つきみそう

平成元年に出版した処女歌集の名

東常縁の話

2011-08-07 | 短歌
 昨日は予定通り3度目の短歌講話を、放送大学岐阜学習センターで致しました。放送大学の客員教授であり、岐阜大学教授のSご夫妻までも聞きに来て頂き恐縮してしまいました。最初30人の部屋を予定したのですが、予約の段階で50人となり部屋を変更されました。
 斉藤妙椿が東常縁の短歌によって城を明け渡した話、岐阜の万葉遺跡、細川幽斉のこと、岐阜城の歴史と篠脇城のこと、古今伝授のこと、など話ました。

 郡上市大和町にある篠脇城の城主は、千葉から来られ、領地を与えられた東常縁(とうのつねより)でした。室町時代の話です。この人は文武両道で、特に歌が並はずれてうまかったのです。応仁の乱で全国が戦争状態になり、岐阜城と篠脇城は敵味方に分かれてしまいました。その時常縁は千葉にもめごとがあり、帰郷。留守を預かった兄はあえなく敗戦。城は、岐阜城主の斉藤妙椿に奪いとられてしまったのです。

 これを千葉で聞いた常縁は、その嘆きを歌に詠みました。この歌を人づてに聞いた妙椿はその素晴らしさに感動。手紙を出してもっと歌を作ってほしいと依頼しました。それに応えて、常縁は10首の歌を送りました。 この歌に再び感動した妙椿は、篠脇城を返還したのです。

 歴史上、戦争もせず歌で城を得た話は他にありません。これを司馬遼太郎は、史上最高の原稿料であると称えています。歌10首ですから、310文字で城を得たということになりますから・・・(上の写真はスタッフが撮影)

 なお、岐阜城の歴史は800年前に遡ります。当時は稲葉山城と言われていたのですが、信長が岐阜と改め岐阜城となりました。大抵の城は大垣城にせよ彦根城にせよ400年祭を近年行っていましたが、格段に古いのは、鎌倉時代、京都ににらみを利かすため築城されたからです。。斉藤妙椿は7代目城主。18代の信長の孫・秀信で廃城となり、加納城に移転。400年近くの空白があり、昭和31年再建。17代目の城主は、お江(ごう)の2番目の夫・豊臣秀勝でした。

     
     東常縁
コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする