事故の顛末

2016年12月19日
僕の寄り道――事故の顛末

本郷通りが駒込駅の跨線橋を越えて山手線外に出ると、右にカーブしながら下りになり、この坂を妙義坂という。この「く」の字カーブの曲がったあたりに地蔵堂があってかなり古い。

 「寛文八戌申年十月、旧邸ノ南丘陵ノ地ヘ間口二間、奥行三間ノ堂宇ヲ建設シ、地蔵尊像(石像丈二尺三寸)一体ヲ造立、同堂ニ安置シ子孫繁栄ヲ誓願ス 爾来有志ノ老若男女、毎月此堂ニ集シ念仏供養ヲ営ム 此地ハ今井家始祖ノ墳墓ノ旧跡地ト云傳 又堂宇ノ西拾間余地小丘アリテ三ッ塚ト称スル塚アリ是ハ南北朝ノ官兵戦死者及び新田、今井ノ両家ノ諸士戦死ヲ合祀セシ地ト云傳」
 これによれば、寛文8年(1668)に駒込の今井家が子孫繁栄を祈願して地蔵尊とお堂を建立し、以来地元有志によって毎月念仏供養が営まれたことがわかります。
 戦前は70坪ほどの境内に多くの供養石像が並列し、節分には豆まきが盛大に行われ、24日の縁日には夜店が立ち並び、大変賑わいました。昭和20年(1945)4月に大空襲でお堂が焼失し、戦後ここに駒込診療所が開設し、その一角に祀られました。現在は城官寺(北区上中里)の境外地蔵尊として祀られています。
 地蔵堂内に、おかっぱ頭のセーラー服姿の童女が片手に宝珠を持ち、もう一人は錫杖を持って手をつないでいる供養碑があります。これは昭和8年(1934)にこの近くで交通事故にあって亡くなった11歳の仲良しの少女を供養するために建てられたもので、以後子育地蔵尊とともに地域の安全を見守り続けています。
 平成18年(2006)4月、駒込駅前通り商店街振興組合創立50周年および駒込2丁目親和会戦後60周年の記念事業として、新地蔵堂の建立と境内改修が行われました。

豊島区教育委員会が設置した解説板にはこう書かれている。

写真左にあるのが赤字部分で解説されている仲良しの少女供養碑。

やや見通しの悪い坂道ではあるのだけれど、昭和八年頃なら高速走行ができるよい路面状態とは思われないし、その当時の地図を見ると都電十九番の路面電車も走っている。どうして11歳の少女二人がおめおめと車に轢かれてしまうような悲劇がここで起こったのだろうと、解説板を見るたびに気になっていた。

日本全国たいがいの市区町村にある小さな地域を解説した社会科的な本が好きで古書で見つけるたびに買っている。そういうこの地域について書かれた一冊を読んでいたら謎が解けた。かわいそうなふたりの少女は消防車に轢かれたのだった。坂道を現場に急行する消防車が疾走して来たら、年寄り子どもでは避けきれないかもしれない。

「交通事故」とあるだけでは読み取れない悲惨な事故の顛末である。


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