大阪城失言の分析

2019-07-15 00:00:27 | 市民A
G20終幕間近の記念撮影の席で日本国首相から失言(と認めない人もいるが)が出た。

「大阪のシンボルである大阪城は、最初に16世紀に築城されました。石垣全体や車列が通った大手門は17世紀はじめのものです。150年前の明治維新の混乱で、大阪城の大半は焼失しましたが、天守閣は今から約90年前に、16世紀のものが忠実に復元されました。しかし、一つだけ、大きなミスを犯してしまいました。エレベーターまでつけてしまいました」


これは、かなりの問題発言なのだが、要するに安倍首相は、保守派の中でも復古主義者であるということが透けて見えるわけだ。「きょうがきのうと同じならいい。あしたもきょうと同じならさらに良い。」という考え方だ。妻の責任にしてしまったが、やはり愛国小学校の支持者だったのだろう。

大阪の「今」を象徴するなら、「梅田スカイビルの空中庭園」、あるいは外国人に人気の「黒門市場」ではなかっただろうか。



さて、弱者におけるエレベーターの効能の無視意識については、すでに批判が燃え上がったので、その他の話だが、まず首相が城の設計のことを言える立場なのか?現在の大阪城は大阪市民や大阪企業の献金で大部分がまかなわれている。国ではないわけだ。あえていえば大阪市長なら設計批判発言は可能だろうが、市長は首相の友人(と自分で思っている)なので強く責めない。

「90年前に16世紀のものが忠実に復元された」という発言は、間違い。16世紀にできたのは豊臣秀吉の築城であり(実在期間1585-1615)、大坂夏の陣で天守閣は秀頼、淀君、多くの将兵とともに灰燼と消えた。その後、17世紀になり徳川幕府は秀吉の記憶を大坂の地から消し去るため旧大坂城天守閣跡を土盛して、その上に新大坂城天守閣を建てた(1626-1665)。しかし、こちらも火事で焼失し、その後、昭和になるまで再建されなかった。天守閣が存在していたら幕末の戊辰戦争で、15代将軍徳川慶喜が新鋭の軍艦に乗って江戸に逃げ帰らず、籠城したかもしれない。

江戸時代の大坂城が焼失した時より前に江戸城は1657年に焼失し、再建計画はあったものの、諸般の理由で不要ということで江戸に天守閣は建てられなかったので、前例主義として大坂でも建てられなかったのだろう。

そして、現在の鉄筋コンクリートの大阪城天守閣だが、1931年に建てられたときには、まだ旧大坂城の研究が進んでなく、忠実に再現する気力も予定もなかった。要するに、新しい発想の天守閣のわけだ。外観上は、天守閣の上の方は16世紀型で下の方が17世紀型のデザイン。内装は、まったく軍事的ではない。

そもそも、豊臣秀吉は、朝鮮半島を粉砕して中国本土に攻め込んで、凋落傾向だった大明帝国を滅ぼして日本の都を北京にして天皇には大陸に移住してもらおうと思っていたわけだ。国際会議には不適切と思うわけだ。

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