ナポレオン


FUJIFILM X100V

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「ナポレオン」を観てきた。
さすがリドリー・スコット監督で、驚くべき完成度の映像作品であった。
構図も編集もリズム感も、申し分なかった。

ちょっと驚いたのは、CGと実写の境目が、ほとんど分からなかったことだ。
エキストラを総勢8000人も使ったというので、恐らく実写をメインに撮影されたのだとは思う。
(よくそれだけの製作費をかけられたものではあるが・・・)

CGでないと撮影できないところは多々ある。
そこは実写映像と上手く合成しているのだろうが、不自然な場面はほとんどなかった。
映像技術が新次元に入っているのを感じた。
今後はこれが基準になるのか・・・

SF漫画のヒーローものばかりで、飽き飽きしている人も多いと思うが、歴史ものでこれだけの品質の作品が作れるとなると話が変わってくる。
カメラワークにも非現実的な動きがほとんどなく、しっとりとした質感と完成度の高い構図を最後まで維持し続ける。
細部にまで気を遣い、妥協しないリドリー・スコット監督の気質と、最新の映像技術が見事に結合した作品・・と言えるであろう。
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ゲゲゲ


FUJIFILM X100V

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ひょんな事から、「鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎」という映画を観た。
出来がいいらしい・・と人から勧められたのだ。
(ここからネタバレを気にせずに書くので、これから観ようという方は読まないでいただきたい)

ネット上の評価も高いし、先週だったか、興行成績もゴジラに次ぐ2位になっていた。
パンフレットが売り切れていて、ネットでプレミアム付きで売られているという。
実際映画館はほぼ満席で、最後の1シートがやっと取れた。
予想外のヒットのようだ。

もともと僕はアニメーションは宮崎作品くらいしか観ないし、「ゲゲゲの鬼太郎」が特別好きなわけでもない。
だから本来なら、まず劇場で観ることはなかった作品である。
そのためあまり期待していなかったのだが、予想に反しけっこう面白かった(笑)

水木しげる氏に独特の世界があるのは認める。
また氏の戦争での凄まじい体験が、何らかの形でそこに投影されているのも確かだろう。
僕も子供の頃は「墓場鬼太郎」を読んで育ったし、漫画やテレビドラマの「河童の三平」、「悪魔くん」といった水木作品は常に身近なものであった。
幼稚園の頃、自分が描いた漫画にも、鬼太郎を題材にしたものが多い。

ただあの独特の、のほほんとした絵やリズム感が、それほど好きなわけではなかった。
手塚治虫氏が、水木氏を自分の敵たり得ないと判断し、馬鹿にした態度で接して、水木氏を怒らせたというのは有名な話である。
また子供向けを意識したのだろうが、テレビの鬼太郎が妖怪相手にバトルをするのも好きではなかった。
プロレスみたいな取っ組み合いのシーンを入れて、闘争本能を刺激して視聴率を稼ごうというのは、子供番組の宿命か・・・

今回の映画が気に入ったのは、初期作品である「墓場鬼太郎」の前日譚という設定で、いつもの鬼太郎のパターンではなかったことがある。
2008年に製作された「墓場鬼太郎」というアニメの第一話を先に見ておいた方がいいと言われて、Youtubeで視聴したのだが、漫画本の「墓場鬼太郎」をベースに少し内容が変えられていた。
ただ、いまだにこういう映像作品が作られたり、町を挙げての観光に起用されたりするのは、氏の熱狂的なファンが一定数いるということなのだろう。

確かに妖怪ものは数年周期で流行するというし、その結果多くの人が何らかの形で鬼太郎を見て育っているのだが、実際にこういった作品まで製作されるというのは、氏の作風を愛して止まない人達が多いのだと思われる。
まあ確かに、あの「ビビビビン」というビンタ(「しげるビンタ」というらしい)など、氏の作品には何かと印象に残るシーンが多い。
それにねずみ男なんて、今でこそあまり見ないが、僕が子供の頃は、ああいう汚らしくて油断ならない人がけっこういたのだ。

今回の作品は、鬼太郎の父親の代の話で、鬼太郎はほとんど出てこない。(そこがむしろ気に入ったところなのだが・・・)
設定は昭和31年で、鬼太郎が生まれる直前の話である。
まあ悪役の妖怪などとのバトルシーンはやはり出てくるのだが、それは入れざるを得ないのだろうな・・・

主人公は「墓場鬼太郎」にも出てくる、水木という戦争で生き残った男。
玉砕した戦地からひとり生還し、極限の状況で受けた心の傷から、せっかく与えられた残りの人生にも、どこか斜に構えた冷めた態度で接している。
時代柄、皆がタバコをバカスカ吸うところがいい(笑)
そして映画は、その主人公と鬼太郎の父親との友情が軸になっていく。

舞台は下界から隔離された山奥の村で、極めて閉鎖的な集落である。
キャラクターデザインは今風になっているが、村落内部でのよそ者に対する排他的な反応は、なかなかリアルであった。
主人公がひとりで村に入っていくと、誰とも遭遇していないのに、すでにその情報が村中に広まっている。
それを知った主人公が、ちらりと村の建物の窓を見上げるのだが、常にどこかから監視されていることを、それだけで表しているのはよかった。

こういう閉鎖された村落を舞台とした作品のジャンルを「因習村」というのだそうだ。
横溝正史の「八つ墓村」などが代表であろう。
今だとフィクションとして見る人が多いのかもしれないが、僕が子供の頃には、こういう世界が普通にあったし、親の世代からもよく話を聞いた。
実は今でも根強くこういう風習の痕跡が残っているところはあり、それは時折経験している。

映画のように、よそ者を内部で処刑して始末する・・というのは、さすがに今は無いと思うが、恐らくかつては時折行われていたのではないか。
ちゃんと腕っぷしの強い連中がいて、処刑人の役割を担っている。
作品の中では、普段外部の世界と接触している人物までもが、よそ者を処刑しようという時には、横を向いて知らぬ顔をしようとした。
それが日常的に行われている事であると示唆していた。

そもそも妖怪の存在自体を信じない人も多いだろう。
でも今でも那須の実家などに行くと、人の住む世界とは違う、魑魅魍魎の世界を感じることがある。
非科学的で不思議な出来事についても、当たり前の事のように受け入れている。
そういう雰囲気が好きで田舎に行く僕も、考えてみれば鬼太郎の世界に惹かれた者のひとりなのかもしれない。
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古い作品


Z9 + NIKKOR Z 50mm f/1.2 S

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古い映画を時々見直していることを書いた。(2023年5月2日の日記
すでにかなりの本数を鑑賞したが、まだもう何本か観ようと考えている。
観直す作品のリストも作っている。

若い頃に感銘を受けた映画が中心である。
それらが今でも同じ感動を与えてくれるものなのかを確かめたい。
いわゆる名画ばかりではなく、あまり世間に知られていないマニアックな作品も含めている。
そういう特殊な感覚が、今でも通用するのだろうか・・という興味もある。

映画そのものより、そこから生じるこちら側の反応が、かつてと同じなのかどうかが興味深いのだ。
作品を通じて、世の中や自分の変化を確かめることが出来るのだ。
時には自身の遅れた部分や、今の世代とのずれを見せつけられることもある。
映画鑑賞に、こういう使い道があるとは思わなかった。

ところで、リストアップした作品が、すべて観られる訳ではない。
会員になっているのは、アマゾンプライムとネットフリックスだが、それだけでは重要な作品がかなり抜けてしまう。
仕方なくDVDやブルーレイソフトを取り寄せるのだが、そちらにも無い場合がある。
つまり事実上観ることが出来ない作品があるのだ。

配信に揃っているのは、製作年度の新しい作品が多く、古い作品の収集にはあまり積極的とは言えない。
まあ需要が無いから仕方が無いのだろうが・・・
けっこう有名な作品でも、配信にもソフトにも無く、観られないものがあって驚いている。
えーっ、こんな傑作が観られないのか・・という事もあった。

調べてみると、比較的古い作品に力を入れている配信会社やレンタルソフト会社はあるようだ。
しかし数本の映画を観るためにわざわざ入会するのもなぁ・・という思いはある。
恐らくある程度の本数を観たら止めることになるだろうし・・・

映画ソフトの配信が一般化してから、ディスクなど物としてコレクションすること自体が古臭い行為になった。
昔は壁一面にビデオテープやレーザーディスクを並べていた。
それらの価値が無くなったと思い、全部捨ててしまったのだが・・・
以前ならリストアップした作品はすべて揃っていたのに、この時代に観たい時に観られないなんて・・・

まあ古いソフトがあったところで、今のテレビで観ることは出来ないし、画質も満足できるものではないのだが・・・
実は新しく家具を置くために古い棚を片付けていて、古いLDがまた何枚か出てきたのだが、その中に現在配信でもソフトでも入手できないタイトルが含まれていたのだ。
だからと言って、今更プレイヤーも当時のテレビも無く、観る事も出来ず悔しい思いをした。
すべてのソフトを観たい時に自由に観られる・・・そんな環境を夢見たのだが、なかなかそう上手くはいかないようだ。
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君たちは・・・


Z9 + NIKKOR Z 50mm f/1.2 S

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土曜日に映画「君たちはどう生きるか」を観てきた。
チケットの予約は簡単に取れたが、上映開始の頃にはすべて席が埋まっていた。
宣伝をしなかったので、公開したことに気付いた人たちが、慌てて集まってきたようだ。
ごった返す映画館のホールでも「さっきまで誰もいなかったのに・・」と驚く声が聞こえてきた。

どう評価していいか分からない・・という声が多いという。
ファンタジーにしては、戦時下の重い現実がベースになっている。
まあもともと宮崎氏は、ただ楽しませるだけの能天気な作品を作る人ではないのだが・・・

実は僕はファンタジーというのがどうも苦手である。
昭和2年生まれのリアリストだった父に育てられた影響かもしれない(笑)
宮崎作品でも、ポニョやトトロ、ハウルや千と千尋、もののけ姫などは、今ひとつ理解できない。
恐らく宮崎氏にはしっかりした理由があって、ああいうキャラクターデザインやストーリーになるのだろうな・・とは思うのだが、こちらはそういう知識が無いので、何が何だかよく分からないのだ。

その点今回はどうであったか・・というと、「君たちはどう生きるか」は、実は非常に納得のいく作品であった。
個人的にはベストの何本かに入れていいと思った。
ストーリーとしては、もちろんファンタジー以外の何物でも無いのだろうが、実際には映画の始まりからずっと、それが非常にリアルな世界に見えて仕方が無かった。
この映画に関して、ネタバレを含む感想を書くことを皆さん自粛しているようなので、なるべくソフトに書こうと思うが、少しでもストーリーに触れられることを嫌われる方は、以降は読まないでいただきたい。

これは個人的なことなのだが、宮崎氏と僕の母親の育った環境とは、地理的に非常に近く(というか同じ場所にいたと言える)類似点が多い。
僕の母親の家族は東京の真ん中にいたが、戦争の疎開のため・・というより、半官半民の仕事で祖父が宇都宮に赴任したため、一家がそちらに移動した。
母親の兄や姉は、現地で中島飛行機の工場で働いていた。
母親の年齢は、今回の映画の主人公より恐らく少しだけ若く、宮崎氏より数歳上である。

宇都宮が空襲を受けた日には、家族が散り散りになって避難し、焼夷弾の降り注ぐ真っ暗な中を必死の思いで逃げた。
B29の飛来の様子を見て、ここにいたら助からないから逃げようと、祖父が自転車を押し、母と叔父(宮崎氏と同年齢)の二人だけを連れて出た。
防空壕は直撃を受けたので、外に飛び出したのは正解であった。
途中でどこかの子供たちがドブから亡霊のように立ち上がり、一緒に連れて行ってとすがってきたが、助けることなどできなかった。
家は焼け落ち、屋根だけがそのままの形で地面に落ちていた。

一方で同じく宇都宮にいた宮崎氏は、空襲の際に自動車に乗って逃げた・・という話を読んだことがある。
母親は少し怒りながら、あの時そんなことが出来るなんて、普通の家族ではない、と言った。
車を持つこと自体が、限られた人にしか出来ない時代であり、恐らく軍に関係した仕事をしていたのだろう・・とすぐに思ったという。

この映画を観ていて、多分に宮崎氏の自伝的なものが含まれているのではないか・・と強く感じた。
主人公は氏より少し年上なので、あるいは年上の世代を観察していた氏の記憶がベースになっているのかもしれない。
その時代を生きた人にしか分からない空気感が表現されていた。

映画に出てきた洋館のことを母親に話したところ、恐らく映画程のものではないのだろうが、あの頃はいくつかの家に洋風の建物があったという。
お金のある家では、古くからの和式の大きな家と、離れに洋館を持っている事が多く、子供たちがそちらで暮らしたりしていた。
実際母親も、宇都宮でそういう家を借りてしばらく住んでいた事があり、そこは一階は洋間で二階は畳の部屋になっていたという。

その時の思い出は、しかしとても暗く、記憶としてはモノクロ、あるいはセピア色の世界に埋没していた。
母親にとっては、死と隣り合わせの恐怖、飢え、感情面でのぶつかり合いなどに直接結びついている・・ということもある。
それをこの映画は、鮮やかで美しい色使いで、非常に現実味のあるものとして描き、澄んだ空気や木々の匂いまでもを蘇らせてくれた。
子供の頃から聞かされて育った僕にとっても、ああいう空間だったのか・・・と、急にリアルな世界を見せられたような衝撃と感動があった。

そのためこの映画の描いた世界は、とても親しみやすく理解しやすいものであった。
隔離された森の奥にある異質な空間は、もちろん夢の中の話のように見える。
しかし勝手な想像ではあるが、これだけの作品群を作った人なら、子供の頃から尋常でない空想の世界の中に生きていたはずであり、案外当人にはごく自然に見えていた世界に近いのではないか・・・と思えてくるのだ。
あやふやな接点で異空間と現世とが繋がっているのも、子供の生きる世界には普通にあることであるし、もしかすると今でも山の奥に踏み入れば体験できるものなのかもしれない。

今回さらにいいと感じたのは、人間が誰でも持っている解決できないドロドロとしたものと、正面から向き合おうとしているところだ。
多分今までの作品と少し違うところであり、映画の主題になった本とも絡んでくる。
個人的にはこの映画が気に入った理由でもあるのだが、単なるファンタジーとして観るなら、ここはピンとこない、あるいは受け入れられない重い部分なのかもしれない。

何の資料も無いので(笑)、素っ頓狂な意見になっているかもしれないが、僕自身が一回だけ観て感じたことを書いた。
久しぶりにもう一回観たいと思う作品であった。

ところで話は変わるが、零式艦上戦闘機のキャノピーって、三つのパーツをひとつにくっつけて運べるのだと驚いた。
たしかに手作業で物を作り、パーツを現物合わせでひとつずつ調整する当時の工業製品だから、実際に組み合わせて1セットにする必要があるのかもしれないが・・・
設計者が主人公でありながら、実際には肝心の零戦が最後に一瞬しか出ない前作(「零戦を作る映画」と思い込んでいる人が多いが)より、今回の方が少し(キャノピーだけだが)登場する場面の時間が長いかもしれない(笑)
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リメイク


Z9 + NIKKOR Z 50mm f/1.2 S

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英国映画の「生きる LIVING」を観た。
公開されてすぐに観に行った。
黒澤の「生きる」が、個人的にとても重要な作品であったから、そのリメイク版は観ておく必要があった。
(以下ネタバレあり)

正直評価が難しいな・・と思った。
作品としてはよく出来ているのだろう。
俳優もいいし、シナリオもよく練られている。
しかしオリジナルを何度も観ており、先の展開がすべて分かっているため、どうしても「普通」に見ることが出来ない。
当時の英国に合うよう設定にいくつか変更はあっても、基本的にオリジナルのストーリーに忠実に作られているため、余計にそう感じてしまった。

一方で英国の実情に合っていないのか、カットされたシーンもある。
主人公がヤクザに脅される場面などは、個人的には今でも時々思い出すシーンであり、ちょっと楽しみにしていたのだが、完全に削除されてしまった。
そういったことが、最初から最後まで繰り返され、普通に鑑賞することが出来なかった。

しかも重要なシーンで、普段愛聴しているヴォーン・ウイリアムズが使われたので、エッとなった。
まあイギリス映画だから堂々と使ってもらっていいのだが、場面よりそちらに気がいってしまった。
一番大切なシーンで、よく知っているメロディが流れてきたら、いくら映像に合っていたとしても、意図したはずの効果が飛んでしまう。
という訳で、あくまで僕の場合だが、上手く乗る事の出来ない作品となってしまった。

黒澤明の「生きる」は、黒澤の中でも、本当に特別で重要な作品なのだ。
脚本のカズオ・イシグロ氏自身、「生きる」を子供の時に見て強い衝撃を受けたと言っている。
僕も小さい時に、父親から「黒澤の最高傑作は「生きる」だ」と言われて育ち、学生時代は劇場で上映されるたびに観に行った。
父親は「生きる」が公開された時に、黒澤監督が何を言いたいのか、はじめて分かった・・と言っていた。

多くの映画好きにとって、「生きる」は特別な作品なのだ。
大袈裟に聞こえるかもしれないが、人生の指標になった作品でもある。
そう発言する人をかつて何人か見ている。

皆が自分の「生きる」を持っている。
それだけにリメイクは難しいな・・と感じた。
オリジナルには、何といってもゼロから作り上げたエネルギーがあるが、リメイクではその要素は当然失われるのだし・・・

逆に言うと、オリジナルの「生きる」を観ていない人には、この映画は訴えるものがあるかもしれない。
オリジナルは今となっては演出やテンポに古い部分が多いと思うが、こちらは最新の映画で、現代の文法にのっとって作られている。
まっさらな状態で観ることが出来れば、心に訴えるものの多い作品なのではないか。
と、僕には推測するしかないのだが、どうなのだろう・・・
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微妙


Z9 + NIKKOR Z 50mm f/1.2 S

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アマゾン・プライムで「シン・ウルトラマン」を観た。
劇場公開時に行きたかったが、ついに行けなかった映画だ。
もっともその後すぐに自宅で観られるわけだが・・・

公開当時、賛否両論であった。
どうしても「シン・ゴジラ」と比べてしまう。
演出がそっくりな上、登場人物も一部引き継いでいるので、余計に意識してしまう。

「シン・ゴジラ」は傑作だと思ったが、同じ語り口で作られた「シン・ウルトラマン」の方は、微妙・・というのが、友人の意見だった。
では観なくていいか・・と返したら、いや、これは観ておくべきだ、と言う。
実際観てみて、なるほどね・・という感じであった。

確かに「シン・ゴジラ」のような衝撃は少ない。
「シン・ゴジラ」には、ひとつの巨大な敵に対し、日本が総力で戦う一体感、そしてそれに打ち勝った爽快感があった。
あの映画は、震災や原発事故で多くの日本人が受けたダメージとも、強く結びついていた。

ところが「シン・ウルトラマン」は、いきなり怪獣が次々に出て暴れまくり、しかもそれが日常になっている。
そもそもがウルトラマンという物語の設定自体がマンガ的である。
何故か日本だけに次から次へと怪獣や宇宙人が現れて、しかも知的生命体なのに取っ組み合いの喧嘩をするのだ。
街やビルを滅茶苦茶に破壊して、そこに住む人達の生命や財産を奪いまくることへの言及もない。

実際当時の子供たちは、プロレスを見るのと同じ感覚で、ウルトラマンの戦いっぷりを観ていた。
そのストーリーを、真面目に現代の映画として蘇らせるのだから、かなり無理がある。
よく頑張って作ったな・・というのが正直な感想だ。

この映画は、昭和40年代に放映された最初のウルトラマン、あるいはその前のウルトラQを観ていた人でないと、面白さが分からない・・という評価もある。
確かにその通りで、最初に登場する怪獣(映画では禍威獣)はウルトラQから引き継がれているし、それぞれのエピソードも、かつてのウルトラマンで放映されたストーリーに沿った内容になっている。
その世代の人なら、ゼットンの名前が出るだけで、いよいよ出たか・・と思うであろう。
作る側もマニアックな要素を多く入れて、分かる人にしか分からない作品に仕上げている。

実は個人的には、けっこう楽しんで鑑賞した。
白状すると、もう2回も観てしまったのだ(笑)
「シン・ゴジラ」ほどの劇的なものは無いのだが、繰り返し観るくらいだから、それなりに気に入ってはいるのだ。
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影響


Z9 + NIKKOR Z 50mm f/1.2 S

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もう何週間か前の話なのだが、近所の映画館に「ジュラシック・ワールド/新たなる支配者」を観に行ってきた。
Mrs.COLKIDは興味を示さないので、僕ひとりで行った。
夜の回ということもあり、観客の入りは程ほど出あった。
50人くらいであろうか・・・

追加料金を払うと、例の椅子が揺れるシアターもあった。
しかしそうまでして観る事も無いかと思い、普通のシアターでの上映を選んだ。
そうしたら思いの外、音が悪くて閉口した。
まさか差をつけるために、わざと悪くしている訳じゃないだろうな・・・

シリーズ最終作ということで、今までの登場人物が一堂に会し、お互い協力し合い活躍するという集大成的なストーリー。
個人的には登場人物に特別な思い入れはないので、それほどの感慨はなかった。
映画としての出来は、まあ普通・・という感じで、印象としては前作と同じくらいであった。
何しろこの映画の本当の主人公は人間ではなく恐竜なのだ。

僕の世代にとっては、このシリーズは一番最初の「ジュラシック・パーク」が1993年に公開された時のショックがすべてだろう。
何本かあるその続編は、おまけ程度にしか感じられない。
あれ以降CGの技術が急速に進み、何でもかんでもCGになってしまった事もあり、こちらの映画の見方自体が変化してしまい、今やどのような映像を見ても驚かなくなってしまった。
皮肉なことに、技術的な進歩が、リアルな恐竜の動きが売りのこのシリーズの力を失わせたともいえる。

あの第一作を初めて見た時の衝撃と言ったら無かった。(ここからは第一作の話になる・笑)
子供の頃からずっと空想していた世界が、ついに映像化された瞬間であった。
粘土細工のアニメーションでも、生きたトカゲにツノを付けて合成したものでもない。
本物と見紛うほどの、リアルな恐竜がそこにいた。

第一作の劇中、初めて恐竜が歩くのを見たローラ・ダーンが、口をあんぐり開けたまま茫然となるシーンがあったが、観客もあれと同じ気持ちを味わった。
何といっても最高の場面は、あのティラノサウルスが初めて姿を現し、牙を剥き出しにしてこちらに迫ってきた時であろう。
過去にそういうシーンを何度夢に見たことだろう。
CGの黎明期であるが、Tレックスという最高の役者を当ててきたのは、さすがスピルバーグだし、劇的な巡り合せでもあった。

映画自体は1993年の公開で、すでに30年近い年月が経っている事に驚かされる。
第一作を今見ると、CGは稚拙であるし、映画としての演出も時代を感じさせるところはある。
しかしあの瞬間に時代が変わった・・という思いは、今でも強く持っている。

今回映画館で買ったパンフレットを読んでいたら、非常に興味深い事が書かれていた。
現在は恐竜の研究が大きく進み、何と一週間に一種のペースで新種が発見されているという。
世界規模でこの分野の研究が盛んになり、古生物学の黄金時代と言っていい状況だというのだ。
確かにこの十数年、次から次に恐竜の理論が変化していくので驚いてはいた。

恐竜について学ぼうとする若者が増加し、大学での講座が増え、博物館での展示が多く行われるようになった。
その結果回される予算も大きくなった。
暑い砂漠の中でこつこつと化石を発掘するという、地味で厳しい作業の伴うこの分野が見直され、かなりの活況を呈しているという。
何故そのような事になったか。
実は映画「ジュラシック・パーク」がもたらした効果だというのだ。

あの第一作を観て、衝撃を受けた人たちが世界中にいたのだ。
多くの人たちにとって、やはりあれは夢にまで見た瞬間だったのだ・・と思ったが、僕の世代であの作品を見ても、それがきっかけで恐竜研究の分野に転職する人は限られるだろう。
むしろその続編を含めたシリーズ全体が、若い人たちを感化し影響を与えたものと思われる。
映画の影響で、自分は将来恐竜を研究したい・・と考える人が、大勢生まれたのだ。

スピルバーグは過去に何本か、エポック・メイキングともいえる作品を撮っている。
その中でも、社会に与えた影響力においては、「ジュラシック・パーク」が一番大きいのかもしれない。
スピルバーグより優れた映像作家は大勢いると思うが、世界中の人々の人生まで変えてしまった人は、他にはあまり見当たらない。
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ボンド


Z9 + NIKKOR Z 50mm f/1.2 S

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4回目のワクチン接種による副反応で、お盆休みに家に数日間閉じこもる事になったが、その時間を利用して映画を観た。
ダニエル・クレイグの007のシリーズだ。
アマゾン・プライムですべて無料で観ることが出来た。

実はこのシリーズを一度もちゃんと観たことが無かった。
公開時に劇場には行かなかったし、テレビ放映の際も部分的にちょこっと観るだけだった。
第1作を観ていなかったので、途中の作品から観るのを避けたかったこともある。

評判がいいので一度観たいと思っていたが、今回最初から通して観ることが出来た。
エアコンの効いた部屋で、部屋の真ん中に椅子を置いて、カーテンを閉めて音量を大きめにして、かなり快適な環境で楽しんだ(笑)
以下ネタバレも含まれるので、これから観ようという方は読まないでいただきたい。

本シリーズの第1作である「カジノロワイヤル」から、昨年公開された「ノー・タイム・トゥ・ダイ」まで、5作品を連続して観た。
ダニエル・クレイグはこれでボンド引退だというので、全作品を一気に観た事になる。
これらの5つの作品は話が繋がっていて、登場人物も同一の役者が演じているので、通して観る事に大いに意味があった。
やはりまとめて見て正解であった。
なかなか骨太のボンドで、評価されている意味も理解できた。

ダニエル・クレイグという役者さんは、旧来のスマートなジェームズ・ボンドのイメージには合っていない。
まあショーン・コネリーが作り上げたボンドのイメージが強烈過ぎたのだろう。
ジェームズ・ボンドは何でもスマートにこなす華麗なる男・・というイメージがあるが、ダニエル・クレイグのボンドはまるで逆で、埃まみれ、汗まみれになって殴りあうシーンが多い。
描写が現代風にリアルになっている事もあるが、顔にはあちこちに小傷が残り、マッチョな身体には銃創、タキシードで正装してもすぐに大きな血の染みをつける。

プレイボーイのイメージの強いボンドであるが、このボンドはむしろ一人の女性に一途な面が強調されている。
その女性を失ったことが、ボンドの心に大きな傷として残っている。
精神面でこれほどダメージを負っているボンドは初めてかもしれない。

しかも随所にボンドがいわゆるLGBTQ+であることを示唆する描写がある。
女性よりボンドが裸になるシーンが多い・・とどこかで評されているのを読んだ。
確かにその通りで、部屋に入るとまず服を脱ぎ捨てて裸になるのがこのボンドの癖でもある。

また秘密情報部のエージェントという存在自体が既に古いもので、ボンドが過去の人であることも、このシリーズのテーマのひとつになっている。
ボンドが何かと「殺し屋」という呼ばれ方をするのも、それを表している。
情報部はパソコンを駆使する新しい世代の人たちが主流となり、派手に暴れて何でも破壊してしまうボンドは、MI-6内部でも疎まれており、何度も首になりかかる。
実際の現場では、身体を使って行動する人間が重要で、最後はそういう人が世界を救う・・というストーリーにはなっているが、そのためにボンド自身がラストで犠牲になるのは、ちょっと寂しい展開であった。

やはり世の中が変わった・・という事だろう。
世界の常識や価値観の変化が、この最新の007のシリーズに端的に表れている。
かつてのジェームズ・ボンドではもう通用しないのである。
古い価値観の人たち・・特にショーン・コネリーの華やかなジェームズ・ボンドで育った人たちには、釈然としないものが残るかも知れない。

こうなると違和感があるのは、スペクターなどの悪の組織である。
描写がリアルになったために、余計にこういう世界転覆を図る悪役の存在が、荒唐無稽で素っ頓狂なものに見えてくる。
ただこれがあっての007シリーズでもある。
確かショーン・コネリーの頃でさえ、ボンドのことを馬鹿げた役のような発言があったし、ロジャー・ムーアの時代に至っては、逆手にとってコメディ映画になっていた。

個人的にはダニエル・クレイグの007のシリーズは、なかなか見応えがあり楽しむことが出来た。
製作には米国の資本も入っているだろうが、歴史のあるヨーロッパの都市を主な舞台としているこのシリーズには、アメリカ映画とは違う郷愁のようなものを感じさせるところがある。
観た後も数日間、いくつかの場面をふと思い出すことが多かった。
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ドライブ・マイ・カー


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夜になってひとりで「ドライブ・マイ・カー」を観てきた。
(Mrs.COLKIDはすでに別の日に観に行っていた)
プライム・ビデオでレンタルも出来たが、映画館で観ないと良さが分からない・・という評価だったので、あえて劇場まで足を運んだ。

細やかな感情を描いた作品なので、自宅でテレビで気楽に観たのでは、それが伝わらないのだろう。
3時間、動くことのできない環境で、その中にどっぷりと浸かりながら観て、初めてその良さが伝わってくる。
ある意味とてもユニークな作品である。

地味な内容の作品という事で、途中で眠くなるのではないかと心配していた。
確かに派手さはないのだが、感情を刺激するシーンが幾度かあり、そのたびに静かにジワッとくる。
3時間の長さであるが、最後まで見入ってしまった。

ただこういう作品って、日本映画には以前からあったようにも思う。
今回初めてその独特の世界観に、海外が気付いたのではないだろうか。
喪失と再生の物語であるが、コロナ禍で世界中の人々が心に傷を負っており、それ故強い共感を得られたのかもしれない。

個人的には高槻役の岡田将生氏の演技が良かった。
自分の感情をコントロール出来ずに破滅していく役であるが、表情の変化が上手く凄味さえ感じさせた。
アカデミー賞を獲得し話題になっているが、夜遅めの回ということもあり、観客は20名くらいであった。
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ネットフリックス


Z9 + NIKKOR Z 50mm f/1.2 S

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先日3回目のワクチンを打った後、テレビでネットフリックスの映画を何本か観た。
家に大人しく閉じこもっていなければならず、その間の時間の消化のためである。
たまたま前日に劇場に行ったことも、久しぶりに映画づくきっかけになった。

家のテレビはそれほど高性能なものではない。
ソニー製の4K液晶の程ほどの大きさのものだ。(55インチくらい?)
型落ちで安くなったものを買ったのだが、購入直後に一度壊れて動かなくなり、新しいものに入れ替えてもらった。
それ以降は調子よく動いている。

音響関係もかなり手を抜いている。
結婚して間もない頃に買ったオンキョーの安いAV用のお手軽セットだ。
小さいアンプと小さい4本のスピーカーにスーパーウーファーが付いている。
音は評価出来るものではないのだが、映画を観る分にはそれほど不満もないので、そのまま使っている。
むしろこんなに長い期間、よく壊れないで動いていると感心している(笑)

テレビの真正面、1.5メートルほどの位置、居間の中央の空間に椅子を置く。
そこに腰掛けて、贅沢にひとりで映画を観た。
画面の大きさは大したことはないのだが、画角としては小さい映画館の中央辺りの席で観るのとそう変わらない感じ。

液晶画面がくっきりとしており、かえって映画館のスクリーンより細部が見えるような気がする。
スピーカーのfレンジが広いとは言えず、音声帯域中心になるため、反響音で濁ってしまう映画館より、むしろセリフは明瞭に聞こえる。
空調の効きも自分で調整できるし、周りに変な人もいないので、安心してゆっくり観ることができる。
椅子を真ん中に置いて、かしこまって鑑賞することで、「特別な体験」という雰囲気も出る。

鑑賞する環境としては、全般に悪くないな・・と思った。
部屋を暗めにして観れば、映画館での体験と大きく変わらない。
たまたま前日に小さめのシアターで観たばかりだったので、比較がしやすかった。

ご存知の通り、ネットフリックスは今や映画製作会社の最大手になっている。
アカデミー賞のノミネートにも、ネットフリックス作品が何本も選ばれている。
映画は映画館で観るもの・・という古典的な考え方に固執していたスピルバーグでさえ、方針を変えてネットフリックスと契約した。
コロナの影響で映画産業が大きな痛手を受けたこともあるが、世界中の人たちに等しく配信できるというメリットはやはり大きい・・という事であろう。

自宅での視聴環境であるが、観る側が工夫すれば十分なクオリティは確保できそうだ。
AVにお金をかけている人なら、下手な映画館より質が高いかもしれない。
そうなると映画館の存続がまた危うくなってくるのだが・・・

配信で映画を観るとなると、どうしても自宅での視聴環境の向上を考えてしまうが、それは考え方が古いのかもしれない。
実際作品を観ると、テレビ作品と映画の境目が曖昧になっており、両社の中間くらいにある作品も多い。
恐らく見る側も、途中でトイレに立ったり、電話がかかってきたり、しばらくよそ見をしていたり・・という具合に、イージーな感覚で鑑賞する人が大半になるのであろう。
作品と鑑賞者の両方が変化しているのだと思う。
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1920年代


Z9 + NIKKOR Z 50mm f/1.2 S

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ネットフリックスで「パワー・オブ・ザ・ドッグ」という映画を観た。
1920年代のアメリカ・モンタナ州の大牧場を舞台とした作品で、アカデミー賞の作品賞の有力候補となっている。
舞台は雄大な米国西部の牧場(ロケ地はニュージーランドらしい)であるが、いわゆる西部劇の時代からは半世紀ほど経っている。

主人公の一人であるピーター役のコディ・スミット=マクフィーが、母親と町の雑貨店に買い物に行くシーンがある。
1920年代ということで、お店の作りやディスプレイが、西部劇の時代より近代的で洗練されている。
置いてある商品もしっかり作られていて、品質が高そうに見えるところが興味深い。

お店では主に帽子や服、靴などを扱っているのだが、革靴やブーツに混ざってスニーカーが飾られていた。
そこにどうもハイカットのコンバース・オールスターと思われるモデルが置いてあった。
オールスターはバスケットボール用のシューズとして、1917年に製造が開始されているので、当時は最新の靴だったはずだ。



先進的な感性の持ち主のピーターは、早速その靴に目をつけて手に取って見る。
(実際に購入するのは白いローカットのテニスシューズのようだが・・・)
しかし場所は保守的かつ古典的なアメリカ西部である。
男のくせになよなよしていると、カウボーイ達から馬鹿にされていたところに、白いスニーカーを履いて行ったものだから、火に油を注ぐ形となった。

作品はいわゆる「有毒な男らしさ」と同性愛がテーマで、終始ピリピリとした緊張感のある人間関係が続く。
世間では演技や描写のクオリティが高く評価されており、確かにその点は素晴らしいのだが、個人的にはストーリーにいまひとつ共感できなかった。
むしろ、皆がどういう理由でこの作品を評価するのか・・の方が興味がある。

ただこの年代の空気が新鮮に感じられたのは事実だ。
上の画像では切り取っているが、画面の左側にはブローグの入った革靴や、白黒のスペクテイターシューズらしきものも飾られていた。
そういう細かいグッズに注目して、映画を楽しむのも悪く無い。
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夜に映画


Z9 + NIKKOR Z 50mm f/1.2 S

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急に映画を観に行くことになった。
Mrs.COLKIDが行かないかというのだ。
あまり気が進まなかったが、仕事が終わってから、夜の回を観に行った。
劇場には観客は数人しかいなかった(笑)

ゴヤの名画と優しい泥棒」という作品だ。
ほとんど知識なしで見た。
予想していなかったが、かなり出来が良かった。
なかなかの傑作だと思った。

英国のコメディであるが、実話だというから驚く。
キャストが抜群だし、演出もあの時代(ちょうど僕の生まれた頃)を意識したスマートなもの。
疲れていたので、眠くなるかと心配していたが、最後までまったく眠くならなかった。
大人向けの作品である。
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ミッドウェイ


Z7 + NIKKOR Z 50mm f/1.8 S

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先週末に近所の映画館に「ミッドウェイ」を観に行ってきた。
夕方の回であったが、映画館はガラガラであった。
観客は我々二人を入れて8人くらい。
コロナで隣り合わせには座れず、映画館の中央に1席おきに8人が座っているという、何だか不思議な光景であった。

映画の方は今時珍しいほどの「純」戦争映画であった。
三流のラブロマンスを軸にした「おとぼけ戦争もの」ではなかった。
今の時代に一方的な正義で描いた戦争映画など通用しないと、ローランド・エメリッヒ監督自身が言っている。

ドイツ人の監督が第三者的な目で見た日米の戦争映画で、内容は比較的日本にも気を遣ってくれている。
やっとそういう時代が来たのかな・・という気もした。
戦争の当事者や関係者が少なくなり、孫、ひ孫の代になり、影響力も薄れてきたのであろう。

ただ中国資本がほとんどのハリウッド映画で、今後日本をどう描いて行くのであろうという疑問は残る。
そもそもハリウッドに手を伸ばしたのは、人民の操作が可能なメディアの掌握が目的であろう。
関係が悪くなれば、残虐な日本人の描写が強められるであろうことは想像に難くない。

ところでエメリッヒ監督はこの企画を20年間もあたためてきたという。
言われてみればミッドウェイ海戦は、情報の分析力や作戦ミスといったいくつかの要因で日本が逆転負けした、米国にとっては世にも面白い戦いなのだ。
それを双方の考え方をある程度公平に描き、男同士の壮絶な戦いとして作れば、映画としては見応えのあるものになる。

この映画で興味深いのは、連戦連勝であった日本を、米国の兵士が鬱気味になるほど恐れていることで、勝てるわけがない・・と考えていることだ。
確かに現場で実際に戦うものにとってはそうだったのかもしれない。
戦後に生まれた我々にしてみれば、これだけ国力が違うのだから最初から日本が勝てる戦いでは無かったという思いがある。
太平洋戦争後半の戦況が悪くなってからの日本の印象が強く、日本を恐れる米国人を見るのは不思議にも感じた。

個人的に疑問であったのは、戦闘機である零戦がドーントレスに簡単に落とされるところだ。
敵の戦闘機でさえ落とすことが出来なかった当時の零戦を、急降下爆撃機で互角の旋回性能で戦ってみせ、後部銃座からの射撃で何機も落とすなんてことが本当にあったのだろうか。
やはり映画は観客へのサービスを入れないと、興業が成り立たなくなるということであろうか・・・
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妖星ゴラス


Z7 + NIKKOR Z 50mm f/1.8 S

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アマゾン・プライムで映画でも見ようかと思い、画面に表示される作品のリストを見た。
無料で見られるものは、正直なところいまひとつの作品が多く、なかなかこれぞというものに行き当たらない。
結局リストを見るだけで、作品は何も見ないで終わることも多い。
まあプライム対象の全作品をチェックすれば、いいものもあるのかもしれないが・・・

で、すごく見たいというわけでもなかったが、前から気になっていた「妖星ゴラス」を見てみることにした。
プライムで無料で見られる作品のリストに入っていたのだ。

ところがこれが意外に面白くて、結局最後まで一気に見てしまった。
僕の生まれた年に公開された古い作品である。
とにかく発想があまりに凄くて驚かされる。
初めて見る人なら呆気にとられるであろう。
お金をかけた大作ではあるが、その特殊性ゆえに、むしろカルト映画として有名であろう。

僕は子供の頃に一度テレビで見て、そのストーリーの凄さにビックリしたのを覚えている。
子供ながらに、これでいいのか??と思った(笑)
今でもいくつかのシーンが明確に記憶に残っているほどだ。
今回はそれを久々に確かめてみたい・・という気持ちもあった。

1962年公開の作品であるが、物語の舞台は1980年前後である。
すなわち当時としては近未来の世界を描いた作品なのである。
すでに人類は定期的に宇宙と地球を行き来しており、地球の周囲には各国の宇宙ステーションが浮いている・・という設定になっている。
街の作りや服装、メカなども、それなりに未来をイメージして作ったのだろうが、それがどうも素っ頓狂にも見えて、何とも言えない味を出している。

一番凄いのはやはりストーリーである。
太陽系に向かって進んでくる謎の黒色矮星ゴラスが発見されるが、大きさが地球の4分の3程度しかないのに、質量が6000倍もあり、周りのものをどんどん吸い寄せて破壊していく。
地球と衝突する軌道上にあり、このままでは地球が滅亡してしまう。
この危機を脱するには、ゴラスを破壊するか、あるいは地球が移動するか・・という2択しかない。
しかし破壊が無理なことが分かり、では地球を動かしてしまおう・・ということになる。

具体的には南極に巨大なロケット推進装置を建造して、その推力で地球を動かし、軌道から外してゴラスを避けようというのだ。
これは人類共通の危機であり、国同士が対立している時ではなく、互いに持つ技術をすべて出して協力し合うしかない。
国連で各国が議論を交わし、全人類が共同で南極の噴射装置の建設に挑む。
巨大な敵を前にして、人類が結託して立ち向かおうという話である。

ストーリーも壮大であるが、俳優陣も豪華で大物のオンパレードである。
何でも専門家に科学的考証のアドバイスを受けながら作り上げたそうで、細かい部分の理論が妙に凝っている。
アイディアがあまりに荒唐無稽なのに、大真面目に作られており、どこまで本気なのか分からないところがあり(笑)、それが作品を特殊なものにしている。
ハリウッドを始めその後の作品に与えた影響も大きいと思われる。

残念なのは南極で怪獣が出てきてしまうところだ。
噴射の熱で太古の巨大生物が目覚めてしまい、大切な噴射口を破壊してしまう。
商業的なものを考えた会社側が、怪獣を出せと要請したようだが、これで一気に映画の質が落ちてしまった。
派手な破壊シーンを期待して見に来た観客が、小難しい理論だけでは納得しないと考えたのだろう。
何でも海外版では怪獣の登場場面はカットされているそうなので、そちらを見てみたいものだと思う。

見ていて興味深かったのは、登場人物たちの考え方や生き方である。
当時は戦争が終わってまだ10数年しか経っておらず、演じている人たちの多くは、あの戦いで都市が焼け野原になり、大勢の人が死ぬのを目の当たりにしている。
そのため肝が据わっているというか、ゴラスが来たと聞いてもそれほど慌てない。
都市が津波で水没しても(我々は現実にそういう場面に遭遇しショックを受けたわけだが)あまり驚く様子が無く、残った東京タワーから周りを見ながら、また皆でいちから作り直そうなどと言う。
やはり戦争を体験しているだけあり、死ぬならそれはそれで仕方がないじゃないか・・という達観した考え方が随所に感じられる。

若者たちは、上に向かって歯向かったり、飲んで騒いだりと血気盛んである。
あの熱さは現代の日本人には無い。
すぐに皆で歌い出してしまうところなどは、どこか今の北朝鮮に近いノリを感じさせるし、現代の若者が見れば違和感があるだろうが、まあカラオケで歌うのとそう変わらないだろう。
その頃生まれた僕としては、昔はああいう熱い雰囲気があったよなあ・・と懐かしさを覚えた。
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荒野の誓い


Z7 + NIKKOR Z 85mm f/1.8 S

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日曜日に新宿に「荒野の誓い」という映画を観に行った。
なかなか見応えのあるいい作品だった。

久々の本格派西部劇である。
しかしいわゆる勧善懲悪の娯楽作品ではなく、リアリティを追求した現代ウエスタンである。
シリアスで深い作品なので、娯楽を要求するだけのファンだとついていけないかもしれない。

原題はHOSTILES、「敵意を持つ人」の複数形である。
主人公のジョー・ブロッカー大尉は、かつてウンデッドニーの虐殺にも関わった経歴を持つ軍人である。
退役間近のある日、癌を患い死期の近いシャイアン族の首長イエロー・ホークを、故郷のモンタナまで護送するという命令を受ける。
しかしイエロー・ホークは、彼の親友たちを殺した宿敵でもあった。

不当に土地を奪われ虐殺されてきたインディアンと、親友を殺された軍人・・・
それぞれの正義に基づき生きるがゆえ、憎み合い、殺し合いが終わらない。
途中コマンチ族に家族を皆殺しにされ放心状態となっていた婦人ロザリーを保護し、一行はさらに過酷な旅を続ける。
凶暴なコマンチ族の急襲を受け、やがて彼らは協力して戦わなければ生き残れないところに追い込まれる。



肌の色の違う者同士が、どう向き合い、共存していかなければならないかをテーマとした作品で、まさに現代アメリカが抱える大きな問題への問いかけになっている。
過酷なオールドウエストの世界がリアルに描かれており、その中で必死に生きていく人たちの姿が克明に描写される。
美しい自然に囲まれた世界が、一転して凄惨な血にまみれた現場となり、誠実に生きる人たちがいとも簡単に殺されていく。

配役が素晴らしく、それぞれの登場人物を丁寧に描写しているところが、この作品を傑出したものにしている。
説明を最小限にして、映像から判断させる演出もいい。
誰もが重く暗い過去を背負っており、それが必ずしも正義に基づいたものと言い切れない。
しかしそれでも人は生きていかなければならない。

子供じみたCGを使わない正統派の映像で撮られた作品である。
男っぽさと暴力という、オーソドックスな西部劇の形を取りながらも、今までのウエスタンとは違うところにまで踏み込んでおり、新しい時代の幕開けを感じさせる。
これはアメリカという国を理解するためにも重要な作品と言えるだろう。

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