『チュルクを知るための61章』より
中央ユーラシアを西進した遊牧騎馬民のヨーロッパ侵入としては、4世紀から5世紀にかけてゲルマン大移動の契機も作ったフン族のそれがよく知られている。その後も、テュルクに属するブルガルが5世紀にビザンツ帝国領を窺い、6世紀にはユスティニアヌス一世時代のコンスタンティノープルを包囲した。また7世紀にやはりテュルク系のハザルがヴォルガ下流域から北コーカサスに国家をたてたことも知られている。さら11世紀になるとオグズが黒海北岸からバルカン半島へ入ってビザンツ領内を寇掠した。このように、史上多くのテュルクが黒海北岸を通ってヨーロッパヘ入った流れを受ける形で、11世紀後半以降、イスラム化したセルジューク朝がイランから黒海南岸のアナトリアヘ入り、さらにオスマン朝が14世紀にバルカンヘの進出を始めたのである。
オスマン朝の第十代スルタン、スレイマン一世(在位1520~66)は即位の翌年にベオグラードを攻略してバルカン高地からハンガリー平原へ下る関門を押さえると、良質の小麦と馬とを産し、トランシルヴァニアやオーストリアヘもつながるこの平原を支配すべく、1526年にハンガリー遠征軍を起こして国王を敗死させ、その首都ブダを占領した。スルタンに服従を誓ったハンガリー諸侯は後継国王にトランシルヴァニア侯サポヤイ・ヤーノシュを選んだが、ハプスブルク家のオーストリア大公フェルディナントを頼る諸侯もおり、まもなくサポヤイはフェルディナントによってブダを逐われた。サポヤイの支援要請を受けて、スレイマン一世は1529年5月に再度ハンガリーヘ遠征し、途中、サポヤイを臣従させた上であらためて王位に就けると、ブダを攻めてこれを陥落させた。そしてさらに、敵対勢力の背後にいるハプスブルクを討つべく、ウィーンヘ向かったのである。
スレイマンの動きを見てフェルディナントはウィーンの後方へ待避し、一方その兄カール五世もフランス王フランソワ一世対策で東方を支援するゆとりを持っていなかった。ウィーンの危機は深刻だったが、この年の悪天候がウィーンに幸いした。大雨と洪水とに悩まされてブダ入城までにも2か月を費やしたオスマン軍は、その後も泥淳に行軍を妨げられ、ようやくウィーン城下へ到着した9月末近い日も大雨だったと記録されている。城壁砲撃用に準備した巨大砲も行軍の妨げになるとして途中放擲してきたオスマン軍に対し、ウィーン側は十分な準備期間を得て、人員、武器弾薬の調達を済ませ、城壁の補修も終えていた。こうしたなか、10月1日から攻撃を始めたオスマン軍は、城壁を突破することができないまま降雪を迎え、2週間あまりで撤退を余儀なくされたのである。
陥落を免れたとはいえ、神聖ローマ皇帝の本拠地が包囲されたことはキリスト教世界に大きな衝撃を与えた。だが、その衝撃の結果、「トルコの脅威」を目の当たりにしたヨーロッパがただ怯えたりあるいは一致協力してその脅威にあたろうとする機運を生み出したりしたわけではなかった。まず、即位以来カール五世と対立し、1525年にはフランソワー世自身がハプスブルク軍に敗れてスペインで捕虜になるという危機を迎えていたフランスが、ハプスブルクに対抗し得る勢力を糾合しようとしてスレイマン一世に接近を図っていた。そしてウィーン包囲後の1534年から35年にかけ、両国の使節が相互に双方の首都を訪問し合い、同盟関係の確認がなされるに至った。なおこの間、1532年にはスレイマンは3回目のハンガリー遠征を行い、その後オーストリアヘ入ってウィーンの南を進んでグラーツにまで進軍していた。フランソワー世は、こうした強大なオスマン軍の存在を背景に、ハプスブルクの圧力を回避することに成功し、やがて国内の集権化を進めて近代的主権国家の基礎を確立することになるのである。
同じようにカトリック皇帝カール五世と争う形で勢力の確立を目指していたドイツの新教諸侯にとってもまた、オスマン帝国の存在は重要だった。1521年に教皇から破門されていたルターは、オスマン軍の侵攻をローマの腐敗堕落に対する神罰と認識し、「トルコ人」と戦うことに反対するほどであったことが知られている。1526年にスレイマン一世によってハンガリー遠征軍が起こされると、新教諸侯はハプスブルク兄弟(カール五世、フェルディナント)からの支援要請を受けて、シュパイアーにおける帝国議会で新教諸侯ならびに帝国都市が教義を選ぶ自由を獲得した。さらに1532年のオスマン軍による第三回ハンガリー遠征に際してはニュルンベルクの宗教和議締結を引き出すなど、1555年にルター派を公式に容認させるアウクスブルク宗教和議に至る過程で、皇帝の背後を脅かすオスマン帝国の存在は。ドイツ新教諸侯にとって常に大きな意味を持っていた。
やはりハプスブルクの支配を受けていたネーデルラントのカンルヴァン派(ユグノ-)にとっても、オスマン帝国の存在は重要だった。カール五世から同地を生前に譲り受けた、その長子であるスペイン王フェリペニ世は、熱烈なカトリック戦士として新教の弾圧を強行していたが、同時にフェリペは地中海においてオスマン海軍に対する大規模な挑戦を始めていた。この活動がネーデルラント独立運動に対するスペインの圧力を弱めることを理解した運動の指導者オランイェ公ウィレムは、イスタンブルヘ使節を送ってスペインに対するオスマン海軍の攻撃継続を要請したのである。
このように、ハプスブルク家の支配ないし脅威を脱して、近代主権国家へと連なる権力の確立を目指した諸勢力にとって、オスマン帝国の後ろ盾は大きな意味を持っていたが、ハプスブルクの王たちもまた、イスラームあるいはトルコの脅威からヨーロッパキリスト教世界を防衛する「神聖な任務」を遂行するものとして自らを表象することで、その支配の強化を図ることができた。とくにボヘミアにおいてはフェルディナントが「トルコの脅威」を掲げつつ新教派の都市を抑圧したり、銀山採掘権を手中に収めたりしながら、その支配を強めていったのである。
こうしてヨーロッパ諸国が変容を遂げる上でオスマン帝国の存在は小さからぬ役割を果たしたが、スレイマンの遠征から1世紀半後の1683年にオスマン軍が二度目のウィーン包囲に失敗して敗走すると、オーストリア、ポーランド、ヴェネツィアが「神聖同盟」を結んで攻勢に転じ、オスマン領を奪取し始める。そしてこの攻勢は、19世紀になると「東方問題」を生み出すことになるのである。
中央ユーラシアを西進した遊牧騎馬民のヨーロッパ侵入としては、4世紀から5世紀にかけてゲルマン大移動の契機も作ったフン族のそれがよく知られている。その後も、テュルクに属するブルガルが5世紀にビザンツ帝国領を窺い、6世紀にはユスティニアヌス一世時代のコンスタンティノープルを包囲した。また7世紀にやはりテュルク系のハザルがヴォルガ下流域から北コーカサスに国家をたてたことも知られている。さら11世紀になるとオグズが黒海北岸からバルカン半島へ入ってビザンツ領内を寇掠した。このように、史上多くのテュルクが黒海北岸を通ってヨーロッパヘ入った流れを受ける形で、11世紀後半以降、イスラム化したセルジューク朝がイランから黒海南岸のアナトリアヘ入り、さらにオスマン朝が14世紀にバルカンヘの進出を始めたのである。
オスマン朝の第十代スルタン、スレイマン一世(在位1520~66)は即位の翌年にベオグラードを攻略してバルカン高地からハンガリー平原へ下る関門を押さえると、良質の小麦と馬とを産し、トランシルヴァニアやオーストリアヘもつながるこの平原を支配すべく、1526年にハンガリー遠征軍を起こして国王を敗死させ、その首都ブダを占領した。スルタンに服従を誓ったハンガリー諸侯は後継国王にトランシルヴァニア侯サポヤイ・ヤーノシュを選んだが、ハプスブルク家のオーストリア大公フェルディナントを頼る諸侯もおり、まもなくサポヤイはフェルディナントによってブダを逐われた。サポヤイの支援要請を受けて、スレイマン一世は1529年5月に再度ハンガリーヘ遠征し、途中、サポヤイを臣従させた上であらためて王位に就けると、ブダを攻めてこれを陥落させた。そしてさらに、敵対勢力の背後にいるハプスブルクを討つべく、ウィーンヘ向かったのである。
スレイマンの動きを見てフェルディナントはウィーンの後方へ待避し、一方その兄カール五世もフランス王フランソワ一世対策で東方を支援するゆとりを持っていなかった。ウィーンの危機は深刻だったが、この年の悪天候がウィーンに幸いした。大雨と洪水とに悩まされてブダ入城までにも2か月を費やしたオスマン軍は、その後も泥淳に行軍を妨げられ、ようやくウィーン城下へ到着した9月末近い日も大雨だったと記録されている。城壁砲撃用に準備した巨大砲も行軍の妨げになるとして途中放擲してきたオスマン軍に対し、ウィーン側は十分な準備期間を得て、人員、武器弾薬の調達を済ませ、城壁の補修も終えていた。こうしたなか、10月1日から攻撃を始めたオスマン軍は、城壁を突破することができないまま降雪を迎え、2週間あまりで撤退を余儀なくされたのである。
陥落を免れたとはいえ、神聖ローマ皇帝の本拠地が包囲されたことはキリスト教世界に大きな衝撃を与えた。だが、その衝撃の結果、「トルコの脅威」を目の当たりにしたヨーロッパがただ怯えたりあるいは一致協力してその脅威にあたろうとする機運を生み出したりしたわけではなかった。まず、即位以来カール五世と対立し、1525年にはフランソワー世自身がハプスブルク軍に敗れてスペインで捕虜になるという危機を迎えていたフランスが、ハプスブルクに対抗し得る勢力を糾合しようとしてスレイマン一世に接近を図っていた。そしてウィーン包囲後の1534年から35年にかけ、両国の使節が相互に双方の首都を訪問し合い、同盟関係の確認がなされるに至った。なおこの間、1532年にはスレイマンは3回目のハンガリー遠征を行い、その後オーストリアヘ入ってウィーンの南を進んでグラーツにまで進軍していた。フランソワー世は、こうした強大なオスマン軍の存在を背景に、ハプスブルクの圧力を回避することに成功し、やがて国内の集権化を進めて近代的主権国家の基礎を確立することになるのである。
同じようにカトリック皇帝カール五世と争う形で勢力の確立を目指していたドイツの新教諸侯にとってもまた、オスマン帝国の存在は重要だった。1521年に教皇から破門されていたルターは、オスマン軍の侵攻をローマの腐敗堕落に対する神罰と認識し、「トルコ人」と戦うことに反対するほどであったことが知られている。1526年にスレイマン一世によってハンガリー遠征軍が起こされると、新教諸侯はハプスブルク兄弟(カール五世、フェルディナント)からの支援要請を受けて、シュパイアーにおける帝国議会で新教諸侯ならびに帝国都市が教義を選ぶ自由を獲得した。さらに1532年のオスマン軍による第三回ハンガリー遠征に際してはニュルンベルクの宗教和議締結を引き出すなど、1555年にルター派を公式に容認させるアウクスブルク宗教和議に至る過程で、皇帝の背後を脅かすオスマン帝国の存在は。ドイツ新教諸侯にとって常に大きな意味を持っていた。
やはりハプスブルクの支配を受けていたネーデルラントのカンルヴァン派(ユグノ-)にとっても、オスマン帝国の存在は重要だった。カール五世から同地を生前に譲り受けた、その長子であるスペイン王フェリペニ世は、熱烈なカトリック戦士として新教の弾圧を強行していたが、同時にフェリペは地中海においてオスマン海軍に対する大規模な挑戦を始めていた。この活動がネーデルラント独立運動に対するスペインの圧力を弱めることを理解した運動の指導者オランイェ公ウィレムは、イスタンブルヘ使節を送ってスペインに対するオスマン海軍の攻撃継続を要請したのである。
このように、ハプスブルク家の支配ないし脅威を脱して、近代主権国家へと連なる権力の確立を目指した諸勢力にとって、オスマン帝国の後ろ盾は大きな意味を持っていたが、ハプスブルクの王たちもまた、イスラームあるいはトルコの脅威からヨーロッパキリスト教世界を防衛する「神聖な任務」を遂行するものとして自らを表象することで、その支配の強化を図ることができた。とくにボヘミアにおいてはフェルディナントが「トルコの脅威」を掲げつつ新教派の都市を抑圧したり、銀山採掘権を手中に収めたりしながら、その支配を強めていったのである。
こうしてヨーロッパ諸国が変容を遂げる上でオスマン帝国の存在は小さからぬ役割を果たしたが、スレイマンの遠征から1世紀半後の1683年にオスマン軍が二度目のウィーン包囲に失敗して敗走すると、オーストリア、ポーランド、ヴェネツィアが「神聖同盟」を結んで攻勢に転じ、オスマン領を奪取し始める。そしてこの攻勢は、19世紀になると「東方問題」を生み出すことになるのである。