ピースメーカー


SIGMA DP2

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ピースメーカーという愛称を持つ拳銃がある。
正式名はコルト・シングル・アクション・アーミー(コルトSAA)で、1872年に発売されるや大ヒットし、瞬く間に米国中に広まり、「西部を征服した銃」とも呼ばれた。

シングル・アクションというのは、発火時の動作がひとつづつに分かれていることで、指でハンマー(撃鉄)を起こして(その時シリンダーが回転する)、次にトリガー(引き金)を引く・・という2回の動作を行うことで弾丸が発射される。
それに対しダブル・アクションの場合は、指でトリガーを引くだけで、同時にシリンダーが回転して弾が発射される。
シングル・アクションの方が、操作上手間はかかるが、内部構造はシンプルである。

SAAは、コルトが満を持して発売した金属薬莢を使った拳銃であり、極めて完成度が高かったこともあり、その後現代に至るまで製造され続けるという歴史に残る名銃となった。
ピースメーカーという名は、この銃を持つことで、女性など腕力の弱いものでも大男と対等に向き合うことが出来、結果的に平和がもたらされる・・という意味で付けられたという。
極めてアメリカ的な発想である。

西部劇に出てくるあの銃だといえば、お分かりになる方も多いと思う。
ガンマンがくるくると回してみせるのが、このピースメーカーである。

1950年代の、西部劇全盛時の映画会社の小道具倉庫は、ほとんどこの銃で占められていたのではなかろうか?
時代考証にうるさくなかった当時の西部劇では、SAA発売前の南北戦争(1861-1865)の時代を背景とした作品にも、小道具として使われることが多かった。
細かいことにこだわらないアメリカらしいやり方である。

早撃ちに使うのもこの銃で、僕が子供の頃はガンベルトにピースメーカーのモデルガンをさして、早撃ちの練習をした。
そのためもっとも親しみのある、手に馴染んだ銃(もちろんおもちゃではあるが)ともいえる。

学生時代にこの銃の金属製モデルガンを伯父に見せたことがある。
伯父は太平洋戦争の時、日本陸軍の兵士として満州に渡り、戦死したものと思われていたが、終戦後1年近く経ってから奇跡的に帰還した。
当時の話を聞くと、生き残ったこと自体が不思議なほどの凄まじい状況で、まさに奇跡の生還であった。

モデルガンを見た伯父の顔つきが変わった。
扱い方法を説明していないのに、伯父は慣れた手つきでピースメーカーを構えると、ハンマーを指で起こし、壁の方を狙って、トリガーを引いた。
ハンマーが落ち、金属の叩かれる音が響いた。
「うん・・・これだ。間違いない」
伯父がつぶやいた。

驚いた僕が、撃ったことがあるのですか?と聞くと、
「若い頃にね」
と答えた。

伯父によると、当時は国から三八式や九九式といった歩兵銃を与えられたが、それらは天皇陛下から授かったもので、それこそ命より大切に扱わなければならない。
毎晩のように油をくれて、蝋燭の火で煤を付けて手入れをした。
そのため、実戦でもなるべく発射して汚したくないという心理が働き、撃つのをためらったという。

もちろん普段町を歩く時に持ち歩くことなど考えられず、そうは言っても丸腰では危険なので、代わりに古いおんぼろの武器を携行した。
旧式の銃が一杯入った木箱を、どこからか仕入れてきて、そこから銃を取り出しては、持って行ったという。
それがまさにコルトSAA、ピースメーカーだったのだ。

「それからもうひとつ、こういう変な形の銃もあったな」
伯父は絵を描いてみせた。
「ああ、それはモーゼル・ミリタリーですね。ドイツの銃ですよ。満州では馬賊などが使っていたのではないですか?」
「これも当時は旧式でね。酷いものだったよ」

まさに驚くべき事実であった。
まさか親戚が、戦時中にピースメーカーを撃っていたとは思わなかった。
それも中国大陸でである。
アメリカで払い下げられた中古品が、巡り巡ってかの地に流れ着いたのだろうか。

「腰のベルトにね、手ぬぐいを巻いて、それにこの銃を入れてぶら下げて、得意になって町を歩いたものだよ。僕も若かったからね」
「・・・」

その時僕は遺伝的なものを強く感じたのであった。
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