COLKIDが日々の出来事を気軽に書き込む小さな日記です。
COLKID プチ日記
陪審員2番

Z9 + NIKKOR Z 50mm f/1.2 S
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クリント・イーストウッド監督の「陪審員2番」を観た。
日本では劇場公開されなかった作品である。
テーマは重いのだが、映画のリズムは悪くなかった。
最近のイーストウッドの作品の中では、出来がいい方だと思った。
ストーリーは、もう一捻りするのかと思ったが、意外に単純にまとめられていた。
常に不安感のある展開が、イーストウッドらしい。
割り切れないもの・・が付き纏う。
最後まで、どこかに違和感が残る。
ご存じの通り、イーストウッドはかなりの高齢で、特に最近ガクッと老けてしまった。
しかしこの映画は、老いをあまり感じさせない。
どこまで当人が現場作業にかかわれたのかな・・などと考えてしまった。
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ジークアクス

Z9 + NIKKOR Z 50mm f/1.2 S
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「機動戦士Gundamジークアクス」を観てきた。
かなり好評だったので、これは観ておこうと思った。
そもそも僕は、ガンダムは最初の作品しか観ていない。
いわゆるファーストと呼ばれる作品の世代だ。
あの頃、既に高校生だったので、ガンダムを見たギリギリの世代とも言える。
実際学校では、僕以外では漫研の女の子くらいしか見ていなくて、皆見ていないけれど、あれ面白いよね・・とふたりで話した。
しかし今回の作品はそういう人に合っていると言われている。
それを聞いて観ようという気になった。
実際どうだったか・・・
いや、かなり面白かった。
これは観る価値があると思った。
話としては「IFストーリー」で、それも最初の作品の時代がベースになっている。
ちょっとしたことがきっかけで、歴史がまったく違う方向に向かう。
そのため、え?!・・・という展開になって行く。
しかも庵野氏が絡んでいるためか、どうも単純な知識では追い付かない。
設定が壮大で、今回の作品は日本神話に絡めた内容になっている。
非常に奥が深いため、これから考察(研究)がどんどん出るであろう。
技術的に最新になっているので、細部まで見応えがある。
劇場で大画面で観るべき・・という意見が多く出ている。
そうは言ってもアニメーションだからなあ‥と思っていたが、実際これは劇場で観る価値があると思った。
これテレビの画面で見てしまったら、印象がかなり変わったかもしれない。
今回IMAXの劇場、それも最前列に近い場所で観たのだが、これがけっこう効いて(笑)、映像と音声の世界にどっぷりと浸ることができた。
日本人のメカデザインには独特のものがあると言われているが、その良さが劇場鑑賞で最大限生きる。
おもしろいのは、前半のシャアの出るパートと、後半の次の世代の出るパートで、キャラクターデザインが異なるところだ。
違和感があるかな・・と思ったのだが・・・
上映が終わって劇場からぞろぞろと出てきた時、周りの人たちを見てみると、実際に前半タイプの人と、後半タイプの人が、それぞれいる事に気付いた(笑)
ああ・・現実の世界でも、確かにそうなんだな・・と思った。
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グラディエーターⅡ

Z9 + NIKKOR Z 50mm f/1.2 S
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「グラディエーターⅡ」を観てきた。
IMAXで観たくて日比谷の映画館を選んだ。
大画面で観たのは正解であった。
劇場はほぼ埋まってはいたが、満席ではなく、たまたま隣の席が空いており、のんびり観られてよかった。
続編としてよく出来ている。
活劇として十分面白かった。
1作目との繋がりを意識したストーリー展開なので、そちらを観ていないと、まったく意味が分からないとは思う。
1作目の公開(2000年だからほぼ四半世紀も前である)からだいぶ時間が経っているので、公開時に観たきりの人は、観直してから行った方がいいだろう。
僕もたまたま最近1作目を観ていた。
1作目が公開された時は、いい映画だけれど、(僕の世代はどうしても「ベン・ハー」などで育っているので)少し小粒に感じられた。
当時は1作目は今ほど神格化はされていなかったように思う。
それでもハンス・ジマーの音楽は素晴らしくて、CDは愛聴盤であった。(ホルスト財団から「惑星」の盗作と訴えられたらしいが・・・)
あとドアの向こうに死後の世界が待っていて、行きかけて一瞬現生に戻る・・という描写も良かった。
今となっては「ベン・ハー」は宗教色が強すぎて、批判する意見も多く見るようになった。
時代とともに価値観が変わったというか、白人の衰退とともにキリスト教的な神様の絶対性が薄れてきたのかもしれない。
倫理を正す高尚な部分を入れないと、名作たり得ない時代でもあった。
考えてみれば、イエスの死で恨みが消え去る「ベン・ハー」と、復讐を果たして満足してあの世に行く「グラディエーター」では正反対の内容ともいえる。
「グラディエーター」は純粋に活劇なのだ。
続編であるこの作品は、当然1作目を超えてはいないが、それ故にいい立ち位置にいると感じた。
主人公の俳優さんも、ラッセル・クロウのような強い個性が無いが、それさえ意図したものでは無いかと思えてくる。
大きな画面で観て、大音量でCGを楽しむ作品なので、いい劇場で鑑賞されることをお勧めする。
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シビル・ウォー

Z9 + NIKKOR Z 50mm f/1.2 S
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映画『シビル・ウォー アメリカ最後の日』を観てきた。
以下ネタバレありで書く。
映画は近未来のアメリカで起きた内戦を描いている。
強権を振りかざす連邦政府の大統領に対し、19の州が合衆国から離脱、テキサス州とカリフォルニア州が組んだ西部勢力WF(ウエスタンフォース)と、連邦政府との間で内戦が勃発する。
やがてWFが政府軍を圧倒し、ワシントンD.C.に迫っていく。
危険地帯を移動しながら、その様子を取材していくジャーナリストたちの話である。
保守的なテキサスとリベラルなカリフォルニアが組むこと自体、現状では考えられないが、ファシストを前にしたら、右派とか左派とか言っていられないはずだ・・という監督の思いもあったようだ。
いずれにしても、予想外の事が起きるのが戦争であり、かえってリアリティを高めている。
もともと民間に大量の武器が流通している国なので、あちこちで戦闘が勃発する。
民間人同士が殺し合うのだ。
近未来の世界とは言っても、現状でも国内を2分する対立が起きており、どちらか一方の立場に立って描くのは難しい。
そのため、右派と左派の連合とし、あくまでジャーナリストの目を通して起きたことを淡々と追う・・という形にしたという。
映画製作陣が、そうせざるを得ないこと自体が、既に恐ろしいことではある。
「一般の」日本人には、少し分かりにくい映画なのかもしれない。
映画館で鑑賞後に、劇場の中をぞろぞろと歩きながら周りを見ると、戸惑った顔の人が多く、「もっと状況を説明してくれないと何だかよく分からない」と言う不満の声も聞こえてきた。
面白い戦争活劇を期待してきた・・ということらしい。
映画としての出来は標準的で、中だるみに感じられる演出もあったので、訳が分からなければ、不満を感じる人もいるだろう。
しかし実のところ、そんなことを説明する必要が無いほど、本国では切実な状態に陥りつつある・・ということなのだろう。
日本は平和ボケとよく言われるが、ハリウッド製のファンタジーばかり見せられてきて、それがアメリカという国なのかと思い込んでいる。
実際にははるか昔から、あの国においては、映画は現実からの逃避・・という側面が強くあった。
そしてその現実の世界では、驚くほど急速に状況が悪化しているのだろう。
一見普通に見える人達が武装し、民間人を大量に殺して、その死体をダンプから地面の穴に落として処分しようとする。
相手に出身地を聞き、アメリカ人以外なら、問答無用で射殺していく。
どちらの勢力なのか分からない「誰か」から狙撃を受け、生き残るためにこちらも相手を射殺する。
そういう混沌とした中を、何度も命を危険に晒しながら、ジャーナリストたちが進んでいく
大統領選挙の会場での、一見華やかなお祭り騒ぎを、我々はテレビで目にする。
しかし実際には、その会場で大統領候補の命が狙われる場面も、続けざまに見せられた。
あの華やかさの裏には、常に死が隣り合わせにあり、一瞬で血生臭い世界へと暗転する。
この映画でも、そういう場面が描かれており、スーツを着た人たちと死との組み合わせが、妙にしっくりくるのも、何だか恐ろしかった。
実のところ、内戦ほど国民の心を傷つけるものはない。
何しろ親しかった隣人と殺し合いをするのである。
負けたほうは国内で敗北者となり、生き残ったとしても影響は一生続く。
そしてその怨恨は、末代まで残ることになるのだ。
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ナポレオン

FUJIFILM X100V
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「ナポレオン」を観てきた。
さすがリドリー・スコット監督で、驚くべき完成度の映像作品であった。
構図も編集もリズム感も、申し分なかった。
ちょっと驚いたのは、CGと実写の境目が、ほとんど分からなかったことだ。
エキストラを総勢8000人も使ったというので、恐らく実写をメインに撮影されたのだとは思う。
(よくそれだけの製作費をかけられたものではあるが・・・)
CGでないと撮影できないところは多々ある。
そこは実写映像と上手く合成しているのだろうが、不自然な場面はほとんどなかった。
映像技術が新次元に入っているのを感じた。
今後はこれが基準になるのか・・・
SF漫画のヒーローものばかりで、飽き飽きしている人も多いと思うが、歴史ものでこれだけの品質の作品が作れるとなると話が変わってくる。
カメラワークにも非現実的な動きがほとんどなく、しっとりとした質感と完成度の高い構図を最後まで維持し続ける。
細部にまで気を遣い、妥協しないリドリー・スコット監督の気質と、最新の映像技術が見事に結合した作品・・と言えるであろう。
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ゲゲゲ

FUJIFILM X100V
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ひょんな事から、「鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎」という映画を観た。
出来がいいらしい・・と人から勧められたのだ。
(ここからネタバレを気にせずに書くので、これから観ようという方は読まないでいただきたい)
ネット上の評価も高いし、先週だったか、興行成績もゴジラに次ぐ2位になっていた。
パンフレットが売り切れていて、ネットでプレミアム付きで売られているという。
実際映画館はほぼ満席で、最後の1シートがやっと取れた。
予想外のヒットのようだ。
もともと僕はアニメーションは宮崎作品くらいしか観ないし、「ゲゲゲの鬼太郎」が特別好きなわけでもない。
だから本来なら、まず劇場で観ることはなかった作品である。
そのためあまり期待していなかったのだが、予想に反しけっこう面白かった(笑)
水木しげる氏に独特の世界があるのは認める。
また氏の戦争での凄まじい体験が、何らかの形でそこに投影されているのも確かだろう。
僕も子供の頃は「墓場鬼太郎」を読んで育ったし、漫画やテレビドラマの「河童の三平」、「悪魔くん」といった水木作品は常に身近なものであった。
幼稚園の頃、自分が描いた漫画にも、鬼太郎を題材にしたものが多い。
ただあの独特の、のほほんとした絵やリズム感が、それほど好きなわけではなかった。
手塚治虫氏が、水木氏を自分の敵たり得ないと判断し、馬鹿にした態度で接して、水木氏を怒らせたというのは有名な話である。
また子供向けを意識したのだろうが、テレビの鬼太郎が妖怪相手にバトルをするのも好きではなかった。
プロレスみたいな取っ組み合いのシーンを入れて、闘争本能を刺激して視聴率を稼ごうというのは、子供番組の宿命か・・・
今回の映画が気に入ったのは、初期作品である「墓場鬼太郎」の前日譚という設定で、いつもの鬼太郎のパターンではなかったことがある。
2008年に製作された「墓場鬼太郎」というアニメの第一話を先に見ておいた方がいいと言われて、Youtubeで視聴したのだが、漫画本の「墓場鬼太郎」をベースに少し内容が変えられていた。
ただ、いまだにこういう映像作品が作られたり、町を挙げての観光に起用されたりするのは、氏の熱狂的なファンが一定数いるということなのだろう。
確かに妖怪ものは数年周期で流行するというし、その結果多くの人が何らかの形で鬼太郎を見て育っているのだが、実際にこういった作品まで製作されるというのは、氏の作風を愛して止まない人達が多いのだと思われる。
まあ確かに、あの「ビビビビン」というビンタ(「しげるビンタ」というらしい)など、氏の作品には何かと印象に残るシーンが多い。
それにねずみ男なんて、今でこそあまり見ないが、僕が子供の頃は、ああいう汚らしくて油断ならない人がけっこういたのだ。
今回の作品は、鬼太郎の父親の代の話で、鬼太郎はほとんど出てこない。(そこがむしろ気に入ったところなのだが・・・)
設定は昭和31年で、鬼太郎が生まれる直前の話である。
まあ悪役の妖怪などとのバトルシーンはやはり出てくるのだが、それは入れざるを得ないのだろうな・・・
主人公は「墓場鬼太郎」にも出てくる、水木という戦争で生き残った男。
玉砕した戦地からひとり生還し、極限の状況で受けた心の傷から、せっかく与えられた残りの人生にも、どこか斜に構えた冷めた態度で接している。
時代柄、皆がタバコをバカスカ吸うところがいい(笑)
そして映画は、その主人公と鬼太郎の父親との友情が軸になっていく。
舞台は下界から隔離された山奥の村で、極めて閉鎖的な集落である。
キャラクターデザインは今風になっているが、村落内部でのよそ者に対する排他的な反応は、なかなかリアルであった。
主人公がひとりで村に入っていくと、誰とも遭遇していないのに、すでにその情報が村中に広まっている。
それを知った主人公が、ちらりと村の建物の窓を見上げるのだが、常にどこかから監視されていることを、それだけで表しているのはよかった。
こういう閉鎖された村落を舞台とした作品のジャンルを「因習村」というのだそうだ。
横溝正史の「八つ墓村」などが代表であろう。
今だとフィクションとして見る人が多いのかもしれないが、僕が子供の頃には、こういう世界が普通にあったし、親の世代からもよく話を聞いた。
実は今でも根強くこういう風習の痕跡が残っているところはあり、それは時折経験している。
映画のように、よそ者を内部で処刑して始末する・・というのは、さすがに今は無いと思うが、恐らくかつては時折行われていたのではないか。
ちゃんと腕っぷしの強い連中がいて、処刑人の役割を担っている。
作品の中では、普段外部の世界と接触している人物までもが、よそ者を処刑しようという時には、横を向いて知らぬ顔をしようとした。
それが日常的に行われている事であると示唆していた。
そもそも妖怪の存在自体を信じない人も多いだろう。
でも今でも那須の実家などに行くと、人の住む世界とは違う、魑魅魍魎の世界を感じることがある。
非科学的で不思議な出来事についても、当たり前の事のように受け入れている。
そういう雰囲気が好きで田舎に行く僕も、考えてみれば鬼太郎の世界に惹かれた者のひとりなのかもしれない。
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古い作品

Z9 + NIKKOR Z 50mm f/1.2 S
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古い映画を時々見直していることを書いた。(2023年5月2日の日記)
すでにかなりの本数を鑑賞したが、まだもう何本か観ようと考えている。
観直す作品のリストも作っている。
若い頃に感銘を受けた映画が中心である。
それらが今でも同じ感動を与えてくれるものなのかを確かめたい。
いわゆる名画ばかりではなく、あまり世間に知られていないマニアックな作品も含めている。
そういう特殊な感覚が、今でも通用するのだろうか・・という興味もある。
映画そのものより、そこから生じるこちら側の反応が、かつてと同じなのかどうかが興味深いのだ。
作品を通じて、世の中や自分の変化を確かめることが出来るのだ。
時には自身の遅れた部分や、今の世代とのずれを見せつけられることもある。
映画鑑賞に、こういう使い道があるとは思わなかった。
ところで、リストアップした作品が、すべて観られる訳ではない。
会員になっているのは、アマゾンプライムとネットフリックスだが、それだけでは重要な作品がかなり抜けてしまう。
仕方なくDVDやブルーレイソフトを取り寄せるのだが、そちらにも無い場合がある。
つまり事実上観ることが出来ない作品があるのだ。
配信に揃っているのは、製作年度の新しい作品が多く、古い作品の収集にはあまり積極的とは言えない。
まあ需要が無いから仕方が無いのだろうが・・・
けっこう有名な作品でも、配信にもソフトにも無く、観られないものがあって驚いている。
えーっ、こんな傑作が観られないのか・・という事もあった。
調べてみると、比較的古い作品に力を入れている配信会社やレンタルソフト会社はあるようだ。
しかし数本の映画を観るためにわざわざ入会するのもなぁ・・という思いはある。
恐らくある程度の本数を観たら止めることになるだろうし・・・
映画ソフトの配信が一般化してから、ディスクなど物としてコレクションすること自体が古臭い行為になった。
昔は壁一面にビデオテープやレーザーディスクを並べていた。
それらの価値が無くなったと思い、全部捨ててしまったのだが・・・
以前ならリストアップした作品はすべて揃っていたのに、この時代に観たい時に観られないなんて・・・
まあ古いソフトがあったところで、今のテレビで観ることは出来ないし、画質も満足できるものではないのだが・・・
実は新しく家具を置くために古い棚を片付けていて、古いLDがまた何枚か出てきたのだが、その中に現在配信でもソフトでも入手できないタイトルが含まれていたのだ。
だからと言って、今更プレイヤーも当時のテレビも無く、観る事も出来ず悔しい思いをした。
すべてのソフトを観たい時に自由に観られる・・・そんな環境を夢見たのだが、なかなかそう上手くはいかないようだ。
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君たちは・・・

Z9 + NIKKOR Z 50mm f/1.2 S
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土曜日に映画「君たちはどう生きるか」を観てきた。
チケットの予約は簡単に取れたが、上映開始の頃にはすべて席が埋まっていた。
宣伝をしなかったので、公開したことに気付いた人たちが、慌てて集まってきたようだ。
ごった返す映画館のホールでも「さっきまで誰もいなかったのに・・」と驚く声が聞こえてきた。
どう評価していいか分からない・・という声が多いという。
ファンタジーにしては、戦時下の重い現実がベースになっている。
まあもともと宮崎氏は、ただ楽しませるだけの能天気な作品を作る人ではないのだが・・・
実は僕はファンタジーというのがどうも苦手である。
昭和2年生まれのリアリストだった父に育てられた影響かもしれない(笑)
宮崎作品でも、ポニョやトトロ、ハウルや千と千尋、もののけ姫などは、今ひとつ理解できない。
恐らく宮崎氏にはしっかりした理由があって、ああいうキャラクターデザインやストーリーになるのだろうな・・とは思うのだが、こちらはそういう知識が無いので、何が何だかよく分からないのだ。
その点今回はどうであったか・・というと、「君たちはどう生きるか」は、実は非常に納得のいく作品であった。
個人的にはベストの何本かに入れていいと思った。
ストーリーとしては、もちろんファンタジー以外の何物でも無いのだろうが、実際には映画の始まりからずっと、それが非常にリアルな世界に見えて仕方が無かった。
この映画に関して、ネタバレを含む感想を書くことを皆さん自粛しているようなので、なるべくソフトに書こうと思うが、少しでもストーリーに触れられることを嫌われる方は、以降は読まないでいただきたい。
これは個人的なことなのだが、宮崎氏と僕の母親の育った環境とは、地理的に非常に近く(というか同じ場所にいたと言える)類似点が多い。
僕の母親の家族は東京の真ん中にいたが、戦争の疎開のため・・というより、半官半民の仕事で祖父が宇都宮に赴任したため、一家がそちらに移動した。
母親の兄や姉は、現地で中島飛行機の工場で働いていた。
母親の年齢は、今回の映画の主人公より恐らく少しだけ若く、宮崎氏より数歳上である。
宇都宮が空襲を受けた日には、家族が散り散りになって避難し、焼夷弾の降り注ぐ真っ暗な中を必死の思いで逃げた。
B29の飛来の様子を見て、ここにいたら助からないから逃げようと、祖父が自転車を押し、母と叔父(宮崎氏と同年齢)の二人だけを連れて出た。
防空壕は直撃を受けたので、外に飛び出したのは正解であった。
途中でどこかの子供たちがドブから亡霊のように立ち上がり、一緒に連れて行ってとすがってきたが、助けることなどできなかった。
家は焼け落ち、屋根だけがそのままの形で地面に落ちていた。
一方で同じく宇都宮にいた宮崎氏は、空襲の際に自動車に乗って逃げた・・という話を読んだことがある。
母親は少し怒りながら、あの時そんなことが出来るなんて、普通の家族ではない、と言った。
車を持つこと自体が、限られた人にしか出来ない時代であり、恐らく軍に関係した仕事をしていたのだろう・・とすぐに思ったという。
この映画を観ていて、多分に宮崎氏の自伝的なものが含まれているのではないか・・と強く感じた。
主人公は氏より少し年上なので、あるいは年上の世代を観察していた氏の記憶がベースになっているのかもしれない。
その時代を生きた人にしか分からない空気感が表現されていた。
映画に出てきた洋館のことを母親に話したところ、恐らく映画程のものではないのだろうが、あの頃はいくつかの家に洋風の建物があったという。
お金のある家では、古くからの和式の大きな家と、離れに洋館を持っている事が多く、子供たちがそちらで暮らしたりしていた。
実際母親も、宇都宮でそういう家を借りてしばらく住んでいた事があり、そこは一階は洋間で二階は畳の部屋になっていたという。
その時の思い出は、しかしとても暗く、記憶としてはモノクロ、あるいはセピア色の世界に埋没していた。
母親にとっては、死と隣り合わせの恐怖、飢え、感情面でのぶつかり合いなどに直接結びついている・・ということもある。
それをこの映画は、鮮やかで美しい色使いで、非常に現実味のあるものとして描き、澄んだ空気や木々の匂いまでもを蘇らせてくれた。
子供の頃から聞かされて育った僕にとっても、ああいう空間だったのか・・・と、急にリアルな世界を見せられたような衝撃と感動があった。
そのためこの映画の描いた世界は、とても親しみやすく理解しやすいものであった。
隔離された森の奥にある異質な空間は、もちろん夢の中の話のように見える。
しかし勝手な想像ではあるが、これだけの作品群を作った人なら、子供の頃から尋常でない空想の世界の中に生きていたはずであり、案外当人にはごく自然に見えていた世界に近いのではないか・・・と思えてくるのだ。
あやふやな接点で異空間と現世とが繋がっているのも、子供の生きる世界には普通にあることであるし、もしかすると今でも山の奥に踏み入れば体験できるものなのかもしれない。
今回さらにいいと感じたのは、人間が誰でも持っている解決できないドロドロとしたものと、正面から向き合おうとしているところだ。
多分今までの作品と少し違うところであり、映画の主題になった本とも絡んでくる。
個人的にはこの映画が気に入った理由でもあるのだが、単なるファンタジーとして観るなら、ここはピンとこない、あるいは受け入れられない重い部分なのかもしれない。
何の資料も無いので(笑)、素っ頓狂な意見になっているかもしれないが、僕自身が一回だけ観て感じたことを書いた。
久しぶりにもう一回観たいと思う作品であった。
ところで話は変わるが、零式艦上戦闘機のキャノピーって、三つのパーツをひとつにくっつけて運べるのだと驚いた。
たしかに手作業で物を作り、パーツを現物合わせでひとつずつ調整する当時の工業製品だから、実際に組み合わせて1セットにする必要があるのかもしれないが・・・
設計者が主人公でありながら、実際には肝心の零戦が最後に一瞬しか出ない前作(「零戦を作る映画」と思い込んでいる人が多いが)より、今回の方が少し(キャノピーだけだが)登場する場面の時間が長いかもしれない(笑)
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リメイク

Z9 + NIKKOR Z 50mm f/1.2 S
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英国映画の「生きる LIVING」を観た。
公開されてすぐに観に行った。
黒澤の「生きる」が、個人的にとても重要な作品であったから、そのリメイク版は観ておく必要があった。
(以下ネタバレあり)
正直評価が難しいな・・と思った。
作品としてはよく出来ているのだろう。
俳優もいいし、シナリオもよく練られている。
しかしオリジナルを何度も観ており、先の展開がすべて分かっているため、どうしても「普通」に見ることが出来ない。
当時の英国に合うよう設定にいくつか変更はあっても、基本的にオリジナルのストーリーに忠実に作られているため、余計にそう感じてしまった。
一方で英国の実情に合っていないのか、カットされたシーンもある。
主人公がヤクザに脅される場面などは、個人的には今でも時々思い出すシーンであり、ちょっと楽しみにしていたのだが、完全に削除されてしまった。
そういったことが、最初から最後まで繰り返され、普通に鑑賞することが出来なかった。
しかも重要なシーンで、普段愛聴しているヴォーン・ウイリアムズが使われたので、エッとなった。
まあイギリス映画だから堂々と使ってもらっていいのだが、場面よりそちらに気がいってしまった。
一番大切なシーンで、よく知っているメロディが流れてきたら、いくら映像に合っていたとしても、意図したはずの効果が飛んでしまう。
という訳で、あくまで僕の場合だが、上手く乗る事の出来ない作品となってしまった。
黒澤明の「生きる」は、黒澤の中でも、本当に特別で重要な作品なのだ。
脚本のカズオ・イシグロ氏自身、「生きる」を子供の時に見て強い衝撃を受けたと言っている。
僕も小さい時に、父親から「黒澤の最高傑作は「生きる」だ」と言われて育ち、学生時代は劇場で上映されるたびに観に行った。
父親は「生きる」が公開された時に、黒澤監督が何を言いたいのか、はじめて分かった・・と言っていた。
多くの映画好きにとって、「生きる」は特別な作品なのだ。
大袈裟に聞こえるかもしれないが、人生の指標になった作品でもある。
そう発言する人をかつて何人か見ている。
皆が自分の「生きる」を持っている。
それだけにリメイクは難しいな・・と感じた。
オリジナルには、何といってもゼロから作り上げたエネルギーがあるが、リメイクではその要素は当然失われるのだし・・・
逆に言うと、オリジナルの「生きる」を観ていない人には、この映画は訴えるものがあるかもしれない。
オリジナルは今となっては演出やテンポに古い部分が多いと思うが、こちらは最新の映画で、現代の文法にのっとって作られている。
まっさらな状態で観ることが出来れば、心に訴えるものの多い作品なのではないか。
と、僕には推測するしかないのだが、どうなのだろう・・・
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微妙

Z9 + NIKKOR Z 50mm f/1.2 S
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アマゾン・プライムで「シン・ウルトラマン」を観た。
劇場公開時に行きたかったが、ついに行けなかった映画だ。
もっともその後すぐに自宅で観られるわけだが・・・
公開当時、賛否両論であった。
どうしても「シン・ゴジラ」と比べてしまう。
演出がそっくりな上、登場人物も一部引き継いでいるので、余計に意識してしまう。
「シン・ゴジラ」は傑作だと思ったが、同じ語り口で作られた「シン・ウルトラマン」の方は、微妙・・というのが、友人の意見だった。
では観なくていいか・・と返したら、いや、これは観ておくべきだ、と言う。
実際観てみて、なるほどね・・という感じであった。
確かに「シン・ゴジラ」のような衝撃は少ない。
「シン・ゴジラ」には、ひとつの巨大な敵に対し、日本が総力で戦う一体感、そしてそれに打ち勝った爽快感があった。
あの映画は、震災や原発事故で多くの日本人が受けたダメージとも、強く結びついていた。
ところが「シン・ウルトラマン」は、いきなり怪獣が次々に出て暴れまくり、しかもそれが日常になっている。
そもそもがウルトラマンという物語の設定自体がマンガ的である。
何故か日本だけに次から次へと怪獣や宇宙人が現れて、しかも知的生命体なのに取っ組み合いの喧嘩をするのだ。
街やビルを滅茶苦茶に破壊して、そこに住む人達の生命や財産を奪いまくることへの言及もない。
実際当時の子供たちは、プロレスを見るのと同じ感覚で、ウルトラマンの戦いっぷりを観ていた。
そのストーリーを、真面目に現代の映画として蘇らせるのだから、かなり無理がある。
よく頑張って作ったな・・というのが正直な感想だ。
この映画は、昭和40年代に放映された最初のウルトラマン、あるいはその前のウルトラQを観ていた人でないと、面白さが分からない・・という評価もある。
確かにその通りで、最初に登場する怪獣(映画では禍威獣)はウルトラQから引き継がれているし、それぞれのエピソードも、かつてのウルトラマンで放映されたストーリーに沿った内容になっている。
その世代の人なら、ゼットンの名前が出るだけで、いよいよ出たか・・と思うであろう。
作る側もマニアックな要素を多く入れて、分かる人にしか分からない作品に仕上げている。
実は個人的には、けっこう楽しんで鑑賞した。
白状すると、もう2回も観てしまったのだ(笑)
「シン・ゴジラ」ほどの劇的なものは無いのだが、繰り返し観るくらいだから、それなりに気に入ってはいるのだ。
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影響

Z9 + NIKKOR Z 50mm f/1.2 S
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もう何週間か前の話なのだが、近所の映画館に「ジュラシック・ワールド/新たなる支配者」を観に行ってきた。
Mrs.COLKIDは興味を示さないので、僕ひとりで行った。
夜の回ということもあり、観客の入りは程ほど出あった。
50人くらいであろうか・・・
追加料金を払うと、例の椅子が揺れるシアターもあった。
しかしそうまでして観る事も無いかと思い、普通のシアターでの上映を選んだ。
そうしたら思いの外、音が悪くて閉口した。
まさか差をつけるために、わざと悪くしている訳じゃないだろうな・・・
シリーズ最終作ということで、今までの登場人物が一堂に会し、お互い協力し合い活躍するという集大成的なストーリー。
個人的には登場人物に特別な思い入れはないので、それほどの感慨はなかった。
映画としての出来は、まあ普通・・という感じで、印象としては前作と同じくらいであった。
何しろこの映画の本当の主人公は人間ではなく恐竜なのだ。
僕の世代にとっては、このシリーズは一番最初の「ジュラシック・パーク」が1993年に公開された時のショックがすべてだろう。
何本かあるその続編は、おまけ程度にしか感じられない。
あれ以降CGの技術が急速に進み、何でもかんでもCGになってしまった事もあり、こちらの映画の見方自体が変化してしまい、今やどのような映像を見ても驚かなくなってしまった。
皮肉なことに、技術的な進歩が、リアルな恐竜の動きが売りのこのシリーズの力を失わせたともいえる。
あの第一作を初めて見た時の衝撃と言ったら無かった。(ここからは第一作の話になる・笑)
子供の頃からずっと空想していた世界が、ついに映像化された瞬間であった。
粘土細工のアニメーションでも、生きたトカゲにツノを付けて合成したものでもない。
本物と見紛うほどの、リアルな恐竜がそこにいた。
第一作の劇中、初めて恐竜が歩くのを見たローラ・ダーンが、口をあんぐり開けたまま茫然となるシーンがあったが、観客もあれと同じ気持ちを味わった。
何といっても最高の場面は、あのティラノサウルスが初めて姿を現し、牙を剥き出しにしてこちらに迫ってきた時であろう。
過去にそういうシーンを何度夢に見たことだろう。
CGの黎明期であるが、Tレックスという最高の役者を当ててきたのは、さすがスピルバーグだし、劇的な巡り合せでもあった。
映画自体は1993年の公開で、すでに30年近い年月が経っている事に驚かされる。
第一作を今見ると、CGは稚拙であるし、映画としての演出も時代を感じさせるところはある。
しかしあの瞬間に時代が変わった・・という思いは、今でも強く持っている。
今回映画館で買ったパンフレットを読んでいたら、非常に興味深い事が書かれていた。
現在は恐竜の研究が大きく進み、何と一週間に一種のペースで新種が発見されているという。
世界規模でこの分野の研究が盛んになり、古生物学の黄金時代と言っていい状況だというのだ。
確かにこの十数年、次から次に恐竜の理論が変化していくので驚いてはいた。
恐竜について学ぼうとする若者が増加し、大学での講座が増え、博物館での展示が多く行われるようになった。
その結果回される予算も大きくなった。
暑い砂漠の中でこつこつと化石を発掘するという、地味で厳しい作業の伴うこの分野が見直され、かなりの活況を呈しているという。
何故そのような事になったか。
実は映画「ジュラシック・パーク」がもたらした効果だというのだ。
あの第一作を観て、衝撃を受けた人たちが世界中にいたのだ。
多くの人たちにとって、やはりあれは夢にまで見た瞬間だったのだ・・と思ったが、僕の世代であの作品を見ても、それがきっかけで恐竜研究の分野に転職する人は限られるだろう。
むしろその続編を含めたシリーズ全体が、若い人たちを感化し影響を与えたものと思われる。
映画の影響で、自分は将来恐竜を研究したい・・と考える人が、大勢生まれたのだ。
スピルバーグは過去に何本か、エポック・メイキングともいえる作品を撮っている。
その中でも、社会に与えた影響力においては、「ジュラシック・パーク」が一番大きいのかもしれない。
スピルバーグより優れた映像作家は大勢いると思うが、世界中の人々の人生まで変えてしまった人は、他にはあまり見当たらない。
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ボンド

Z9 + NIKKOR Z 50mm f/1.2 S
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4回目のワクチン接種による副反応で、お盆休みに家に数日間閉じこもる事になったが、その時間を利用して映画を観た。
ダニエル・クレイグの007のシリーズだ。
アマゾン・プライムですべて無料で観ることが出来た。
実はこのシリーズを一度もちゃんと観たことが無かった。
公開時に劇場には行かなかったし、テレビ放映の際も部分的にちょこっと観るだけだった。
第1作を観ていなかったので、途中の作品から観るのを避けたかったこともある。
評判がいいので一度観たいと思っていたが、今回最初から通して観ることが出来た。
エアコンの効いた部屋で、部屋の真ん中に椅子を置いて、カーテンを閉めて音量を大きめにして、かなり快適な環境で楽しんだ(笑)
以下ネタバレも含まれるので、これから観ようという方は読まないでいただきたい。
本シリーズの第1作である「カジノロワイヤル」から、昨年公開された「ノー・タイム・トゥ・ダイ」まで、5作品を連続して観た。
ダニエル・クレイグはこれでボンド引退だというので、全作品を一気に観た事になる。
これらの5つの作品は話が繋がっていて、登場人物も同一の役者が演じているので、通して観る事に大いに意味があった。
やはりまとめて見て正解であった。
なかなか骨太のボンドで、評価されている意味も理解できた。
ダニエル・クレイグという役者さんは、旧来のスマートなジェームズ・ボンドのイメージには合っていない。
まあショーン・コネリーが作り上げたボンドのイメージが強烈過ぎたのだろう。
ジェームズ・ボンドは何でもスマートにこなす華麗なる男・・というイメージがあるが、ダニエル・クレイグのボンドはまるで逆で、埃まみれ、汗まみれになって殴りあうシーンが多い。
描写が現代風にリアルになっている事もあるが、顔にはあちこちに小傷が残り、マッチョな身体には銃創、タキシードで正装してもすぐに大きな血の染みをつける。
プレイボーイのイメージの強いボンドであるが、このボンドはむしろ一人の女性に一途な面が強調されている。
その女性を失ったことが、ボンドの心に大きな傷として残っている。
精神面でこれほどダメージを負っているボンドは初めてかもしれない。
しかも随所にボンドがいわゆるLGBTQ+であることを示唆する描写がある。
女性よりボンドが裸になるシーンが多い・・とどこかで評されているのを読んだ。
確かにその通りで、部屋に入るとまず服を脱ぎ捨てて裸になるのがこのボンドの癖でもある。
また秘密情報部のエージェントという存在自体が既に古いもので、ボンドが過去の人であることも、このシリーズのテーマのひとつになっている。
ボンドが何かと「殺し屋」という呼ばれ方をするのも、それを表している。
情報部はパソコンを駆使する新しい世代の人たちが主流となり、派手に暴れて何でも破壊してしまうボンドは、MI-6内部でも疎まれており、何度も首になりかかる。
実際の現場では、身体を使って行動する人間が重要で、最後はそういう人が世界を救う・・というストーリーにはなっているが、そのためにボンド自身がラストで犠牲になるのは、ちょっと寂しい展開であった。
やはり世の中が変わった・・という事だろう。
世界の常識や価値観の変化が、この最新の007のシリーズに端的に表れている。
かつてのジェームズ・ボンドではもう通用しないのである。
古い価値観の人たち・・特にショーン・コネリーの華やかなジェームズ・ボンドで育った人たちには、釈然としないものが残るかも知れない。
こうなると違和感があるのは、スペクターなどの悪の組織である。
描写がリアルになったために、余計にこういう世界転覆を図る悪役の存在が、荒唐無稽で素っ頓狂なものに見えてくる。
ただこれがあっての007シリーズでもある。
確かショーン・コネリーの頃でさえ、ボンドのことを馬鹿げた役のような発言があったし、ロジャー・ムーアの時代に至っては、逆手にとってコメディ映画になっていた。
個人的にはダニエル・クレイグの007のシリーズは、なかなか見応えがあり楽しむことが出来た。
製作には米国の資本も入っているだろうが、歴史のあるヨーロッパの都市を主な舞台としているこのシリーズには、アメリカ映画とは違う郷愁のようなものを感じさせるところがある。
観た後も数日間、いくつかの場面をふと思い出すことが多かった。
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ドライブ・マイ・カー

Z9 + NIKKOR Z 50mm f/1.2 S
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夜になってひとりで「ドライブ・マイ・カー」を観てきた。
(Mrs.COLKIDはすでに別の日に観に行っていた)
プライム・ビデオでレンタルも出来たが、映画館で観ないと良さが分からない・・という評価だったので、あえて劇場まで足を運んだ。
細やかな感情を描いた作品なので、自宅でテレビで気楽に観たのでは、それが伝わらないのだろう。
3時間、動くことのできない環境で、その中にどっぷりと浸かりながら観て、初めてその良さが伝わってくる。
ある意味とてもユニークな作品である。
地味な内容の作品という事で、途中で眠くなるのではないかと心配していた。
確かに派手さはないのだが、感情を刺激するシーンが幾度かあり、そのたびに静かにジワッとくる。
3時間の長さであるが、最後まで見入ってしまった。
ただこういう作品って、日本映画には以前からあったようにも思う。
今回初めてその独特の世界観に、海外が気付いたのではないだろうか。
喪失と再生の物語であるが、コロナ禍で世界中の人々が心に傷を負っており、それ故強い共感を得られたのかもしれない。
個人的には高槻役の岡田将生氏の演技が良かった。
自分の感情をコントロール出来ずに破滅していく役であるが、表情の変化が上手く凄味さえ感じさせた。
アカデミー賞を獲得し話題になっているが、夜遅めの回ということもあり、観客は20名くらいであった。
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ネットフリックス

Z9 + NIKKOR Z 50mm f/1.2 S
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先日3回目のワクチンを打った後、テレビでネットフリックスの映画を何本か観た。
家に大人しく閉じこもっていなければならず、その間の時間の消化のためである。
たまたま前日に劇場に行ったことも、久しぶりに映画づくきっかけになった。
家のテレビはそれほど高性能なものではない。
ソニー製の4K液晶の程ほどの大きさのものだ。(55インチくらい?)
型落ちで安くなったものを買ったのだが、購入直後に一度壊れて動かなくなり、新しいものに入れ替えてもらった。
それ以降は調子よく動いている。
音響関係もかなり手を抜いている。
結婚して間もない頃に買ったオンキョーの安いAV用のお手軽セットだ。
小さいアンプと小さい4本のスピーカーにスーパーウーファーが付いている。
音は評価出来るものではないのだが、映画を観る分にはそれほど不満もないので、そのまま使っている。
むしろこんなに長い期間、よく壊れないで動いていると感心している(笑)
テレビの真正面、1.5メートルほどの位置、居間の中央の空間に椅子を置く。
そこに腰掛けて、贅沢にひとりで映画を観た。
画面の大きさは大したことはないのだが、画角としては小さい映画館の中央辺りの席で観るのとそう変わらない感じ。
液晶画面がくっきりとしており、かえって映画館のスクリーンより細部が見えるような気がする。
スピーカーのfレンジが広いとは言えず、音声帯域中心になるため、反響音で濁ってしまう映画館より、むしろセリフは明瞭に聞こえる。
空調の効きも自分で調整できるし、周りに変な人もいないので、安心してゆっくり観ることができる。
椅子を真ん中に置いて、かしこまって鑑賞することで、「特別な体験」という雰囲気も出る。
鑑賞する環境としては、全般に悪くないな・・と思った。
部屋を暗めにして観れば、映画館での体験と大きく変わらない。
たまたま前日に小さめのシアターで観たばかりだったので、比較がしやすかった。
ご存知の通り、ネットフリックスは今や映画製作会社の最大手になっている。
アカデミー賞のノミネートにも、ネットフリックス作品が何本も選ばれている。
映画は映画館で観るもの・・という古典的な考え方に固執していたスピルバーグでさえ、方針を変えてネットフリックスと契約した。
コロナの影響で映画産業が大きな痛手を受けたこともあるが、世界中の人たちに等しく配信できるというメリットはやはり大きい・・という事であろう。
自宅での視聴環境であるが、観る側が工夫すれば十分なクオリティは確保できそうだ。
AVにお金をかけている人なら、下手な映画館より質が高いかもしれない。
そうなると映画館の存続がまた危うくなってくるのだが・・・
配信で映画を観るとなると、どうしても自宅での視聴環境の向上を考えてしまうが、それは考え方が古いのかもしれない。
実際作品を観ると、テレビ作品と映画の境目が曖昧になっており、両社の中間くらいにある作品も多い。
恐らく見る側も、途中でトイレに立ったり、電話がかかってきたり、しばらくよそ見をしていたり・・という具合に、イージーな感覚で鑑賞する人が大半になるのであろう。
作品と鑑賞者の両方が変化しているのだと思う。
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1920年代

Z9 + NIKKOR Z 50mm f/1.2 S
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ネットフリックスで「パワー・オブ・ザ・ドッグ」という映画を観た。
1920年代のアメリカ・モンタナ州の大牧場を舞台とした作品で、アカデミー賞の作品賞の有力候補となっている。
舞台は雄大な米国西部の牧場(ロケ地はニュージーランドらしい)であるが、いわゆる西部劇の時代からは半世紀ほど経っている。
主人公の一人であるピーター役のコディ・スミット=マクフィーが、母親と町の雑貨店に買い物に行くシーンがある。
1920年代ということで、お店の作りやディスプレイが、西部劇の時代より近代的で洗練されている。
置いてある商品もしっかり作られていて、品質が高そうに見えるところが興味深い。
お店では主に帽子や服、靴などを扱っているのだが、革靴やブーツに混ざってスニーカーが飾られていた。
そこにどうもハイカットのコンバース・オールスターと思われるモデルが置いてあった。
オールスターはバスケットボール用のシューズとして、1917年に製造が開始されているので、当時は最新の靴だったはずだ。

先進的な感性の持ち主のピーターは、早速その靴に目をつけて手に取って見る。
(実際に購入するのは白いローカットのテニスシューズのようだが・・・)
しかし場所は保守的かつ古典的なアメリカ西部である。
男のくせになよなよしていると、カウボーイ達から馬鹿にされていたところに、白いスニーカーを履いて行ったものだから、火に油を注ぐ形となった。
作品はいわゆる「有毒な男らしさ」と同性愛がテーマで、終始ピリピリとした緊張感のある人間関係が続く。
世間では演技や描写のクオリティが高く評価されており、確かにその点は素晴らしいのだが、個人的にはストーリーにいまひとつ共感できなかった。
むしろ、皆がどういう理由でこの作品を評価するのか・・の方が興味がある。
ただこの年代の空気が新鮮に感じられたのは事実だ。
上の画像では切り取っているが、画面の左側にはブローグの入った革靴や、白黒のスペクテイターシューズらしきものも飾られていた。
そういう細かいグッズに注目して、映画を楽しむのも悪く無い。
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