先週、この屏風の戦闘シーンを描いた右隻(右半分)を紹介したが、左隻(左半分)には、この稀に見る悲惨な戦いになった市街戦の顛末が描かれる。秀吉の作った大坂城は「総構え」という方式で、城壁の中に都市があった。大坂はあきんどの町であり、全国からの多くの物産が、この城郭内のあきんどによって取引されていたはずだ。そして、そういった市街地で豊臣側5万、徳川側5万、合計20万人の両軍の兵がぶつかり、消耗戦の結果、3倍の兵を配置した徳川側が勝つ。そして、負けたほうの豊臣側の残党と一般市民は京都方面に逃走をはじめる。
ところが、大坂城の北側には淀川が流れていて、その橋は豊臣側が背水の陣を立てるため、自ら焼き落としていた。わずかな舟に乗れなかった者は川を渡らねばならないが、簡単ではない。こどもを連れて逃げるものもいる。夫の首なし死体にすがるもの。そしてタイタニック状態で舟も転覆する。
命乞いする武士も描かれるが、無駄だったろう。首も何個か転がっている。さらに、川の対岸からは一斉射撃がある。運良く、川を渡っても、落武者狩りが待っている。既に兜をはずされ後ろでに羽交い絞めされている武士。ノーチャンスだ。
川を渡っても追剥がまっていて身ぐるみはがれるし、レイプ寸前の女性も描かれる。この屏風、5000余人が描かれているそうだが、京都まで逃げられたのは、ほんの一部だろう。さらに、逃げたところで、何になるのだろう。無一文だ。
実際、この屏風は勝軍の将である黒田長政が作らせたものなのだが、それにしては、戦争に巻き込まれた市民の悲惨な光景が繰り拡げられる。つまり、実態は、もっと悲惨だったのだろうか。
実は、世界史をみても、これだけ悲惨な戦争は数少ない。だいたい、一般市民は先に避難していて、軍隊だけが衝突する。コンスタンチノープル陥落の時も市民は巻き込まれなかった。
そして、この戦いから250年後、江戸総攻撃の前日、勝海舟-西郷隆盛の会談がなければ、江戸も大坂と同じような大惨事となっただろうことは、たやすく想像できる。勝と西郷が福岡黒田藩に伝わるこの屏風を見ていたとは思えないが、この二人には想像力があった。第二次大戦で東京大空襲のあと、5ヶ月間も無駄な人命を失っていった昭和の指導者たちには、想像力が欠如していた。
さて、読売新聞で大坂城の話題が報じられていた。
出土した位置が現在の天守閣の北側というのは、かなりの驚きだ。位置のわかっていない天守閣はさらに北側にあったのだろうか。それは、かなり北に偏り過ぎているようにも思える。金箔付きの屋根瓦を持ち逃げしようとして途中で諦めたのではないだろうか。さらに調査を期待したい。
ところが、大坂城の北側には淀川が流れていて、その橋は豊臣側が背水の陣を立てるため、自ら焼き落としていた。わずかな舟に乗れなかった者は川を渡らねばならないが、簡単ではない。こどもを連れて逃げるものもいる。夫の首なし死体にすがるもの。そしてタイタニック状態で舟も転覆する。
命乞いする武士も描かれるが、無駄だったろう。首も何個か転がっている。さらに、川の対岸からは一斉射撃がある。運良く、川を渡っても、落武者狩りが待っている。既に兜をはずされ後ろでに羽交い絞めされている武士。ノーチャンスだ。
川を渡っても追剥がまっていて身ぐるみはがれるし、レイプ寸前の女性も描かれる。この屏風、5000余人が描かれているそうだが、京都まで逃げられたのは、ほんの一部だろう。さらに、逃げたところで、何になるのだろう。無一文だ。
実際、この屏風は勝軍の将である黒田長政が作らせたものなのだが、それにしては、戦争に巻き込まれた市民の悲惨な光景が繰り拡げられる。つまり、実態は、もっと悲惨だったのだろうか。
実は、世界史をみても、これだけ悲惨な戦争は数少ない。だいたい、一般市民は先に避難していて、軍隊だけが衝突する。コンスタンチノープル陥落の時も市民は巻き込まれなかった。
そして、この戦いから250年後、江戸総攻撃の前日、勝海舟-西郷隆盛の会談がなければ、江戸も大坂と同じような大惨事となっただろうことは、たやすく想像できる。勝と西郷が福岡黒田藩に伝わるこの屏風を見ていたとは思えないが、この二人には想像力があった。第二次大戦で東京大空襲のあと、5ヶ月間も無駄な人命を失っていった昭和の指導者たちには、想像力が欠如していた。
さて、読売新聞で大坂城の話題が報じられていた。
「夏の陣」で焼失、大坂城本丸の金箔瓦が出土
大阪城から出土した金箔の残る巴文の軒丸瓦と鯱の破片 大阪市中央区、大坂城の天守閣北側から、徳川氏が豊臣氏を滅ぼした「大坂夏の陣」(1615年)で焼けた土の層や、本丸に使われた巴(ともえ)文入りの金箔軒丸(きんぱくのきまる)瓦(直径約20センチ)、鯱(しゃちほこ)の破片など数十点が、市文化財協会と市教委の調査で出土し、10日公開された。
本丸付近の調査例は少なく、大坂城中心部の焼亡と、その後の城跡の整地がどのように進んだかを示す貴重な資料だという。
木の根などでずれの生じた天守閣北側の多聞櫓(やぐら)につながる石段の復旧工事に伴い、2月初めから発掘。瓦片などは深さ2メートルの部分から見つかり、夏の陣後に整地されていた。また、石段は徳川時代に大坂城が建て直された際に整備され、これまで9段とされてきたが、11段だったことが新たに分かった。
(2007年3月10日14時33分 読売新聞)
出土した位置が現在の天守閣の北側というのは、かなりの驚きだ。位置のわかっていない天守閣はさらに北側にあったのだろうか。それは、かなり北に偏り過ぎているようにも思える。金箔付きの屋根瓦を持ち逃げしようとして途中で諦めたのではないだろうか。さらに調査を期待したい。
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