柳宗悦『南無阿弥陀仏 付 心偈』(岩波文庫)を読んだ。
仏教入門書である「南無阿弥陀仏」に、短文のうた「心偈(こころうた)」が付いている。案外「心偈」が良かった。
柳宗悦の本は以前読んだことがあるけれどあまり惹かれず、読んでいなかった。中島岳志と若松英輔の対談を読んで、読んでみる気になった。
なにかふたつのものがあって、それがふたつではなく「不二」になるという話が何度も出てくるが、柳宗悦がそういう思想を好んでいたのだろう。
仏教も、法然から親鸞で浄土思想が完成されたという話はよく聞くが、そのあとに一遍がいるという話はあんまり聞かない。一遍が「不二」の思想を語っているから一遍が好きなのだろうと思う。
自力と他力も最終的な到達点は同じ二つの道で、最終的には「不二」になるというのもあんまり聞いたことがない。他力のほうが上であるというニュアンスの話はよく聞く。
しかし、二つのものが二つではなく「不二」になるというのは、言葉としてはわかるのだが、それが一体具体的にどういうことを指して、それに至ったときにどういう心の安定に向かうのかというようなことになると(つまり僕の人生に何の関係があるのか)、よくわからない。
なんども聞いて言葉では分かっていることが、いつか了解できて「ああ柳宗悦の言っていたのはこのことか」と思える日が来るのであろうか。
そんなふうな深い思想があるのだろうか。まだ分からない。
「見テ 知リソ 知リテ ナ見ソ」
という心偈があり、「知識からは信心は出て来ぬ」という意味だが、まさしく僕はそういうところがある。しかし納得できないものはしょうがない。
仏教入門書である「南無阿弥陀仏」に、短文のうた「心偈(こころうた)」が付いている。案外「心偈」が良かった。
柳宗悦の本は以前読んだことがあるけれどあまり惹かれず、読んでいなかった。中島岳志と若松英輔の対談を読んで、読んでみる気になった。
なにかふたつのものがあって、それがふたつではなく「不二」になるという話が何度も出てくるが、柳宗悦がそういう思想を好んでいたのだろう。
仏教も、法然から親鸞で浄土思想が完成されたという話はよく聞くが、そのあとに一遍がいるという話はあんまり聞かない。一遍が「不二」の思想を語っているから一遍が好きなのだろうと思う。
自力と他力も最終的な到達点は同じ二つの道で、最終的には「不二」になるというのもあんまり聞いたことがない。他力のほうが上であるというニュアンスの話はよく聞く。
しかし、二つのものが二つではなく「不二」になるというのは、言葉としてはわかるのだが、それが一体具体的にどういうことを指して、それに至ったときにどういう心の安定に向かうのかというようなことになると(つまり僕の人生に何の関係があるのか)、よくわからない。
なんども聞いて言葉では分かっていることが、いつか了解できて「ああ柳宗悦の言っていたのはこのことか」と思える日が来るのであろうか。
そんなふうな深い思想があるのだろうか。まだ分からない。
「見テ 知リソ 知リテ ナ見ソ」
という心偈があり、「知識からは信心は出て来ぬ」という意味だが、まさしく僕はそういうところがある。しかし納得できないものはしょうがない。
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