本駒込多肉植物群落

2016年12月23日
僕の寄り道――本駒込多肉植物群落

 

高校時代の受験現代国語に高見順『湿原植物群落』が取り上げられていて、問題と解答は覚えていないけれど興味深く読んだ。再読してみたいと検索したら、どうやら1956年三笠書房刊の古書で手に入れるしかないらしい。

 

近所を散歩したら、コンクリート塀に多肉植物の小さな鉢植えが並ぶ大好きな光景が出現していた。雨上がりで南風が吹き、気温が上がったので大切な秘蔵っ子を並べたのだろう。見かけるたびに「いいなあ」と思って写真に撮る。並べ方にも味わいがあって見飽きない。


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天皇誕生日の都電荒川線

2016年12月23日
僕の寄り道――天皇誕生日の都電荒川線

今上天皇が学習院高等科在学中、友人と学友寮を抜け出して山手線に乗り、目白から新橋まで出かけたという話を読んだことがあるけれど、都電に乗られたことがあるかどうかはわからない。

買い物ついでに散歩をし、外語大跡地に近い西ヶ原四丁目で小旗を掲げた路面電車が通過するのを見送った。息子である秋篠宮文仁親王は学習院大学時代、通学に都電荒川線を使っていたと自身で述べられたらしい。どこからどこまでかはわからない。


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歩いて帰ろう 2

2016年12月23日
僕の寄り道――歩いて帰ろう 2

 

合唱とか二人カラオケとかではなく、ふと他人と同じ歌を口ずさんだりすると妙に嬉しい。男女を問わず、ふと同じ歌を口ずさみたい気持ちを共有したこと、それが人にとってひどく気持ちの良いことなのかもしれない。六義園でさえずりを交わす声が「キモチイイ、キモチイイ」と聴こえて笑える鳥がいるけれど、やはり本当に気持ちいいのかもしれない。

友人のブログを読んだら 2016 年 12 月 21 日の日記「歩いて帰ろう」を読んで
「22 年ばかり前、この歌が好きで、特に出だしの部分が大好きで、よく口ずさんでいたことを思い出した」
と日記「テーマソングが増えた・・・Vol.922」に書かれていた。

 

自分の場合はほんのちょっと前に懐メロとして知ったのだけれど、ずっと昔から知っていたらきっと口ずさんでいただろうと思われる夕暮れの写真を探してみた。2005 年 9 月 25 日の夕暮れ。静岡県清水区の美濃輪町にて。


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S坂のクリスマス

2016年12月21日
僕の寄り道――S坂のクリスマス

仕事の打ち合わせ帰りに根津権現前から坂を上って本郷通りに向かって歩く。本郷通りに出る手前、駒込大観音方向から漱石の「猫の家」前を通って右手からやってくる道と、坂上でぶつかって丁字路になっている。その角にちいさな教会がある。

新坂(権現坂・S坂)
 本郷通りから、根津谷への便を考えてつくられた新しい坂である。根津権現(根津神社の旧称)の前に下る坂なので権現坂ともいわれる。
 森鴎外の小説『青年』(明治42年作)に、
「純一は権現前の坂の方へ向いて歩き出した。……右は高等学校(注・旧制第一高等学校)の外囲、左は出来たばかりの会堂(注・教会堂 今もある)で、…… 坂の上に出た。地図では知れないが、割合に幅の広い此坂はSの字をぞんざいに書いたように屈曲してついている」
とある。旧制一高生がこれを読み、好んでS坂と呼んだ。したがってS坂の名は近くの観潮楼に住んだ森鴎外の命名である。

文京区教育委員会

日本聖公会・東京聖テモテ教会、鴎外が「出来たばかり」と書いたその教会は 1903(明治36)年アメリカ人宣教師ウェルボーンによってこの地にひらかれた。

暖色と寒色が溶け合ってブルーブラックのインクで満たされる夕暮れの壺に、窓の灯とクリスマス飾りの温もりが浮かび上がって美しい。よい風景を見た。

丁字路を右折してまたすぐ左折し、文京学院大脇の私道くさい路地を足ばやに抜けると本郷通りに出る。今年は新年挨拶のポストカードを多少吸い込みのあるヴァンヌーボーで印刷したので、白山上「かみもと文具店」に寄り、宛名書き用にブルーブラックの筆記具を買って帰宅した。

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斗棒餅

2016年12月21日
僕の寄り道――斗棒餅

富山県出身者と結婚して好物になったものは多い。
正月に食べる「こぶとぼ」「まめとぼ」もそのひとつで、一般的にはなまこ餅と呼ばれる棒状にのした餅を、約 1 センチ強の厚さで切ったものをいう。こぶとぼには昆布、まめとぼには豆がつきこまれており、焼いてそのまま食べると微かな塩味があってすごく美味しい。

妻が「こぶとぼ」「まめとぼ」というその餅は、富山、石川、福井の北陸三県で斗棒餅(とぼもち)と呼ばれている。正月は普通の白い餅ではなく斗棒餅が食べたいので、ネット検索したら地元から通販されているけれど、単価を考えると送料の比率が高くてばかばかしい。静岡の「黒はんぺん」が取り寄せにくいのも同じ理由だ。

根津の出版社で打ち合わせをした帰り道、本郷通りの良米工房「堀江米店」(文京区向丘 2 - 12 - 2)に寄ったら豆餅、海老餅、海苔餅が並んでいたので買ってきた。こちらでは普通に「なまこ餅」と書かれており、妻に見せたら富山のとちょっと形が違うとこまかいことを言う。


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歩いて帰ろう

2016年12月21日
僕の寄り道――歩いて帰ろう

テレビと次第に縁が薄くなる。流行り歌を聴くこともほとんどなくなって久しい。朝食と夕食時の賑やかしとしてつけるテレビ、そのチャンネル移動時の通過画面がポップスとの僅かな接点になっている。

音楽番組で見知らぬ女性が歌う場面に一瞬チャンネルが合い、歌声と歌詞のテロップを見たら内容がちょっと気に入り、すぐに数フレーズを覚えてしまった。タイトルが『歩いて帰ろう』、作詞作曲者が斉藤和義と表示され、最近の歌かなと思って検索したら 1994 年のシングル版なのでびっくりした。

1994 年といえば阪神淡路大震災と、地下鉄サリン事件と、Windows95 発売という大騒ぎの前年であり、自分はといえばコンピュータ導入のストレスで奇妙な病気になり、悲惨な体調に苦しみながら年末をパリで過ごしていた。

そうか、あの頃の歌なのかと思って聴くと感慨深く、知っていたら口ずさみながら歩いて帰ったであろう二十数年間のさまざまなシーンを思い出している。


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温泉マーク♨と煙突

2016年12月20日
僕の寄り道――温泉マーク♨と煙突

地図記号の温泉マーク♨を改訂しようという取り組みがあるそうで、反対の声も上がってニュースの話題になっていた。改訂しなくても良いとは思わないけれど、従来の温泉マークに入浴する人物を組み合わせた折衷案は好きになれない。

戦前期(昭和3-10年)と高度成長前夜(昭和30-35年)の駒込地図を見ていたら妙義坂の銭湯「亀の湯」の場所に煙突マークが置かれていた。地図記号はランドマークなので、遠くから銭湯があるとすぐわかる煙突マークは街頭風景がすぐ目に浮かぶ。

青空にそびえる「亀の湯」の煙突と、煙突マーク付き地図を並べると見事にリンクし、市街地から銭湯以外の巨大煙突が消えることによって、煙突マークは見事に有効な地図記号になっているが、バブル期(昭和59-平成2年)以降の地図では妙義坂から煙突マークが消えている。だが「亀の湯」と煙突はいまも健在で、昔の地図の方がピンとくる。地図と記号と現実世界の関係は難しい。


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級と段数

2016年12月20日
僕の寄り道――級と段数

以前読んだ虚子と漱石の手紙のやりとりの中で確かめたいことがあり、読み返していたら関係のない箇所があらためておもしろい。

階段の段数を「級」で数える。学年の違いや技能の取得段階や酒の品質を「級」で数えることはあっても、階段の段数を「級」で数える人は本の中でしか見かけなくなった。

裁判所の横手を一丁ばかりも這入って行くと、そこに木の門があってそれを這入ると不規則な何十級かの石段があって、その石段を登りつめたところに、その古道具屋の住まっている四間か五間の二階建の家があった。――高浜虚子『漱石氏と私』

教師となって松山に赴任していた漱石を虚子が訪ねた思い出ばなしなのだけれど、大学生だった漱石に初めて会ったときのことは以下のように書いている。

三、四年前一度居士の宅で遇った大学生が夏目氏その人であることは承知していたが、その時は全くの子供として子規居士の蔭に小さく坐ったままで碌に談話も交えなかった人のことであるから、私は初対面の心持で氏の寓居を訪ねた。――高浜虚子『漱石氏と私』

虚子は 1874 年生まれなので 1867 年生まれの漱石より七つ年下だったわけで、1892 年、二十五歳の漱石に対して虚子は十八歳。そんな漱石を写生して「子供として」という表現がおもしろい。この「子供として」は年齢の上下による大人と子供という「級」の話ではなく、遠慮して、この場合は正岡家の客として、要領を得ぬ主体性に乏しい人でいなければならなかった、簡単に言えば自宅なので振る舞いの大きい子規の横で、客として行儀よく小さくなっているしかなかった、そういう状態の漱石のことであり、それを「子供として」と書いて通じた時代と文章に味わいがある。そして虚子は三年後の 1895 年、平気で客を待たせ、片肌脱いで弓を引く「大人の」漱石に出会ったわけだ。

そんなことに興味をひかれていたら、確かめたかったことがなんだったかを忘れてしまった

木枯らしに吹かれてすっかり葉を落とした六義園内の木立(2016年12月19日)


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事故の顛末

2016年12月19日
僕の寄り道――事故の顛末

本郷通りが駒込駅の跨線橋を越えて山手線外に出ると、右にカーブしながら下りになり、この坂を妙義坂という。この「く」の字カーブの曲がったあたりに地蔵堂があってかなり古い。

 「寛文八戌申年十月、旧邸ノ南丘陵ノ地ヘ間口二間、奥行三間ノ堂宇ヲ建設シ、地蔵尊像(石像丈二尺三寸)一体ヲ造立、同堂ニ安置シ子孫繁栄ヲ誓願ス 爾来有志ノ老若男女、毎月此堂ニ集シ念仏供養ヲ営ム 此地ハ今井家始祖ノ墳墓ノ旧跡地ト云傳 又堂宇ノ西拾間余地小丘アリテ三ッ塚ト称スル塚アリ是ハ南北朝ノ官兵戦死者及び新田、今井ノ両家ノ諸士戦死ヲ合祀セシ地ト云傳」
 これによれば、寛文8年(1668)に駒込の今井家が子孫繁栄を祈願して地蔵尊とお堂を建立し、以来地元有志によって毎月念仏供養が営まれたことがわかります。
 戦前は70坪ほどの境内に多くの供養石像が並列し、節分には豆まきが盛大に行われ、24日の縁日には夜店が立ち並び、大変賑わいました。昭和20年(1945)4月に大空襲でお堂が焼失し、戦後ここに駒込診療所が開設し、その一角に祀られました。現在は城官寺(北区上中里)の境外地蔵尊として祀られています。
 地蔵堂内に、おかっぱ頭のセーラー服姿の童女が片手に宝珠を持ち、もう一人は錫杖を持って手をつないでいる供養碑があります。これは昭和8年(1934)にこの近くで交通事故にあって亡くなった11歳の仲良しの少女を供養するために建てられたもので、以後子育地蔵尊とともに地域の安全を見守り続けています。
 平成18年(2006)4月、駒込駅前通り商店街振興組合創立50周年および駒込2丁目親和会戦後60周年の記念事業として、新地蔵堂の建立と境内改修が行われました。

豊島区教育委員会が設置した解説板にはこう書かれている。

写真左にあるのが赤字部分で解説されている仲良しの少女供養碑。

やや見通しの悪い坂道ではあるのだけれど、昭和八年頃なら高速走行ができるよい路面状態とは思われないし、その当時の地図を見ると都電十九番の路面電車も走っている。どうして11歳の少女二人がおめおめと車に轢かれてしまうような悲劇がここで起こったのだろうと、解説板を見るたびに気になっていた。

日本全国たいがいの市区町村にある小さな地域を解説した社会科的な本が好きで古書で見つけるたびに買っている。そういうこの地域について書かれた一冊を読んでいたら謎が解けた。かわいそうなふたりの少女は消防車に轢かれたのだった。坂道を現場に急行する消防車が疾走して来たら、年寄り子どもでは避けきれないかもしれない。

「交通事故」とあるだけでは読み取れない悲惨な事故の顛末である。


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埴輪とクリスマス

2016年12月19日
僕の寄り道――埴輪とクリスマス

クリスチャンではないし、クリスマスを祝うような家庭ではなかったので馴染みがなく、日本のクリスマスとは馬鹿馬鹿しいお祭り騒ぎという印象が強い。だからこういう飾り付けを見ると「これが日本のクリスマスだ」という気がして嬉しくなる。

駒込駅に近いこの界隈では、地面を掘り返すと 2万年前、旧石器時代の石器と炉の跡、その上に縄文土器、竪穴式住居跡、弥生土器、土師器(はじき)などが重層して出土するし、かつて古墳らしきものがあったという記録もあるので、荒唐無稽なバカバカしさでもない。



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石の時間

2016年12月19日
僕の寄り道――染井坂上の庚申塔石の時間

小石を拾うのが好きで、そのことは繰り返しくりかえし日記に書いた。そして別な意味でも石が好きで、それは道祖神だったり、庚申塔だったり、見知らぬ人の古びた墓であったりする。人の手が加わった石造物ならなんでもいい。

歴史や民俗や文学に興味がないわけではないけれど、それらに詳しい人たちの興味からはおそらく逸脱している。そういう人たちと話したり、書かれたものを読んでいると、道祖神も庚申塔も古びた著名人の墓も、付き合い程度の知識より深いところ、そろそろ「想像」に属するあたりからはどうでもよくなる。あまり興味がないのだろう。

そうではなくて、自然の石にひとが手を加えて痕跡を残し、それが歳月を経て風化したり摩滅したものを見て、「そもそも『時間』とはいったいなんだろう」ということを考えるのが好きだ。

二三百年前に石に手を加えて文字や像を刻んだひとがいて、最初は真新しかったそれが、二三百年のあいだ「ここ」に「あり」つづけ、間断なく「いま」が消失した結果、風化したり摩滅したりした石の「いま」がここにある。その「いま」もまた次々に「過去」へと消滅していく。

駒込の西福寺には江戸時代染井在住の植木屋伊藤伊兵衛の墓がある。総合園芸書『花壇地錦抄』を著した伊兵衛は三代目で、この伊兵衛は政武でその息子にあたる。政武が亡くなったのが宝暦七(1757)年だが、その伊藤家の墓所内にある元禄四(1691)年の墓は古び方が穏やかで文字も掘られたばかりのように勢いがある。その右にある明治のは激しく風化剥落しており、石の質の違いかもしれない。

おそらく過去などという「もの」は「ない」のだけれど、自分が勝手に想像する二三百年の歴史を投影して見るから、この石にすら「過去」が「ある」ように思えてしまう。そういうことの奇妙さをじっと見つめながら思っているわけで、他人が見たらヘンなオヤジである。「そもそも『時間』とはいったいなんだろう」などと考えない友人は「あいつは病気だ」などと笑って言っているらしい。

生きているうちに「時間」とはなにかを少しでも知りたくて、時間論の本をあれこれ買い込んで、未明に目がさめるとごろごろ寝たまま読んでいる。小石を拾って考えるのは「無」について、石造物を見て考えるのは「実在」の反対の「不在」についてなのだろう。

12 月 19 日。朝、仕事場に来てバソコンを立ち上げたら画面右上に通知が表示された。コンピュータにこんな仕組みがあることによって母親の歴史はまだ続いており、「不在」のまま明日でもう 86 歳になる。


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染井坂上の庚申塔

2016年12月18日
僕の寄り道――染井坂上の庚申塔

染井坂上、駒込小学校の角にある庚申塔。造立年は1672(寛文12)年で、並んで合掌する二猿像が彫られている。

見猿、聞か猿、言わ猿で三猿になったものはよく見かけるけれど、二猿のものはあまり見たことがない。並んで手を合わせた姿が素朴で好きだ。


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SOMEDAY

2016年12月17日
僕の寄り道――SOMEDAY

年末なので仕事をしながら片付け物をしていたら、佐野元春の古いシングル盤が 5 枚まとまって出てきた。友達に貸したのが戻ってきて、そのまま袋に入ったまま埋もれていたのが発掘されたわけだ。

「SOMEDAY」が1981年、「TONIGHT」が1984年、「Young Bloods」が1985年、「SEASON IN THE SUN -夏草の誘い- 」が1986年、「WILD HEARTS -冒険者たち-」が1986年で、このころ佐野元春が好きだった。当然、自分も佐野元春も若かった。佐野は学年で言ったらひとつ下の世代になる。

DENON の安物レコードプレーヤから出ているイコライザーを通ったラインアウト信号、そのピンジャックをステレオミニプラグに変換し、ハンディレコーダーのライン入力端子に接続してみたらちゃんと繋がる。試しにマニュアルで録音レベル調整をしながら 24bit/96kHz のリニア PCM で WAV ファイル化してみた。

いままでアナログレコードは暇を見つけて MP3 にデジタル化していたのだけれど、やはり WAV ファイルは音が良いということが、佐野元春だからわかったような気もする。今後はこの方式で録音し、物置を整理したいと思う(年末の抱負)。


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椎名町漁港のある曲がり道

2016年12月16日
僕の寄り道――椎名町漁港のある曲がり道

池袋の編集事務所で打ち合わせがあったので、終了後はいつも通り椎名町駅まで歩き、西武池袋線にひと駅だけ乗って帰ってきた。

駅前からゆったりと曲がって北へ向かうこの道が好きだ。角に椎名町漁港と書かれたのれんの居酒屋がある。こういう道はたいがい古道なので明治初年の地図(左)を調べたらちゃんと書かれており、西武池袋線や山手通りはまだ影も形もない。

腰が曲がって杖をついたおじいさんが歩いており、この辺で生まれ育った方なら、地図のようだったこのあたりのことを知っていそうに思うが、見たところ大正末の生まれに見える。大正末の地図(右)を見ると西武鉄道はあるが椎名町駅はまだない。開業年を調べたら1924(大正13)年だった。


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エイジングケア

2016年12月16日
僕の寄り道――エイジングケア

 知り合いの女性編集者が、90歳近くまで舞台に立ち続けたカリスマ女優の舞台を観に行き、帰ってきて開口一番、口をついて出た感想が
「モモンガみたいでびっくりした!」
だった。
 人間、歳をとると筋肉の張りが衰えたり、痩せて肉が落ちたりして、身体を覆っていた皮膚が余って垂れ下がる。自分もまた頬や顎の皮膚がたるんで垂れ下がり気味になり、鏡の中の自分と目が合うと思わず目をそむけたくなる。年老いた女優が舞台上で見せる鬼気迫る演技ではなく、袖なしの衣装でむき出しになった肩から肘への二の腕から、余った皮膚が垂れ下がって動物のモモンガみたいだったというのだ。
 「あの人はツラの皮が厚い」
などと言うけれど、あの人は恥を恥とも思わない性格であるという比喩ではなく、本当に顔の皮膚には厚い薄いの個人差があるように思う。特養ホームで暮らす義母は色白でポワンとした容貌の女性だったが、いわゆる認知症と呼ばれる状態になった頃から、人生にがっかりしたように皮膚が垂れ下がり出した。まだ家族のことが理解できて喋れた頃、ホームの屋上に連れ出したついでに鏡の前で髪をといてやったら、
「こうやって鏡を見ると自分がいやになるのよ」
と言っていた。
 毎週末、妻にくっついて特養ホーム訪問をし、居室に入ってベッドで寝ている義母を真上から覗き込み、
「おかあさん、おはよう!」
と言って反応を確かめるのだけれど、ごく稀にだけれどコクリとうなづいて反応のある日がある。
 仰向けで寝ているときの義母は驚くほど若い。
 加齢による皮膚の垂れ下がりは避けられない宿命なのだけれど、美容整形の荒療治であらがう事も芸能人などでは珍しくないようで、メスを入れて余った皮膚を引っ張り上げる事をフェイスリフトという。そして見かけだけでも老化にあらがいたい人たちのための商売をエイジングケアと呼ぶ。
 特養ホームには定期的に美容師さんや理容師さんがやってきて、義母はヘアカットをしてもらうが顔剃りもいっしょにしてもらい、産毛が消えただけでずいぶん若く見える。
 整形美容の荒療治を受けたわけでもないのに、髪がさっぱりし、顔剃りですぺすぺになり、仰向けで寝ている義母の顔が若返って見えるのは、重力に引っ張られて皮膚が垂れ下がり、万有引力による逆フェイスリフトが起こっているからだ。
 女性は歳をとるとどんどん母親に似てくるように思う。
 若い頃の妻はあまり母親似と思わなかったけれど、介護ベッドに乗って母親を覗き込みながら、拘縮のある身体をマッサージしている姿を見ると、顔の皮膚が重力に引っ張られて垂れ下がり、いつかこの人も年老いて介助を受ける側になるのだなとリアルに思う。
 年相応に皮膚がたるんできた義母も妻も、写真を見るとずいぶん若返って見える瞬間があり、フェイスリフトとも逆フェイスリフトともちがう、笑顔によるたるみ解消が起きているらしい。余った皮膚が自然に折りたたまれているのであり、笑いによってできるシワの数と深さは増えているのだけれど、たるんだ顔に見えない。
 よく笑う人はそういう理由でいつまでも若く、笑顔は自然のエイジングケアなのだろう。

 

 

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