電脳六義園通信所別室
僕の寄り道――電気山羊は電子の紙を食べるか
【水溜まり礼賛】
(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2006 年 3 月 2 日の日記再掲)
子どもの頃は雨が降ると必ず町じゅうが水溜まりだらけになった。
水溜まりができた時代が懐かしい……などと水溜まりの味方をするのは難しい。水溜まりは昔から大人たちの宿敵だったし、今でも水溜まりを快く思わない人が多いと思うのだ。
ある人にとっては時代の進歩から取り残された地域であることの腹立たしい証(あかし)であるかもしれないし、ある人にとっては商売の邪魔かもしれないし、何よりも水溜まりは「バリアフリー」じゃないからだ。
■ 1970(昭和 45 )年、三保。給水塔があった道。
minolta SRT101 Rokkor 58mm F1.4
静岡県清水、大内田んぼの真ん中にあった祖父母の家の人びとが地域生活の頼みの綱にしていたのが土手の道や農道であり、それらの道は未舗装なので雨が降ると空が寝小便したようにおおきな水溜まりができた。
祖父や叔父は屋根の葺き替えを請け負った際に引き取ってきた古瓦を細かく砕いては手押し車で運んでいって水溜まりを埋めた。埋めても埋めてもまた水溜まりができることとのいたちごっこの中で、昔の人は本当によく働いた。
昭和三十年代、小学校を卒業するまで過ごした東京都北区王子は下町の工場地帯とはいえ立派な市街地だったけれど、それでも一歩裏通りにはいると未舗装の道ばかりだった。今のように路地に入っても舗装されているのが当たり前の時代にはもうできない、土の上だからこそできるいろいろな遊びもあった。
小学校を卒業し、生まれ故郷静岡県清水の中学に入学してまず驚いたことは、小学校も中学校も(清水市立第二中学と岡小学校の校庭はくっついていた)校庭が土だったことであり、生まれて初めて体育の授業を土の上で受けた。
■ 1970(昭和45)年、京都、たぶん知恩院。水に映っているのmは掛川から三保にあった私立高校まで通っていた友人。高校一年の秋、彼と二人で連休を利用して京都に遊びに行った。
minolta SRT101 Rokkor 58mm F1.4
東京の小学校や中学校はコンクリートの校庭で、しかも非常に水はけが悪いので雨上がりは校庭が水溜まりだらけになって体育の授業ができないことが多かった。それでも休み時間になると生徒は外に出て水溜まりで遊んだ。不思議なことに雨が降った翌日の水溜まりには、黒ゴマよりもっと小さなミズスマシのような虫がたくさん泳いでいるのだった。
どうして乾ききったコンクリートの上に一晩でできた水溜まり、その中に翌朝になるとミズスマシのような虫がたくさん泳いでいるのかは子ども時代から今に至るまで謎のままだけれど、富山県富山市で生まれ育った妻に聞いたら、やはり雨が降ると水溜まりにミズスマシのようなものが湧いてきて、捕まえて遊んだという。
■1970(昭和 45 )年、京都、たぶん東福寺。
minolta SRT101 Rokkor 21mm F4
水溜まりは天を映す鏡であり、不思議な生き物の受け皿である。
学校帰り、大きな水溜まりの前に立つと風が吹いてさざ波が水面を渡り、それは巨大な湖面のようであり、長靴で歩いて入っていくと、身体ごと水没してしまうのではないかと思うほどの錯覚があってくらくらした。
あの水溜まりだらけだった時代が懐かしいなあ、などと枯山水のような都市暮らしをしていると思うけれど、やはり水溜まり擁護の論陣を張るのは容易でない。
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