が引用するので読んだことがあった。作家(村上)と読者の間に「うなぎ」がいた方が話がしやすい、という発想は、カウンセラー(江原啓之)と被験者の間に守護霊や前世を置いた方が話がしやすいというのにちょっと似ている。村上春樹はきちんとした人だなあとこういうものを読むといつも感心する。というか立派すぎる。
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☆非ヘーゲル的な西原理恵子の「ぼくんち」

2008年09月06日 23時38分34秒 | 漫画
ぼくんち (ビッグコミックス)たしか加藤典洋がこのマンガの最後の台詞「こうゆう時は笑うんや。」のコマを何かの本で引用していて、そんなにおもしろいのかとずっと気になっていた西原理恵子の「ぼくんち」を読んだ。
でもあまりおもしろくなかった。
僕には合わなかった。
最近はずっとヘーゲルに興味があって、ヘーゲル的なるものはおもしろくヘーゲル的ならざるものはつまらない。
江原啓之とカズオ・イシグロの本はヘーゲルで、「ぼくんち」は非ヘーゲルだった。
まあうまく説明できないが世界を感じさせるものがヘーゲルなのかな。
西原理恵子に世界を感じさせるものがないのか! と言われそうで、そう言われちゃうと、いやありますよ、と言うしかないのだが、だからより正確に言うと、世界を感じさせるもの、ではなくて、世界の疑いを感じさせるもの、なのかな。
「ぼくんち」で描かれるのは、いろいろ大変だけどそこそこなんとかやってるよ、駄目なところもあるけど概ね良し、というところに落ち着いているように思う。
そういうのがおもしろいこともあるけど、いまはあまりおもしろくなかった。
いま興味のないものには極端に興味のない人間です。
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☆カズオ・イシグロ「わたしを離さないで」感想

2008年09月06日 14時41分36秒 | 文学
わたしを離さないで (ハヤカワepi文庫)カズオ・イシグロの「わたしを離さないで」(ハヤカワepi文庫)を読み終えた。
最後まで完璧におもしろかったか、と問われれば「うーん、完璧? 完璧ってなに?」と思ってしまう。ほんとうに完璧な小説を読んだ時は何の疑問もなく「はい、完璧でした」と答えられるだろう。
カズオ・イシグロの小説は「充たされざる者」を除いて読んでいるのだが、やはり「日の名残り」がダントツだなあ。しかし「わたしを離さないで」がよい小説であるのは間違いない。
こういうのは読んだ時期ということがあって、どんなに「花とアリス」が優れていても岩井俊二は結局「Love Letter」が一番ということになってしまうし、吉本ばななは「キッチン」だし、そういう味覚のさだまったときの味は忘れられないというか、越えられぬ保守の壁というか……。
石原裕次郎の脚なんかそんなに長くはないだろうと思うし、美空ひばりっていいかなあ、と疑問に思うが、それはその時代の精神なんだろうなあ。

(以下、読んだ人にしか意味が分からない話です。)
この小説では主人公がポルノ雑誌に自分のポシブルを探そうとするところがもっとも印象に残っている。
どうしたって世界に意味を求めようとするところが切なくて良かった。
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☆「江原啓之本音発言」感想

2008年09月05日 22時31分01秒 | 文学
ここ何年かで興味を持ったことがあったのに読んでいなかったマンガを借りてくる。
川原泉の「甲子園の空に笑え!」と西原理恵子の「ぼくんち」。
「甲子園の空に笑え!」を読んだ。読んだが、そんなにおもしろくなかった。
昨夜は妻に叱られたのでいやいやながら試験勉強もした。一時間ほど。これからはがんばるぞーという気分になる。普段やらないことなので、やるとそこそこおもしろい。試験に向けて勉強するという行為が懐かしい。
最近はなんでも懐かしい。
勉強した後に「江原啓之本音発言」(講談社)を少し読む。
「第一章 すべてのバッシングに答えます」では世間で言われている江原批判に答えていたが、香山リカってぜんぜんダメだなあという印象。
玄侑宗久の批判は果たして批判なんだろうかという感じ。
玄侑宗久の小説も読んだことないし、その江原批判そのものも読んでいないが、語られている内容を読む限り間違ったことは言っていないように思う。江原の語っていることは真理ではなくて「文化」だって言ってるらしいけれど、その通りなんじゃないかなあ。
「それで何か問題でも?」というレベルの批判(?)だと思った。
フランス語では蝶も蛾もどちらも「パピヨン」と呼ぶ。日本人は蛾を見て「蛾だ!」といい蝶を見て「蝶だ!」と言うが、フランス人は蛾を見ても蝶を見ても(というかフランス人が見ているのは蛾でも蝶でもなくパピヨンなのだが)「パピヨン!」と言う。
ある現象をどのように呼ぶかは文化による、というような意味で、玄侑宗久は江原の語っていることを「文化」って呼んでいるんじゃないの? と思ったのだけど。
なんか話が噛み合っていない印象だった。
しかしこの本はなかなかおもしろい。
霊的なものにたいして子供のころよりも自分が肯定的になっているのがわかる。おそらくベルクソンと小林秀雄と内田樹のせいだ。

江原啓之 本音発言そして今日。
続きを読んで、いま読み終わった。
「第二章 男も読めるスピリチュアル対談」はあまり面白くなかった。
最近テレビ番組「オーラの泉」を見なくなったのだが、それは番組の時間帯が変わったこともあるけれど、なんか説教臭い番組になったなと思ったことも原因だ。僕は説教されるのが嫌いなのです。
なんかその説教臭さが出ていた気がする。
江原啓之に霊的なものが見えることについて僕は疑問を持っていないのだが(すくなくとも彼に何かが見えているのは嘘ではないと思う)、そこから導き出された彼の考えまでそのまま受け取る必要はないんじゃないかと思っている。
たとえ霊がほんとうにいて何か意見を言っているとしたところで、なんでそっちの言うことの方が正しいってことになるんだ。全面的に従う必要もなかろう。こっちは現役だ。一線から退いたかたのおっしゃることは参考にはいたしますけれど。と思う。
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☆島田さんさようなら、イシグロさんお懐かしい

2008年09月02日 22時31分09秒 | 文学
朝日新聞連載の島田雅彦の小説「徒然王子」はとうとう読まなくなってしまった。
第二部が始まり、主人公が五回だか六回だか転生するうちのいまは二回目の転生。源平の時代だったと思う。適当に読んでるからよく分かってない。
第一部はまだ読めたが第二部は読めなくなった。
こんな感じであと何回か転生が繰り返されると思うと、ぞっとしてついていけません。やはり先に転生の回数がわかっているのはつらい。残りの回数を数えてしまう。そうなると退屈さが増す。
ごめんなさい。降ります。
島田雅彦を読むことはもうないだろう。

カズオ・イシグロの「わたしを離さないで」は半分くらいまで読んだかな。
掻かれてはじめてそこが痒かったんだと知る。掻かれるまでそんなところが掻けることも知らなかったし、痒いとも思っていなかった。
そういう、痒いところに手が届く、じゃなくて、痒いと思いもしなかったところに手が届く小説だ。
学校で、禁止だと先生もはっきりと言ってないし、生徒もはっきりと言われたこともない、でもみんな禁句だろうと思っている言葉をある生徒が口を滑らせて言ってしまったときの先生と生徒たちとの、いまの出来事をなかったことにしてしまう、共犯関係のような場面を描いたり、誰かのまねをして得意になっているひとを馬鹿にせずみんなで温かく見守る感じとか、それをはっきりと指摘したときの双方の感じる重苦しさとか、そんな誰からもはっきりと表現されたことはないけど確かにこれまでの人生で感じたことのある感情をきちんと描いている。
そういうところがすごい。
敵がやってきて味方とともに闘うとか、そういう単純明快な感情ってよく表現されるけれど実はそんなに感情って単純なもんじゃないということにこういう小説を読むと気付く。
女性の主人公がセックスに興味があるのにそのことを全く語らない、そして登場人物同士の会話を通してそれまで語られなかったことが読者にわかる、というようなカズオ・イシグロお得意の技もくり出される。
そういうの、とてもうれしい。

読んでいて、「ダニエル・デロンダ」というジョージ・エリオットの小説があることを知る。(ジョージ・エリオットの小説は有名なものでも読んだことはありません。)
作者名なしでタイトルだけ登場したのだが、そんなにイギリスでは有名な小説なのだろうか。例えば「嵐が丘」とか「高慢と偏見」とかであれば作者名なしでも、分かって当然ということで良いと思うのだが。
岩波文庫と新潮文庫にたまたま入っていないということで、イギリスでは有名な小説でも日本では無名ということがあるのかもしれない。
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