女と男の大奥(福田千鶴著)

2024-08-25 00:00:37 | 歴史
横浜市の図書館の電子書籍は、かなり検索が不便で、どうも題名だけで借りてしまうこともある。もちろん返すのもワンクリックなのだが、せっかくなので読んでしまった。

大奥というと秘められた場所で、そういう書物も読んだことがあるのだが、将軍お手付きの女性がいっぱいいて、時々は忍び込んできた男と一時の夢を見るような場所、と想像するが、そうはならないように、様々な規則(法度)があって、その規則についての解説書のわけだ。



もともと家康が江戸に入った時は、まだ豊臣政権であって、規則もなければさらにほとんど江戸城にいなかった。後年、隠居して駿府城に住み、江戸城には二代将軍秀忠が入ったが、将軍は恐妻家だったし、政権の基礎がしっかりしていなかった。三代将軍家光の頃に江戸城が整備され、城の中も将軍の住居エリア、表向きの仕事エリア、混在しているエリアとわかれていく。

ということで、徐々に女のいる場所と男のいる場所が分離していくのだが、城中に入る女性はそれなりの家柄の者(つまり大名の息がかかっている)が多く、政治に口出ししたり、「将軍は、こう言っている」とか虚言で権力を動かすこともあったからのようだ。そのため、男女完全分離方式になった。

大奥を管理する法度(法律)は、大別すると2種類。最初は「奥方法度」が出される。奥方=大奥。大奥の機能と管理体制が定められ、男子禁制はこれで規制される。大奥の女性の外出制限とか、主に制度についての規制。

その後、四代家綱の時、「女中法度」が出される。こちらは大奥の女性(女中)に対する規則で、結構細かい。生徒手帳に書かれている校則のようなもの。ある意味、高級奴隷のように見える(もっとも封建社会はすべての民は奴隷といってもいいが)。

さらに、将軍が変わるつど、勤務している女中は誓約書を提出することになる。数年に一度の実家への宿下がりの時は、秘密厳守しますとか、悪事は働きませんとか、将軍様と同じ床には入りませんとか、一緒に風呂に入りませんとか書くそうだ。やはり家光の側室になった桂昌院(お玉)の入浴中の艶聞は事実だったのだろうと推測できる。(将軍は着衣のまま入浴したというのもそのせいだろう)


ところで、男は大奥には入れないというのは当初はそうで、大奥を取締る老中などに限られていた(大奥の女性の長のことは、老女というそうだ)。ただ、時代が下ると、中の力仕事の時は、各自、自分の給金の中で、そういう男に来てもらっていたそうだ。また、日用的に使う水も日常的に運んできてもらうことになっていたそうだ。もっともそこで色事に発展すると、男の方は首が体から分離することになるので、なかっただろうとは思うが、あったかもしれない。

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