goo blog サービス終了のお知らせ 

未唯への手紙

未唯への手紙

現代コスタリカのコーヒー事情

2016年09月18日 | 7.生活
『コスタリカを知るための60章』より

国際競争に挑戦する独自のブランド化をめざして

 ほろ苦く、しかし芳香な一杯のコーヒーは、私たちの日常生活に欠かせない飲み物である。眠気を覚まし、精神を活性化させ、また社交や恋人同士の語らいの道具ともなるコーヒーは、人類が愛用する数ある飲み物のなかでも、最も多くの愛好者をもっているが、同時に強い副作用を有する飲み物としても知られている。長い歴史のなかで、時代によっては媚薬、下剤、強壮剤、長寿薬として使用されたことのあるこのコーヒーがアメリカ大陸で広く栽培され始めたのは19世紀になってからで、ちょうどスペインとポルトガルの植民地から独立したばかりのラテンアメリカ諸国の独立国家形成期であった。

 コーヒーは、原産地アフリカのエチオピアから世界を一周し、現在では地球上のコーヒーベルトと呼ばれる、北と南の回帰線の間の熱帯と亜熱帯に位置する多くの国で栽培されている。北緯8度から11度に位置するコスタリカはまさにコーヒー栽培適地のひとつで、高品質のコーヒ上豆を生産することで知られている。そしてコーヒー経済の発達の歴史がコスタリカの国家と社会に与えた影響については、すでに第Ⅱ部で紹介している。

 コーヒーには、エチオピア原産のアラビカ種、コンゴ原産のロブスタ種、リペリア原産のりベリカ種が存在するが、まろやかな甘味があり、カフェインの含有量がほかの2種より少ないアラビカ種が、19世紀からコスタリカが生産するコーヒ-豆であった。しかしアラビカ種は高温多湿に弱く、年平均気温20度、気温の年較差の少ない熱帯の500~1800メートルの高地が適地である。このような条件を満たしているのが、コスタリカの中央盆地である。標高800~1500メートルのこの盆地は、現在その70%がコーヒー畑で埋め尽くされ、遠目にみる丘陵地のコーヒーの畝は日本の茶畑のようだ。

 かつてコスタリカの輸出総額の90%を占めたこともあるコーヒーは、20世紀半ばには30%前後にその地位を低下させ、同時に「コーヒー貴族」は没落した。そして第二次世界大戦後には中小コーヒー栽培農家の協同組合化と近代化政策を通じてコーヒー産業の組織化が国家によって推進されたが、1989年以降コーヒーはこの国の主要な輸出産品の地位を失ってしまった。その原因のひとつは、88年に国際コーヒー機構がコーヒー輸出量の割当制を廃止したことで起こった競争の激化とコーヒー価格の下落であった。コスタリカの輸出総額の30%前後をそれまで占めてきたコーヒーの地位は、最悪を記録した99年には4・4%にまで低下した。2000年には14%台にまで回復したが、この間の厳しい経験はコスタリカ・コーヒーの国際市場における地位を物語っている。

 割当制に守られていたコスタリカのコーヒー産業は、それまで自国産コーヒー豆をほかの国のコーヒー豆とブレンドされて販売することを認めてきた。その結果、専門業者を除くと、コスタリカのコーヒーが世界の消費者の間で知られることはほとんどなかった。しかし90年代の輸出の落ち込みによって目覚めたコスタリカのコーヒー関係者は、高品質のコーヒーを独自のブランドで国際市場に送り込む新しい戦略に取り組み始めた。

 2000年の資料によると、コーヒー産業に関わって暮らす人口は約30万人とされ、コーヒー栽培農家の数はそのほぼ4分の1の7万人であった。2015年には5万人となっている。収穫したコーヒ上豆を加工するベネフィシオ業者の数は93、輸出業者の数は56となっていた。1958年に最初の協同組合が組織されて以来、国家の指導で促進された協同組合は34となり、その組合員約4万5000のコーヒー農家が生産するコーヒーは総生産量の40%に達している。

 コーヒー生産農家の90%は面積5ヘクタール以下しか所有しない小規模農家である。一方、80ヘクタール以上を所有する大規模コーヒー農園は約10%となっている。ちなみに50ヘクタールのコーヒー農園を経営するには、経験を積んだ1人の現場監督と8人の労働者を常雇用する必要がある。この規模のコーヒー農園を切り盛りする現場監督は、経験を必要とするとはいえ、小学校教育レベルの人材で十分である。しかしさらに大規模なコーヒー農園を経営するには現場監督のほかに管理人が必要となり、1人の管理人が管理できるのは5人の現場監督までであるという。つまり250ヘクタールのコーヒー農園を経営する場合、40人の常雇用の労働者が必要となり、大学の農学部を出た専門家を管理人として雇用し、そのほかに会計係などの職員が必要となる。コスタリカのコーヒー農園の圧倒的多数は家族労働力を中心として若干の労働者を常雇用し、収穫期には臨時の労働力を使うという経営方法をとっている状況が容易に理解できる。

 このような小規模のコーヒー生産農家を束ねる協同組合は、これまで国際市場のニーズにあまり敏感ではなかった。ジャマイカやコロンビアのような独自のブランドでコスタリカ産コーヒーを売る努力をしておらず、どこかの国の製品とブレンドされて売られるのが普通であった。しかし自由競争の激化するなかで、高品質のアラビカ・コーヒーを独自のブランドで売りだす作戦が取り組まれており、その代表的なものが「ブリッツ・コーヒー」である。

 コスタリカを訪れる観光客の多くが参加するのが、首都サンホセから車で1時間ほどのエレディア郊外に位置するブリッツ・コーヒー農園ツアーである。1985年にアメリカ人がこのコーヒー農園を取得し、生産から販売にいたるまで独特のコーヒー・ビジネスを展開して大成功を収めたことで知られている。観光客を受け入れる農園の一部には、小劇場からおみやげ売店まで完備しており、観光客を迎える3名の職員はプロの劇団員で、コーヒーの歴史から栽培方法、さらにはコーヒー産業に従事する人びとの暮らしにいたるまで、物語風に演じながら紹介してくれる。それも19世紀のコーヒー農民の衣装をつけ、スペイン語と英語で演じる小劇はなかなかのものである。こうして販売先を拡張してきたブリッツ・コーヒーは、現在ではフアン・サンタマリア国際空港、国立劇場、その他いろいろな場所にしやれたカフエ店を開き、コーヒーだけでなくみやげものまで扱うカフエ・ブリッツ・ブランド商品の販売戦略を展開している。

コーヒー産業の進化

 コーヒーのブランドの代名詞とされる銘柄にはジャマイカのブルーマウンテン、米国ハワイのコナなどがある。また、グアテマラやコロンビアといった国のコーヒーも世界的に評価が高い。これまで、コスタリカのコーヒーについては、ある程度評価されてはいたものの、各農園から集荷されたコーヒー豆をベネフィシオ(大規模加工処理施設)業者が一貫精製したため農園や品種のカラーが出せず、個性に乏しく、コーヒー豆が小粒であるなどと言われてきたが、近年、後述のように好評価を受けることが多くなってきた。

 コスタリカのコーヒーは、国際競争に勝ち抜くために1989年から品質の劣ったロブスタ種の栽培が法律で禁止され、すべてアラビカ種になった。原種はティピカ種であり、これから突然変異種や人工交配種などで新種が生まれた。その中でも高収穫のカトゥーフ種(突然変異種)やカトウアイ種(ムンド・ノーボ種とカトウーラ種の交配種)が80%を超える。国土の太平洋岸斜面で栽培されるコーヒーは品質が高く、標高の高い所からストリクト・ハード・ビーン(SHB)、グッド・ハード・ビーン(GHB)、ハード・ビーン(HB)そしてミディアム・ハード・ビーン(MHB)と分類され、等級が順に下がって格付けされる。最高のコーヒーとされるSHBは標高1200~1700メートルで収穫される。この地域は日中雲や霧が発生しやすく、昼夜の寒暖差が激しいので高級なコーヒーを生む。

 2001~02年に史上最悪といわれる世界的なコーヒー危機でコスタリカのコーヒーも悲惨な状況に陥り、多くの生産者・協同組合・企業などが倒産した。この時、同国はコーヒー豆の品質改善に取り組み、品質の悪い大量の豆を焼却した。また、2001年からコスタリカ・コーヒー協会(ICAFE)が、コーヒーの生産・開発・商品化を向上させるために「国家コーヒー栽培計画」を策定・実施した。このことは同国産コーヒーのイメージ向上につながった。

 かつてコーヒー栽培は収穫量を増やすために、日向栽培(Iヘクタール当たり3000~5000本の密植)が多かった。しかし近年では日陰栽培(同1000~2000本、日陰となる樹木の下で栽培)が多くなってきた。これによって樹齢が延び、農薬散布量が少量で済み、有機栽培ができることから農園労働者の健康にも良い影響を与える。一方、通年の維持管理が必要であるため雇用が安定し、自然保護の観点からも推奨されて、日陰栽培は拡大の一途を辿っている。

 コスタリカはエコツーリズム、森林保護、生物多様性など、国を挙げて環境問題に取り組んでいるが、コーヒー生産過程にもそれは取り組まれている。手摘みしたコーヒ上豆をパルパーと呼ばれる果肉除去機にかけてそのまま乾燥させる方法(エコ・ウオッシュト方式)を採用し、ほとんど水を使用しない所が大半である。これはハニー精法(パルプトナチュラル)と呼ばれている。この方式によるとハニー(蜜)のような甘味を出す。コスタリカはこのハニー精法を重視している。また、除去した果肉は有機肥料として利用されている。

 現在は、世界的にコーヒーの「第3波」とも呼ばれるスペシャルティ・コーヒーの時代で、その特徴は1990年代初頭に北米で始まった「グルメ・コーヒー」である。第1波は第2次世界大戦後のインスタント・コーヒーの時代で、第2波はスターバックスなどのコーヒー・チェーン出現の時期である。スペシャルティ・コーヒーとはワイン・テイストのようにカッピングと呼ばれる審査会であるカップ・オブ・エクセレンス(COE)で良い評価をされたコーヒーである。コスタリカでは、上述のカトゥーラ種などのSHBを手摘みし、良質の豆を(ニー精法で精製している。また、既述のように従来は多くの農園からコーヒー豆を集めてベネフィシオで加工処理を行なったため、20世紀後半には各ベネフィシオ名が商品名になっていた。しかし、2000年代前半に生まれた「マイクロ革命」といわれる、家族や親類または生産者グループが運営するマイクロミルという施設で加工を行なうようになり、より細かな単位で加工処理でき、これで農園や品種ごとに個性を出せるようになった。07年にはコスタリカでCOEが開催され、その後マイクロミルが急増して、現在、国内に140以上ある。2014年のワールド・バリスタ・チャンピオンシップで日本人が初のチャンピオンになり、その際に使用したコーヒー豆がコスタリカ産(レオンシオ農園)であった。翌15年に開催されたCOEのオークションでは「日本とオーストラリアのロースターと輸入業者が最良のコスタリカ・コーヒーを購入」という記事(『ナシオン紙』6月18日)で紹介されたことからも分かるように、今最も注目されているのが同国産のコーヒーである。

 コスタリカにおいては、コーヒー栽培は零細・中小規模の生産者・協同組合が大半である。かれらはフェアトレード(FT)取引を行なうと、通常の収入に比べ、かなりの増収になるため、FT認証を得ようとしている。FTコーヒーは、大半が有機栽培であり、さらに中間搾取を排除した形で取引される。栽培者はこのFT認証を受け、その数量が年々増大してきている。フェアトレード・インターナショナルによると、2009~10年の世界のFTコーヒー総輸出量10万3000トンのうち、コスタリカは4120トンを輸出して、全世界の4%であったが、2012~13年に2万7900トンとなり、全世界の7%が同国産である。このように、認証を受けたコーヒーは着実に増加し、現在、コスタリカでは、9生産者組織、5貿易業者が認証を受けている。

 また、スターバックス社が2004年に土壌管理と農作物生産の専門家を集めた技術支援センターをコスタリカに設立して、生産者の生活向上、高品質なコーヒー豆の継続的な供給が行なわれ、ドータやクラスの農業協同組合は同社にコーヒー豆を販売している。いずれも太平洋岸に近い雲霧林の標高1200~1500メートルに位置する。2003年にアキアレス農園がレインフォレスト・アライアンス認証を受け、07年にはオア(カ農園などが続いている。ほかには、ベネフィシオ・セロ・アルトは、2011~12年のコーヒー収穫についてカーボン・ニュートラル認証を取得した。さらには、「トレーサビリティー」や「サステナビリティー」といった認証も取得しつつある。このように、さまざま認証を取得して、コスタリカは高付加価値のコーヒー生産に重点を置いて、他国との差別化を推し進めている。

グローバル化とグローバルな正義

2016年09月18日 | 3.社会
『インドから考える』より

国、個人、人類

 最後に国籍の特権化に目を向けよう。これまた、コミュニテイ最優先の決めつけと同じくらい人々を制約してしまう。もし世界がちがった国民に「区分」されてしまい、別の国民を見るときに、ある国の市民が別の国の市民を見る以外の見方ができないのであれば、個人間の人間関係は国際関係に取り込まれてしまう。これはグローバルな正義の理解に対して大きな影響を持つ。グローバルな正義は、世界の経済秩序をめぐるアジテーションや、「グローバリゼーション」と呼ばれるものに関連する抗議デモなどのおかげもあって、最近ではかなりの注目を集めるようになっているのだ。アイデンティティの問題は、このとても大きな問題にどう関係してくるのだろうか?

 ここで行うべき最初の区別は、広いグローバルな視点と、狭い国際的な視点との区別だ。国籍や市民権の重要性は現代世界では否定できないが、それ以外のアイデンティティで、国境を越えて結びついた人々の関係(国や政治ユニット以外の区分に基づいた分類による連帯のアイデンティティ)にどう注目すべきかも考えるべきだ。たとえば政治的な仲間意識、文化的なつながり、社会的な信念、共有された人間的懸念、共有された欠乏による結びつき(これは階級やジェンダーなどとも関連する)など、市民性以外のつながりによるものだ。職業的なアイデンティティ(たとえば医師や教師としてのアイデンティティ)の要求と、それらが国境とは関係なしに生み出す義務感とをどう評価すべきだろうか? こうした配慮、責任、義務は、単に国民アイデンティティや国際関係に寄生するだけの存在にとどまらず、国際関係とは正反対の方向に向かうこともしょっちゅうあり得るのだ。ある意味で最も広いアイデンティティと言える「人間」というものでさえ、きちんと考えて見れば、ずっと広い視点を認識させてくれるだけの力を持つはずだ。共通の人間性と関連づけられた各種の動機は、「国」や「市民性」といった集合体への帰属を通じて仲介される必要はない。

 これは決定的に重要な認識だ。この論点は、私たちの故郷であるこの危ういインド亜大陸では容易に見てとれる。私たちは、インドやパキスタンの人々がそれぞれの国の市民というだけでなく、お互いを人間として見られる人間どうしなのだという事実を把握すべき十分な理由がある。私たちは、相互のつきあいをそれぞれの国や政府を通じて行う義務などない。私たちの危うい世界--まさに爆発的な原爆を持つ世界--は(インド亜大陸、ひいては他のところでも)自分が何者かを自問することを要求するのだ。自分の人間性が切除され、国籍だけが残った場合のあり方だけを考えてはいけないのだ。

グローバル化とグローバルな正義

 こうした問題は、近年他の理由からも重要となってきた。たとえば、グローバリゼーションの課題という文脈などだ。そうした課題は、各種のレベルで注目を集め、中には騒々しく荒っぽい抗議デモもあった--シアトル、メルボルン、ワシントン、ロンドン、プラハ、ケベックなど各地で。最近のグローバリゼーション反対デモについて真っ先に指摘しておくべきことは、こうした抗議自体が実にグローバル化したイベントだということだ。かれらを「反グローバリゼーション」抗議として見るのは、かなり誤解のもとだ。かれらは世界的な不満と不信を表現する声なのであり、世界中の多くの国やちがった地域から人々を集めている(デモ参加者はシアトルやケペックの「地元連中」ではない)。そしてかれらの価値観の多くは、不平等と格差というグローバルな問題と関連している。

 デモ参加者たちの懸念はしばしば、まとまりのない要求や、粗雑に考案されたスローガンに反映されているが、そうした抗議のテーマのほうが、かれらの理論よりも一貫して重要だ。かれらの絶え間ない問いかけのほうが、スローガンの中で提出されている出来合いの答えよりも重要だ。浮かび上がってくる問いかけは、グローバルな経済と政治の体制における、大幅な制度変更を要求しており、その中身は特許法改定や経済関係の互恵性から、一九四四年ブレトンーウッズ合意の初期の努力から受けついだ制度的アーキテクチャの拡大まで様々だ。こうした変化は、本当にグローバル化されたやりとりを、減らすよりはむしろもっと増やすだろう。特に重要なのは、こうした運動や、その他多くのグローバルな懸念の表明(たとえば環境問題のアジ)に表現を見出しているアイデンティティの感覚は、国民としてのアイデンティティを大きく超えるということだ。

 アイデンティティの選択は、グローバルな正義に強く影響する。アイデンティティ選択の可能性を認識すると、グローバルな正義が国際的な正義(この両者はよく混同される)よりずっと大きな観念として見るべきものだという含意が即座に出てくる。グローバルな正義を国際的な正義として見るのは、ある人物の国民アイデンティティが、なぜか私たちの支配的なアイデンティティでなければならないと想定することだ。でも世界のあちこちにいる人々は、いろいろちがった形で相互に作用し合う--商業、科学文学、音楽、医療、政治的なアジ、さらにはグローバルNGO、ニュースメディアなどを通じてそうした相互作用は行われる。かれらの関係は、政府や国の代表などを通じてはほとんど仲介されていない。

 たとえば、フランスのフェミニストが、仮にスーダンなどでの女性の低い地位のある側面を正すような仕事をしたいと思ったら、その人はある国の国民が別の国民に対して感じる同情を通じて活動をしているわけではない。同じ女性としてのアイデンティティ、または同じ人間としてジェンダー平等を重視するというアイデンティティのほうが、市民権よりは重要かもしれないのだ。同様に、多くのNGO--国境なき医師団、オックスフアム、アムネスティ・インターナショナル、ヒューマン・ライツ・ウォッチなど--は明示的に、国境を越えた連帯や関係性に注目している。

理性か降伏か?

 終わりに、いくつかの問題に注目しよう。まず、私たちはとても多くのちがった集団に所属しており、それらの間で優先順位を選ばねばならない。ある州やらミュニティや、国でもいいのだが、そうした局所的なアイデンティティの、一部では抵抗しがたいと呼ばれる要求が持ち出され、私たちを無理矢理従属させることはあっても、私たちは自分たちに瑳小性が押しつけられるのに抵抗しなくてはならない。

 第二に、コミュニタリアン的なアイデンティティは、私たちにとって重要なこともあればそうでないこともあるし、どの程度の重要性をそれに持たせるかを決めるのは、私たち自身だ。その選択は、何やら勝手に想定された不可思議な障壁だの、事前に決まった優先度についての説明もない信念だのを根拠に奪われてはならない。

 第三に、世界は単なる国の集まりではなく、人々の集まりでもある。ある人間と別の人間との関係は、それぞれの政府に仲介してもらわなくてもいい。これは、私たちが暮らす、ミサイルや原爆の陰が強まる危うい不安定な世界においては、とても重要な認識になり得る。

 第四に、国際正義はグローバルな正義の要求を完全に包含するものではない。私たちのグローバルな相互関係は、国際的な相互関係よりずっと広範なものだったりするし、反グローバリゼーションの抗議ですらグローバルなイベントとなるのを逃れられない。平等性の問題、懸念、責任は、適切な広がりを持った視点での対応が求められる。

 まとめると、アイデンティティの複数性の含意と、社会的な立論と選択の役割は、このようにすさまじく広範だ。それらは、安全保障から平等性に至る様々なきわめて重要な問題に対し、直接的な関係を持つ。私たちは、相互理解不能性(不可侵な文化障壁により生じるとか言われているもの)をいい加減に想定して、直面すべき問題や必要な選択から逃げるわけにはいかない。また、立論の領域を、受動的な発見の領域に変換するという正当化しにくい手口を通じてうっちやってしまえるものでもない。私たちは、自分が送る人生について責任を持たねばならず、自分たちが暮らす世界についてすら責任をとるべきだ。それ以外の道は、社会的な叡智ではなく、知的降伏でしかないのだ。

人間の行動範囲

2016年09月17日 | 5.その他
右胸の調子

 また、右胸が調子悪いですね。そう言えば、乃木坂の曲に「左胸の勇気」がある。

人間の行動範囲

 人間の行動範囲は大きくなっているのか。今日もグランパスとの試合のために、朝から来ている連中がいます。乃木坂もポートメッセで今日はセブンイレブンのイベントで、明日は前膊です。ブログを見ていると、かなり遠くから泊まりで来るみたいです。

 アンダーの広島のために北海道から飛行機で来る連中も書き込んでいた。

 今、フェスを開くと、何万人という単位で集まります。それぞれは別の目的を持っているだろうに。何が彼らを動かしているのか。

 そして、ヒットラーのやり方、皆の煽り方。その時の皆は自分と同じなのか。

リーダーシップにおける孤立

2016年09月17日 | 5.その他
『ハーバードのリーダーシップ講義』より

孤立というリスク

 孤立してはいけない--そう言うと、誰もがすぐに同意します。たとえ「孤立」が意味することがわからなくても、ネガティブなことだと理解しているのです。

 私が考える孤立とは、自分やまわりの状況が見えない状態をいいます。よく見えないせいで、状況を分析するのも、行動するのも、人のために価値を作り出すのもうまくできなくなるか、あるいはこうした能力が失われていきます。

 もちろん誰にでも盲点はあります。問題は、一歩踏み込んで自分の盲点を見つけ、それを認識する気があるか否かです。何もしなければ、毎度同じ盲点に気がつかないまま、孤立し続けるでしょう。世の中には、自分が問題を引き起こしていることに気づかない人がいます。あなたがその盲点を指摘してあげたら、彼らがどれだけ救われると思いますか? この種の孤立を防ぐにはコミュニケーション--人にフィードバックを求め、もらったフィードバックを受け入れること--が不可欠なのです。

 エグゼクティブと話をすると、彼らは一様に孤立するような状況は避けるべきだと主張し、孤立している人に同情します。ところが、彼ら自身の状況について話し出すと青ざめてきます--思っていた以上に自分が孤立していたことに気づくのです。

 わからないことを人に訊けない人や、すべての答えを知っていると思い込んでいる人は、ほぼ間違いなく「余計な口出しをするな」という雰囲気を醸し出しています。あなたがそうなら、周りの人々は黙ってあなたに従うでしょう。人生は短いですし、いい気になっている人をあえて打ちのめすほど暇ではないのです。さらに上司であるあなたは、部下よりも強い権力を持っています。部下は上司を怒らせたくないですし、たとえ聴いてもらう必要があっても上司が聴きたがらないことは言いにくいものです。繰り返しますが、他人に意見を求めて孤立した状態を打破するには、第一歩を踏み出さなければなりません。そしてそれをすべきなのは権力と責任を持っているあなたなのです。

 孤立は時間をかけてゆっくりと進行するため、おそらく本人はその状況に気づきません。孤立しているかどうか判断したい人は、以下を自問してみてください--人にアドバイスを求めますか? 部下と面談しますか? 人の話を黙って最後まで聴きますか? 携帯端末をテーブルに置いたまま人と話しますか? いつも人とどうやってコミュニケーションを取りますか--電子メール、電話、それとも直接会いますか? あなたの重大な盲点を教えてくれる〈早期警告システム〉はありますか?--たとえば無記名の投書箱(手紙またはオンライン形式)、あなたの助言役を務める部下と定期的に一対一でミーティングを行うなど。

孤立に気づくとき

 大抵の場合、何らかの転換点を迎えるまで、自分の孤立には気づかないものです。たとえば、昇進、新しい仕事、他の地域への異動、自分または家族の生活の変化、チームの変化などです。退職が転換点となる人もいます。さらに、経済動向の変化、業界の変化、主力商品の寿命、競合他社の動きが転換点となる場合もあります。

 きっかけが何であれ、転換期を迎えると、リーダーは自分の状況を正確に見極めて状況にうまく適応しなければならなくなります。というのも転換期が来たということは、状況が変わりつつあるということであり、うまく適応しなければ変化に乗り遅れいつか脱線してしまうからです。状況の変化に適応するには、戦略を変えるか、チームメンバーを変えるか、あるいはリーダーシップスタイルを変えなければなりません。

 孤立している人は、状況をあまり客観視できておらず、迅速にリーダーシップスタイルを変えられないことがあります。経営幹部が判断を誤るのは、ほとんどの場合、転換点をすばやく察知できなかったことが原因です。その結果、大きな問題を回避できなかったり、絶好の機会を逃したりするのです。リーダーの失敗談には、転換点となる問題に気づかなかったために、対応が遅れたことを後悔する話がたくさんあります。

孤立のリスク

 前述したように、リーダーは孤立を避けるために何らかの対策を採らねばなりません。エグゼクティブや野心的なリーダーは、十分に孤立対策を施していると思い込みがちです--しかし困った事態に陥ると、そうでなかったと気づきます。ビジネス上の難題にぶつかったときや、自身に関するアドバイスが必要なとき、彼らは往々にして相談相手やアドバイスをくれる人が見つからなくて苦労するのです。

 本章では、人と協力するための重要な要素についてご説明します。といってもよくあるアドバイスとは違います--好印象の与え方、説得力のある話し方、人を魅了する方法といった話ではありません。もちろん、こうした能力がある方が有利には違いありませんが。本章ではむしろ、振る舞い方や他人との接し方を学びます。たとえばあなたの情熱を人に話す、アイデアを共有する、悩みや不安を打ち明ける、他人の意見を求める、相手への理解を深めるために質問する、人の話を素直に聴く、フィードバックやアドバイスを請う、などです。

 仲間たちと効率よく仕事をするには、一対一でのやり取りとグループでのやり取りの両方が必要になります。協力して働くには、両方をマスターしなければならないので、人と交流する手腕を向上させる方法についてもお話します。

孤立する起業家

 会社の経営者には、フィードバックをもらうのはかなりの難題に思えるようです。というのも、彼らは「頼める人がいない」と思い込んでいるからです。私のオフィスには起業家たちがひっきりなしに訪れます。そしてその多くが、会社で困難な状況に陥った、自分のリーダーシップスタイルの見直しが必要だと語ります。私が上級管理職たちからフィードバックをもらってはどうかと訊ねると、彼らは大体こう答えます。「フィードバックなんて無理ですよ。みんな萎縮して何も言えませんよ」さらには「有益なフォードバックをくれるほど尊敬する人がいないからねぇ」などと言う人もいます。

 このような人には、私はこう伝えます。「そんなはずはありません。優秀な人を雇って上級管理職の質の向上をはかればいいではないですか。いや、ひょっとしたらチームは優秀なのに、あなたに問題があるのかもしれませんよ。あなたは、部下たちに彼らの能力にふさわしい敬意を払っていません。彼らのフィードバックは役に立つはずです。しかし、あなたから頼まない限り、彼らは何も言わないでしょう。上司であるあなたには、自覚している以上の権力があるのです。彼らは上司であるあなたに従う立場ですから、リスクを冒して率直な意見を言おうとはしないでしょう。彼らの給料を払っているのはあなたなんですから」

 起業家から部下たちにアドバイスを求めると、部下たちは有益なフィードバックをくれますし、チームとの関係も劇的に良くなります。そうなると、チームのメンバーは早い段階から--つまり手遅れになる前に--問題点を報告してくれるようになります。

イスラーム諸派の形成

2016年09月17日 | 4.歴史
『イスラーム信仰概論』より 信仰論争の系譜

イスラームの最初期は当然ながらしっかりした信者を増やし、彼らの共同体を樹立することが急務であった。信仰をめぐる議論もそのような観点からの諸問題が優先度の高いものとなった。イスラームの基本的な信仰箇条は何か、見せかけや付和雷同の信者を見分けること、またどのような罪を犯した者が共同体から追放されるべきか、そして信仰は増減するのかといった問題などがかまびすしく論じられた。

ところが一九世紀以来の西欧からの文明的な衝撃により、信仰論議も大きく変容することとなった。要するに、かつてはイスラームと西洋の強弱関係がまったく逆であったはずなのに、近代科学の圧倒的な力を眼前にして一体どうしてこうなったのか、それはイスラームの何かが悪いからなのか、そして何をどうすればいいのか、というイスラーム文明復興の議論が陰に陽に主流を占めざるをえなくなったのである。

そこで本章第一節ではまず、初期の古から一九世紀までの時代について、どのような諸派の議論がなされてきたかを箇条書きで簡潔に見ることとしたい。かかる動向は思想史的にはダイナミックであり興味が尽きないものの、人々の実際の信仰生活におけるその位置づけは、時代の推移とともにすっかり変貌を遂げてしまった。

どの宗教であれ議論が盛んになると、学派が形成されるケースもあれば、共同体の政治指針となり党派的な動きを示すこともある。時の支配者間の闘争の具として特定の派を支持し、それに対抗するものを弾圧するようなパターンも見られた。

まず特記しておくのは、シーア派の誕生についてである。その全貌を示すことは大きなテーマであるが、ここではその要点のみを記す。シーア派が生まれたのは、イスラーム暦第一世代のころ、西暦七世紀のことであった。それは基本的には、正統カリフのアリー(没六六一年)の人望が高く、彼を強く支持する人たちがその死後も遺徳を偲んだことが出発点となった。アリーの信奉者たちは、イスラームの教えは彼に預言者ムハンマドより秘伝されて、それはアリーの直系しか伝えられないと主張し始めた。ちなみにアリーは、預言者ムハンマドの娘婿でもあった。そしてこの一派は、「アリーの党「シーア・アリー)」と呼ばれたところから、シーア派という名称が定着したのであった。

シーア派は当時のウマイヤ朝と対立して、アリーの息子フサインがウマイヤ朝により殺害されたのでますます両者の対立は深まった。そしてフセインが殺されたのは支持者である自分たちが十分に彼を守らなかったからだと悔やんで、これをきっかけに自身の身体を痛めつける毎年の恒例行事が始まった(アーシューラーといわれる時期に実施)。なおシーア派に従うと、アリーは初代のカリフであるということになる。それまでの三代のカリフの継承は、秘伝が伝授されていないので認められないということである。

アリーの後は、正式に秘伝を伝授された特定のイマームに従うとする基本思想により、シーア派内部でも分派活動を推し進めることとなった。一六世紀以来、イランで国の宗派として正式に採用されてきた一二代派は、指導者がその代でお隠れになったとする。正式のイマームが現れるまでは小指導者でつなぎ、いずれ現れる一三代目のイマームを待とうという救世主待望論の考え方である。五代派(イエメンのザイド派)や七代派(一一世紀エジプトのファーティマ朝や現在もインドにあるイスマーイール派)も同様の発想で、それぞれ五代目、あるいは七代目で秘儀を伝える指導者のイマームはお隠れになったと考えるのである。またレバノンやシリアに多いドルーズ派やアラウィー派もシーア派とされる。これら分派の多様性を跡づけてその系譜を追う作業は、一つの大きな研究分野となっているほどである。

イランがどうしてシーア派を採用したのかは、自らのアイデンティー確立の問題であり、背後にはアラブとの対抗意識が強い。アラブの方でも、従来アジャミーと称して、イラン人を何かと二流市民扱いする向きがあった。アジャミーとは「外国人の」といった意味でアラブではないということを一義的には意味する。

このような流れの中で、一〇世紀に至りスンナ派もようやく自らの名称(アフル・アルスンナ・ワアルジャマーア)を持つようになり、その簡略な呼称として「スンナ派」が誕生した。その名称の原語の意味は「慣行と総意の人々」ということで、コーフンに次いで重要な預言者伝承で示される預言者の慣行と関係識者の総意により物事を決定し進めるという意味である。それは合議制であるから、アリーであれ誰であれ、秘伝された教えはないと考えるところがポイントである。

こうしてイスラームの中に、主要な措抗関係が出来上がったことになる。その性格は、本来信仰箇条の理論的な根本問題をめぐるものではなく、誰を指導者にするかという問題であったのだが、時代の波にもてあそばれているうちに事態は硬直化してしまった。

当初は、両派の信徒間の結婚は日常茶飯事であったし、両派のモスクが隣同士に建てられることも珍しくはなかった。しかし一六世紀にサファビー朝が一二代派を正式に国教と定めてからは、抜き差しならない様相を帯びることとなった。そして西の王者としてオスマン帝国というスンナ派の旗手が確立されたのであった。

以下でスンナ派の主要な神学諸派をほぼ時系列に一望しておこう。ただしアシュアリー派とマートゥリーディー派以外の諸派は、異端と見なされるのが現状である。

 ・ジャフム派:イスラーム初期の分派で、ホラサーンの人、ジャフム・イブン・サフワーン(没七四五年)がその祖とされる。神がすべてを完全に定められているとする予定説とアッラーの属性の比喩的解釈を支持。

 ・カダル派:ウマイヤ朝末期、ダマスカスにあってジャフム派に対抗、人間の自由意志説と倫理的責任を唱える。下記のムウタズィラ派につながった。

 ・ムルジア派:ウマイヤ朝の七世紀に起こり、多神崇拝以外なら罪を犯しても信者であるとして行為と信仰を分けて捉えた。このような「罪ある信者」は地獄行きが必定とするハワーリジュ派やムウタズィラ派と異なり、穏健で中立的な思想で知られる。

 ・ハワーリジュ派:行為も信仰のうち、とした。ただしこの派はさらに一四もの小分派に分かれ、オマーンのイバード派もその一つである。反逆者とされたムアーウィアとの調停を受け入れようとした第四代カリフのアリーを殺害した。外見的な行為から不信者であると判断しうるとの立場であるので、武装闘争にも結び付きやすい傾向が指摘される。

 ・ムウタズィラ派一八世紀前半にバスラで起こった一派で、論理的思考を軸としてイスラーム史上最初の体系的な神学を提示した。行為と信仰に関しては前二者の中間を行ったが、クルアーンの創造説、預言者ムハンマドの執り成しを否定、正義はもともとあるのであって、アッラーは正義を識別するだけであること、アッラーの九九の属性の中で古い(カディーム)だけが本質であること、アッラーの擬人的解釈の否定、などがその主張点であった。中庸を行く理性派ともいえるが、極めて抽象性が高いのでアシュアリー派を中心とする一般のスンナ多数派の反発を呼ぶ結果となった。

 ・アシュアリー派一一〇世紀の人、アシュアリーが創始した。彼自身はハンバル法学派であったが、大半の同派神学者はシャーフィー法学派に属していた。ギリシア哲学の影響もありムウタズィラ派の思弁的傾向も引き継いで、この流派がセルジューク朝以来スンナ派神学を代表するに至った。クルアーンは創造されたものではない、全き予定説、多神崇拝以外で異端とはならない、アッラーには力、知識、視聴覚、顔、手、口があり、玉座におられる、預言者の執り成しはある、信仰は言葉と行為を含み信仰の増減がある、クルアーンとハディースに依拠すべし、などの主張をした。またこの世は偶有であり、変化の基体が実体であるといういわゆる原子論を展開した。抽象性を克服した反面、アッラーの直接性が減じられ、アッラーの愛への参入を説く神秘主義の溺漫を招いたとされる。

 ・マートゥリーディー派:前二者の中間を行く立場で、ハナフィー法学派。一〇世紀サマルカンドの神学者マートゥリーディーに始まるが、一一世紀、中央アジアからセルジューク朝の西遷に伴って東アラブ世界にも進出した。人間の自由意志説(ムウタズィラ派)、アッラーの属性の永遠性(アシュアリー派)を支持。信仰は心の問題として行為を除外する点はムルジア派に近い。アシュアリー派と並ぶ正統神学派と認められる。

なお後述するように現代では、イランのソルーシュらのように、信仰と神学を区別して信仰そのものの強化を目指すべきだとして、習慣や大勢順応でムスリムとなるのではなく、自由意志と個人的コミットメントで篤信となるほか、もっと内省的な信徒となるようなことを強調する人たちもいる。

預言者ムハンマドの姿

2016年09月17日 | 4.歴史
『イスラーム信仰概論』より 信仰体験論

信仰体験論は日々の信仰体験などを綴った内容であり、枠組みは自由で不定形だが、それだけ読者に訴える自然な力も強いものがある。随筆集のようなかたちをとることも少なくない。

まず初めにイスラームの原初的な体験の様子を訪ねてみたい。預言者ムハンマドに啓示が降りた七世紀初頭以来、当時のイスラームのあり方に根本的に手が加えられたものは何もない。むしろそのような逸脱を回避し、あるいは気がつけば是正したり軌道修正したりされてきた。それらの筆頭として聖者信仰や神秘主義といった思潮、あるいは墓参の慣行などの問題があった。

ではどのような心的風景がイスラームの原像として見えてくるのであろうか。

西暦六一〇年、啓示が始まるまで預言者ムハンマドは、特にラマダンの月になるとマッカ郊外にあるヒラー山に上り、そこの洞窟で一人黙想する日々を過ごすこととしていた。それは精神を浄化し、真実を見極めるためであった。その間、妻ハディージャが少しずつ食料を運んだとされる。八五〇メートルほどの標高だが、そこへの道のりは現在でも均されておらず、急勾配で岩肌が荒々しいかなり危険なものでもある。

ここに見られる求道者としての世俗欲から遠ざかる禁欲的な修行ぶりは、時間的には啓示の始まる前だからイスラーム以前のものということかもしれない。しかしそのような心的浄化と昂揚があったからこそ啓示があったとも理解される。そしてその禁欲的で純粋に道を求める者の心根が、イスラームにおける精神状況の原像として浮き彫りにされるのである。

この側面は名誉心を避けるといった心的な方面だけではなく、外的な、たとえば彼の衣服や食物の面でも控えめで最小限で事足れりとする態度などにも確かめられるのである。また預言者ムハンマドは高貴な家柄とされるクライシュ族出身であったが、そのような出自に関わる特権や待遇もかなぐり捨てていたということになる。

このときの様子はおよそ次のように特徴づけられる。

 節約、畏怖、帰依、禁欲、篤信などで彩られ、世俗から遠ざかり信仰を求めていた。

 宇宙の偉大さ、素晴らしさ、その規則正しいことなどを瞑想していた。柱がないまま誰が空を持ち上げたのか、そこに誰が光を創り、星をちりばめたのか。大地を広げたのは誰か、そこから水を出させて放牧できるようにしたのは誰か、また種々の雌雄の植物を出し、また形状やサイズや色彩や味わいを異にするいろいろの果実を創ったのは誰か、といったことを。

 預言者はまた考え続けた。人を一番素晴らしい形状に創られたのは誰か、聴覚や視覚を与え、筋力と活力、行動と思索を可能にしたのは誰か、と。

以上の求道者としての側面と重なりつつ改めて注目されるのは、預言者がいかに信心深い心境であったか、というイスラーム啓示開始後の信者としての精神状況である。

「本当にアッラーの使徒は、アッラーに終末の日を熱望する者、アッラーを多く唱念する者にとって、立派な模範であった。」(部族連合章三三:二一)

なかでも強調される特性は、過ちを悔いて主に悔悟することがしきりであったということであろう。一日の間に、彼は七〇回から一〇〇回は悔悟してアッラーの赦しを請うたとされる。それほどに通常ならぬ繊細な神経をもって自らを律していたともいえよう。あるいはそれほどに主の存在を常に間近に感得していたとも表現できる。

勤行の厳格な順守など彼が信者として際立った行動をとっていたことを間接的に示す証左としては、クルアーンに次のような言葉がある。その理解のためには、彼が悩んでいると見られるほどに、厳しく自分を律していたことを背景として想定する必要がある。それを前提に降ろされた啓示の言葉である。

「われがあなたにクルアーンを下したのは、あなたを悩ますためではない。主を畏れる者への、訓戒に外ならない。」(ター・ハー章二〇:二、三)

預言者ムハンマドに関しては、いうまでもなく歴史を通じて多量の文献が積み重ねられてきた。それらを通じて右に見た求道者や信者としての心根以外の側面についても、彼の精神状況として語られるものが少なくない。

その一つは預言者としてのそれである。例えば啓示を受ける際の精神状況については、多様な描写が伝えられている。落雷にあったような激震が走り、時に意識を失ったり、あるいは記憶喪失の症状も一時的には見られたようだ。

あるいは有名な「夜の旅「イスラーム」の物語にあるように、天馬に乗って一夜でマッカからエルサレムに飛び、そこで礼拝を上げてから天国に誘われ、暁までにはマッカに戻るといった出来事が伝えられている。天国ではアーダムほか先達の預言者に会うと同時に、アッラーより一日五回の礼拝の仕方を教示されたのであった。つまり当初は五〇回するようにとの命令であったのを、地上では五回まで軽減してもらったということだ。ただしアッラーは一回の礼拝の功徳を一〇倍に増加されたので、結局同じ量の恵みを授かることが確保されたとされる。

しかしながらこういった様々な状況は、預言者として啓示を受けるという、他の一般人にはありえない場面における模様である。したがってそれらの場面における精神状態について、ここでこれ以上叙述することは控えることとする。

最後に取り上げる別の側面は、預言者の人間としての偉大さである。まずクルアーンにいう。

 「本当にあなたは、崇高な特性を備えている。」(筆章六八:四)

彼の人格の高邁さや性格の素晴らしさを称賛する言葉も多く伝えられている。預言者伝承集にはそのような章が設けられている。そこでは預言者がいかに謙遜家であり慎み深いか、あるいは思いやりがあり人々に圧迫感を与えず逆に非常に親近感を持たれていたか、いかにハンサムで白肌で上品な容姿であったかなどが列挙されている。

これらは多分に人が尊敬すべき理想像であり、なかでも心は平静で、慈悲深く寛大であったといった彼の偉大な徳性については注目される。しかし本節では預言者の信仰上の心的世界に焦点を絞るのが趣旨であるので、その人格の全体を取り上げることはこれ以上はしない。

預言者の人格が及ぼしてきた影響の大きさについても、看過するわけにはいかない。今日でも日々の礼拝等を通じて、世界で最も称えられる人物は預言者ムハンマドであるということだが、それだけに彼の人格の世界的な影響力は、それこそ語り尽くされぬだけの質と分量である。それをここでは象徴的に比喩をもって語ることで済ませるしかないだろう。

彼の歴史を通じた影響力の大きさは、マディーナからマスジド建設が世界に広まったことが、象徴しているようでもある。元は預言者の質素な家の隣にあった空き地を礼拝所として利用したことが、その始まりであった。礼拝の方向(キブラ)を示すために小石を置いたり槍を立て掛けたりし、そのすぐ近くには三段からなる台がしつらえられていた。それが説教台(ミンバル)の始まりであった。そしてこれらがその後世界に広まる、マスジド建設の雛形を提供した。またそれが数百万人を収容する現在の壮大な預言者マスジドのキブラとミンバルの定位置となっているのだ。

預言者ムハンマドの影響力の大きさは筆舌に尽くしがたい分、このような世界へのマスジド建造発展の話で象徴させることとした。

スタバの「レバノン」マグ

2016年09月16日 | 7.生活
豊田市図書館の新刊書

 本が足りない! 哲学の本もない。

 豊田市図書館の新刊書に哲学が出てこない。月の真ん中なのに、漁って漁って、21冊です。以前の月末、月初よりも少ない。

ご機嫌伺いメールは有効?

 「調子はいかが」メールを送ったら、火曜日にお話しすることになった。ポーリングはした方がいいのかな。だけど、パートナーには怖くて送れない。

スタバの「レバノン」マグ

 駅前スタバに行ったら、バリスタがオクから「レバノン」のマグを持ってきた。前回忘れていったので、取っておいてくれたとのこと。

 「レバノン」マグでバリスタに自慢していたので、皆が知っていた。「レバノン」マグを持っている人は稀だから助かった。スタバで忘れ物をすると、すぐに松坂屋の管理になってしまって、よほどのことがないと帰ってこない。

 それにしても、なぜ、忘れていったのか。飲み終わって、洗って下さいと頼んだところまでは記憶に残っている。どうも、そのまま、受け取らずに帰ったとしか考えられない。

 マグで思い出したのが、15年前にこのスタバができた時の〝売り〟を思い出した。お客様のマグを預かってくれました。私はサンフランシスコのタウンマグを預けていた。あのインパクトは大きかった。帰属意識が発生します。スペースの問題で1年ぐらいで止めてしまった。

1.6未唯宇宙

 1.6未唯宇宙には、無限次元を含みます。無限次元空間を発見したときは嬉しかった。そのサブ空間を考えれば、無数に居場所があることになる。

未唯へ

 今日の乙女座との相性度は59です。水瓶座は94点で2位です。

豊田市図書館の21冊

2016年09月16日 | 6.本
220『チュルクを知るための61章』

302.25『インドから考える』子どもたちが微笑む世界へ

318『「政策思考力」入門編』地域を創る!

336『あなたが作る等身大のBCP』今のままでは命と会社を守れない!

421.3『シュレーディンガー方程式入門』今度こそ理解できる!

345.1『パナマ文書』

332.1『現代日本経済史年表1868~2015年』

319.53『死神の報復 上』レーガンとゴルバチョフの軍拡競争

319.53『死神の報復 下』

302.57『コスタリカを知るための60章』

336.3『ハーバードのリーダーシップ講義』「自分の殻」を打ち破る

751.4『ちょび子のミニチュアフードBook』キュートでおいしそうなミニチュアフードと小物全82点

463『ビジュアルでわかる細胞の世界』

727『模様と意味の本』明日誰かに話したくなる模様のはなし

701.4『美の起源』アートの行動生物学

460『生命の始まりを探して僕は生物学者になった』

687.7『飛行機ダイヤのしくみ』交通ブックス310

918『日本語のために』

368.6『もしもごはんテロにあったら、自分で自分の命を守る民間防衛』

386.9『366日記念日事典』

914.6『「新しい人」の方へ』

政策の複合化 地域のネットワーク化

2016年09月16日 | 5.その他
『「環境思考力」入門編』より 政策の環境変化 人間行動の変化 政策視点の質的変化 政策の複合化

政策の耐久力形成に関して視野や思考のネットワーク化とともに、第二に求められるのが地域そして地方自治体間の連携によるネットワーク構造の充実です。人口減少と超高齢化が進む中で、単独の市区町村・基礎自治体で完結する生活・経済活動は極めて限られるほか、公共サービスの面でも単独の基礎自治体だけで提供し持続性を担うには限界があり、複数の地方自治体が連携して担う仕組みの充実が将来に向けて不可欠となっています。

(従来からの地方自治体間連携)

 従来も地方自治体間の連携の仕組みは展開されてきました。具体的には、

  ① 任意協議会

  ② 一部事務組合

  ③ 広域連合

 等です。それぞれの特色は、次のとおりです。

  ①の任意協議会は、自主的かつ法的な拘束力を受けない任意の協議会・研究会を設置し、地方自治体間の参加・連携を行う形態であり、各地方自治体の単費事務事業(国・県等補助事業外)に適するほか、民間企業等多様な主体と連携する事務事業でも有効性を発揮してきました。

  ②の一部事務組合方式では、事務の一部を処理するため複数の地方自治体が共同組織を設置し構成自治体から独立した位置づけとなり、独自の議会・執行機関が設置されます。

  ③の広域連合は、事務を広域的に実施するため、複数の地方自治体が共同して設置する形態であり、直接公選・間接公選で独自の議会・執行機関が設置されます。一部事務組合との違いは、広域連合では、各構成自治体を経ずに国や都道府県等から直接権限移譲を受けることが可能であること、事務執行上必要な事項を構成自治体に勧告等ができること、必要な規約変更を構成地方自治体に要請できることがあげられます。

  さらに、圏域を視野に入れた政策としては、④定住自立圏構想や⑤地方中枢拠点都市圏の形成があります。

  ④の定住自立圏構想は、圏域全体として必要な生活機能等を確保するために設けられた連携制度であり、⑤の地方中枢拠点都市圏の形成は、「過疎集落等の維持・活性化」「定住自立圏構想の推進」を越えてさらに政令指定都市や新中核市等を(ブにして、経済成長の牽引、都市機能の集積、生活の向上を目指し連携協定の導入、先行モデルに対する交付税等支援措置によって推進する制度となっています。

 このように、従来も地方自治体間での連携を推進する努力が展開されてきました。

(政策連担)

 しかし、今後求められる地方自治体間連携の仕組みは、個別事業だけでなく政策を圏域で形成し実施する「政策連携」の本格化です。その上で、構成する各地方自治体がそれぞれ役割を分担しつつ結びつく「連担」のネットワークを構成することも重要となります。

 各基礎自治体が重複した事業や政策を展開するのではなく、医療、福祉、安全・安心等核となる役割をそれぞれ分け合い、相互に担い圏域として結びつく仕組みです。この圏域を中心に地産・地消的な経済的循環構図を厚くすることで、グローバル化に対する地域の耐久力を充実させます。

(内部事務の共同設置と事務の代替執行)

 同時に、地方自治を支える行政機関の職員構成のピラミッドをいかに将来に向けて安定的に構成するかも重要となります。単独の地方自治体ごとにフルセットで業務を担う職員構成を確保することは、生産年齢人口が急速に減少する中で都市部も含めて不可能となっています。二〇一一年の地方自治法改正で導入された「内部事務の共同設置」は、特別地方公共団体の設置手続の煩雑さと事務の委託におけるサービス提供方法の不安定性等の課題を解消するため、機関等の共同設置の制度拡充により実現した仕組みです。

 また、事務の委託による執行権限の委譲を伴わない状態で、事務の管理執行を他の地方自治体に委ねることができる「事務の代替執行」という制度も、二〇一四年の地方自治法改正で導入されています。同種・類似のサービスを実施している分野の場合、行政機関の人的資源の制約の面からも連携する構図が大きな選択肢となります。

(議会間連携)

 連携・連担の際にさらに重要となるのは、議会間連携です。議会は、単に行政をチェックするだけの機関ではなく、地域の民主主義を育てるとともに政策を形成し進化させる役割をも本来は担っています。このため、地方自治体の行政区域に止まるのではなく、住民の経済社会活動の循環に目を配り、複数の地方自治体をネットワーク化した圏域での政策展開の視点を議会も重視する必要があります。

 たとえば、自治財政権は、地方自治の根幹を支える原則です。地方自治体の財政は、自らの地方自治体の住民からの税収で賄い、その効果は住民に帰着することを原則とします。こうした原則を形式的に貫けば、他の地方自治体との連携で他の地方自治体にも効果が直接帰着する財政支出を行うことには議論が生まれます。しかし、行政区画で議論することが有効な政策領域と、行政区画で議論せずより広い「圏域」といえる視野で議論すべき政策領域を分ける必要があります。現代の経済社会活動は、単独の地方自治体の行政区画で完結することはなく、所得循環の範囲も単独の行政区画を越える範囲でほとんどが形成されています。形式的な行政区画に限定することなく、最終的な政策効果が自らの地方自治体の住民に帰着することが検証できるのであれば、広い視野から政策を思考する姿勢が求められます。圏域としての所得循環構図の形成に向けた視点となります。

(コミュニティによる補完)

 なお、政策は、「市場の失敗の補完」という側面を持ちます。資本主義の市場は、景気変動を伴い、競争関係の中で所得格差なども拡大させる側面を持っています。こうした市場の失敗を政策が補う機能を持っています。一方で、政策も既得権の硬直化や行財政の肥大化、行政コストの増大、行政経営の非効率化などの失敗をもたらします。こうした政策の失敗を、民間の視点や市場機能が補完する役割を果たします。政策と市場は、相互に失敗の要素を持ち、相互に補完する関係となっています。

 ただし、災害時等で認識されたように、一時的でも、政策・市場ともに機能せず失敗状態に陥ることがあります。そうしたときに、地方自治体を支えるのは地域のコミュニティであり、コミュニティのネットワークは最終的なセイフティ・ネットといえます。

 「覗き見コミュニケーション」という指摘があります。もちろん、個人の秘密や私生活を悪意で覗き見することではなく、ゴミ出しや郵便箱、生垣など日常生活で普通に目にする状態から隣人を意識することでコミュニティを通じたセイフティ・ネットを形成することです。日常時でも政治や市場が機能しづらい部分でコミュニティが果たしている機能といえます。

 なお、コミュニティとは本来は「同志の集まり」を意味します。このため地域のコミュニティだけでなく、趣味のコミュニティ、仕事のコミュニティなど様々な形態が存在します。自治会・町会等の地域コミュニティが超高齢化などで空洞化する中で、様々な形態のコミュニティが多層的に形成されることが重要となります。

(アソシエーション)

 防災・子育てなどテーマを基軸として活動するアソシエーションも、同志の集まりたるコミュニティの一類型であり、NPO活動の高まりにより重要性を増しています。アソシエーションで顕著に発生しがちな課題として、他のアソシエーションと情報が連携されず、自らの実施事業の位置づけを認識していないことがあります。この場合、他のアソシエーションの実施する事業との重複や公共サービスの空白を生み出すことにつながります。こうした点を克服するには、地方自治体が地域コミュニティやアソシエーションが担う公共サービスを特定し、空白が生じる公共サービスについて、どのように対応するかを常にモニタリングすることが求められています。

もしチャーチルがいなかったら

2016年09月16日 | 4.歴史
『チャーチル・ファクター』より

私は歴史における「もし」を問うことはあまり好きではない。いわゆる因果関係の流れが完全に明確ではないからだ。出来事はビリヤードのボールのようには起きない。ボールの一つが当たり前のように次のボールを動かすわけではない。ビリヤードの球でさえ思わぬ動きをするものだ。

山ほどある要素のなかから一つの木片を抜き取ってみれば、残りがどのように崩れ落ちるかはけっしてわからない。しかし、歴史上のすべての「もし」のなかでも、この問いは最も関心の高いものだろう。今日の最高の歴史家たちがこの思考実験を試みてきたが、圧倒的に多くが同じ結論に達している。もし一九四〇年にイギリスがドイツに対して抵抗を止めていたらどうなっていたか。結論は、欧州に取り返しがつかない災難が降りかかった、である。

当時、ヒトラーの勝利はほぼ確実だった。このため、もしイギリスが戦うことを諦めていたら、ドイツは対ロシアのバルバロッサ作戦を実際の一九四一年六月よりもはるかに早い段階で実行していただろう。地中海や北アフリカの砂漠でいまいましいイギリス軍がヒトラーの邪魔をしたり、兵や武器を取り上げたりしていなければ、ヒトラーはその敵意のすべてをロシアに向けることができたはずだ。独ソ不可侵条約に合意したときから密かに望んでいたように。そしてロシアでの軍事行動が寒さで凍った地獄と化す前に、ヒトラーは対ロシア戦をほぼ確実に成功させていただろう。実際にドイツ軍の進撃は驚くべき成果をもたらした。何百万平方マイルもの土地、一〇〇万人単位のロシア兵を制圧し、スターリングラードを占領し、モスクワの地下鉄の周辺駅まで到達した。もしドイツ軍がモスクワを占領し、共産主義体制を排除し、スターリンを再起不能なまでに叩きのめしていたらと想像してみてほしい(実際、ドイツの戦車が国境を越えた頃から、スターリンはすでに神経衰弱になっていた)。

歴史家たちは、ロシアではおそらく集団農場化によって割を食った中流階級の反対などにあって共産主義政権の独裁政治が急速に内部崩壊するだろうと予想した。そして、そこには親ナチスの傀儡政権が据えつけられるだろうと。もし本当にそうなっていたら、どんな世界になっていただろうか。

ヒトラーとナチス親衛隊指導者ハインワヒ・ヒムラーら邪悪な仲間たちは、大西洋からウラル山脈までの巨大なキャンバスを使って、ナチスドイツのおぞましい幻想を描くことができただろう。イギリス以外、それを止める存在はいなかった。ドイツに干渉する国もなく、彼らを公然と非難するほどの道徳的資質を持つ指導者もいなかった。

アメリカでは孤立主義者が勝利していただろう。もしイギリスが自国民の命を危険にさらさないのであれば、なぜアメリカがそうする必要があるのか? ベルリンでは、建築家のアルベルトシュペーアが「ゲルマニア」と呼ばれる新たな世界の首都をつくるという異常な計画を実行に移していただろう。

この都市計画の中心は「国民ホータ」になるはずであった。古代ローマの建築家アグワッパによるパンテオンの花尚岩版である。常軌を逸したデザインだ。あまりにも巨大なため、ロンドンにあるセント・ポータ大聖堂のドームをその天窓からそっくり入れられるほどであった。一〇万人が座れるように計画されていたが、祈りや叫びの声があまりにも大きいため、建築物の中で雨が発生するだろうと想定していた。集まった人々の温かい息が立ちのぼって凝結し、熱心なファシストの群集の頭部に水滴となって落ちてくるだろうと。

この悪夢のような建築物は巨大な鷲を戴いていた。このため、地上二九〇メートルの高さの、宇宙サイズのプロイセン風ヘルメットのように見えた。ロンドンのサザックにある高層ビル「シャード」に匹敵する高さである。その周りにはほかにもドイツの圧倒的強さを表す巨大なシンボルがあった。アーチはパワの凱旋門の二倍の大きさで、巨大な鉄道の駅から二階建ての列車が時速一九〇キロで疾走するはずであった。列車はドイツ人の入植者をカスピ海やウラル山脈、そのほかの東欧の地域に運ぶものである。ただしこの東欧地域からスラブ人の「下等人間」は追放されることになっていた。

スイスを除く(秘密の侵攻計画はあったものの)すべての欧州大陸はドイツ帝国の一部となるか、ファシスト国家として隷属していただろう。事実に反する推論をする多くの小説家が指摘したように、この地域を暗黒の欧州連合に転換するためのさまざまな計画が存在していた。

一九四二年、ドイツ帝国の経済大臣兼帝国銀行総裁グァルター・フンクは、欧州共通市場の必要性を提案する論文を書いた。単一通貨、中央銀行、共通の農業政策など、今日の私たちがどこかで聞いたことがあるような案を出した。リッペントロップ外相も同様の計画を提案した。ただしヒトラーは、ドイツ以外のメンバー国に対して生ぬるすぎるという理由でこの提案に反対した。

ゲシュタポが支配するナチス版EUでは、当局は自分たちの忌まわしい人種差別的イデオロギーを思う存分追求できただろう。ナチスは一九三〇年代に特定の人種の迫害活動を始めた。チャーチルが権力の座に就き、ドイツと戦い続けるという決定がなされるはるか以前に、ナチスはユダヤ人とポーランド人を強制移送していたのである。

鉄道の各拠点の近くにはこうした人々の「国外追放」の序章としてゲットーがつくられていた。ナチス親衛隊中佐アドルフ・アイヒマンがのちに認めたところによれば、国外追放とは粛清を意味していた。誰もその行動を検証せず、大部分が批判もしないままに、ナチスはユダヤ人、ジプシー、同性愛者、精神及び身体障害者など自分たちの気に入らない人々を大量に殺害する作業をこなしていただろう。そして、想像を絶するような恐ろしい、現実離れした、非人間的で、神をも恐れぬような人体実験を繰り広げていただろう。一九四〇年の夏、チャーチルはヨーロッパの状況についてこのように語った。ヨーロッパは「ゆがんだ科学の光によってさらに邪悪で、さらに終わりの見えない新たな暗黒時代に陥りつつある」。彼はまったく正しかった。

以上が実現していた可能性が最も高い、もう一つの世界だ。しかし、ヒトラーがロシアで成功せずスターリンが攻撃を返していたら、事態はこれよりましだっただろうか?

そのシナリオの場合、私たちは二つの全体主義によって分裂した欧州を目にしていただろう。一方はKGBか旧束ドイツの国家保安省による恐怖政治。もう一つは秘密警察ゲシュタポの支配する世界だ。どこにいようが国民は夜中のドアのノック、恣意的な逮捕、強制収容所に怯えている。抗議する道はない。