石の時間

2016年12月19日
僕の寄り道――染井坂上の庚申塔石の時間

小石を拾うのが好きで、そのことは繰り返しくりかえし日記に書いた。そして別な意味でも石が好きで、それは道祖神だったり、庚申塔だったり、見知らぬ人の古びた墓であったりする。人の手が加わった石造物ならなんでもいい。

歴史や民俗や文学に興味がないわけではないけれど、それらに詳しい人たちの興味からはおそらく逸脱している。そういう人たちと話したり、書かれたものを読んでいると、道祖神も庚申塔も古びた著名人の墓も、付き合い程度の知識より深いところ、そろそろ「想像」に属するあたりからはどうでもよくなる。あまり興味がないのだろう。

そうではなくて、自然の石にひとが手を加えて痕跡を残し、それが歳月を経て風化したり摩滅したものを見て、「そもそも『時間』とはいったいなんだろう」ということを考えるのが好きだ。

二三百年前に石に手を加えて文字や像を刻んだひとがいて、最初は真新しかったそれが、二三百年のあいだ「ここ」に「あり」つづけ、間断なく「いま」が消失した結果、風化したり摩滅したりした石の「いま」がここにある。その「いま」もまた次々に「過去」へと消滅していく。

駒込の西福寺には江戸時代染井在住の植木屋伊藤伊兵衛の墓がある。総合園芸書『花壇地錦抄』を著した伊兵衛は三代目で、この伊兵衛は政武でその息子にあたる。政武が亡くなったのが宝暦七(1757)年だが、その伊藤家の墓所内にある元禄四(1691)年の墓は古び方が穏やかで文字も掘られたばかりのように勢いがある。その右にある明治のは激しく風化剥落しており、石の質の違いかもしれない。

おそらく過去などという「もの」は「ない」のだけれど、自分が勝手に想像する二三百年の歴史を投影して見るから、この石にすら「過去」が「ある」ように思えてしまう。そういうことの奇妙さをじっと見つめながら思っているわけで、他人が見たらヘンなオヤジである。「そもそも『時間』とはいったいなんだろう」などと考えない友人は「あいつは病気だ」などと笑って言っているらしい。

生きているうちに「時間」とはなにかを少しでも知りたくて、時間論の本をあれこれ買い込んで、未明に目がさめるとごろごろ寝たまま読んでいる。小石を拾って考えるのは「無」について、石造物を見て考えるのは「実在」の反対の「不在」についてなのだろう。

12 月 19 日。朝、仕事場に来てバソコンを立ち上げたら画面右上に通知が表示された。コンピュータにこんな仕組みがあることによって母親の歴史はまだ続いており、「不在」のまま明日でもう 86 歳になる。


コメント ( 0 ) | Trackback ( )
« 染井坂上の庚申塔 埴輪とクリスマス »
 
コメント
 
コメントはありません。
コメントを投稿する
ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません
 
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。