サヨナラと平和

2010-10-26 00:00:51 | 市民A
先日、広島に行っていたのだが、広島といえば『平和都市』であり、『平和公園』ということになる。一般的には、原爆を落とされた上、怒りを封じ込め、辛抱の上に忍の一文字を書いて平和という文字を使ったということになっているが、もともと「軍都」と言われていた軍事都市から普通の町に変った証として、「平和」ということにしたと考えればいいのだろうか。

戦争被災地と言えば、ニューヨークのWTC跡地。跡地にイスラム教会ができるということで、かなりもめていた。

果たして、被災地が平和である必要があるのかどうかもわからないし、またイスラム教が平和のための宗教かどうかもよくわからない。

話は、急に変るが、アラビア語のあいさつ。

「アッサラーム・アライクン」。アッは接頭語のようなもので、サラームは平和を意味する。アライは上で、クン(クム)はあなた、である。「あなたの上に平和が」という意味で、よく使うコトバで万能である。だからイスラム教が平和主義かといえば早計で、イスラム教が完成する前にアラビア語があったわけだ。

そして、別れのあいさつというのが、「マア・サラーマ」。これも同じように、平和であれ、という意味。日本的にいえば、「ご無事に・・」といったところだろうか。

ここで、各国語だが、英語の「グッバイ」は、味も素っ気もない。「シー・ユー(アゲイン)」というと何か美しい幻想が残る。

中国語の「サイチェン」は「再見」で、「シー・ユー」と同じだ。スペイン語で「アディオス」は二度と会えないような本格的な別れの時に使用し、普段は「チャオ」ぐらいだ。


では、日本語では、一応、「サヨナラ」が別れの言葉だが、よく考えると滅多に使わない。会社から帰る時は、「お先に」とか、「失礼します」。毎朝、家を出るときに「さよなら」では家出になる。「いってきます」ということだろう。

友達と会って、別れる時など、二度と会いたくなくても、「では、また」とか、略して「じゃあ・・」ということになる。

では、サヨナラというコトバの冷たさはどこから来るのだろうと語源を調べると、「サヨナラ」の前は「さようなら」である。問題は、その前。

「左様ならば、・・」ということだそうだ。

「左様ならば、帰るしかあるまい」ということだろう。では左様とは、どういうことになるのだろう。

訪問先の主人:「貴殿、拙宅に上がりこんで、既に数時間。誠に歓迎できない客である。」

訪問客:「左様にまで言われるならば、もはやこれまでじゃ」

ということなのだろう。まったく平和的じゃない。

きょうは、これで、サヨナラ。


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