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豊田市図書館の20冊

913.6『800年後に会いに行く』

904『8歳から80歳までの世界文学入門』対話で学ぶ<世界文学>連続講義

451.85『地球温暖化は解決できるのか』パリ協定から未来へ! ⇒ 今更のテーマ。

337.21『通貨の日本史』無文銀銭、富本銭から電子マネーまで

332.1『人口と日本経済』長寿、イノベーション、経済成長

332.1『人びとの戦後経済秘史』

210.1『10分で読む 日本の歴史』

810.4『「ほぼほぼ」「いまいま」?!』クイズ、あかしな日本語

788.5『競馬の世界史』サラブレッド誕生から21世紀の凱旋門賞まで

782.3『トレイルトリップ ガイドブック』ファストパッキング入門

375.32『ここまで変わった 日本史教科書』

383.8『お菓子の由来物語』

625.7『ナッツの歴史』「食」の図書館

391.6『サイバー戦争論』ナショナルセキュリティの現在

210.33『飛鳥 むかしむかし』飛鳥誕生編 ⇒ 斎藤飛鳥にかませて

748『世界は広く、美しい 地球をつなぐ色<白>』

748『世界は広く、美しい 地球をつなぐ色<緑>』

931.6『キーツ特集』

493.72『はじめての森田療法』

686.21『ローカル鉄道という希望』新しい地域再生、はじまる
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Iさんからブラック合格メール

中野美代子五〇歳

 中野さん、誕生日ですね。丙午だから50年生きて、どうですか。生きている内に逢いたい。逢える時まで、少し真面目に生きてみようかなと想っています!

 宛先のない誕生カード!を見られることのないFacebookに上げた。

フィンランド民謡が炊飯器に化けた

 生田の生き方は面白い。乃木坂46時間tvでフィンランド民謡を歌ったのが2月21日。それで好きになったけど、その民謡をCMに以前から使っている象印から炊飯器をもらってしまった。学習機能付きだそうです。

 イエバンポルカを耳コピした時点では、CMに使われているとかは知らなかったはず。回り回って、象印に声が届き、炊飯器が送られた。関係づけをする人です。

99年9月9日から17年

 今日は9月9日。17年前の99年9月9日の4つが揃った日にファンカーゴが出た。素晴らしいコンセプトな車でした。奥さんの了解を得て、購入した。それ以来、まともな車は出てこない。同じ、99年9月9日にモーニング娘。にゴマキが加わり、「LOVEマシーン」が登場。中学生で金髪だった。日本の景気を押し上げた。

豊田市図書館の新刊書はプア

 精々集めて20冊止まり。見るからに軽い本ばかり。フェースブックで2年前に借りた本の映像が出てくるけど、それに比べて、本当にプア。冊数だけ揃えているだけ。

Iさんからブラック合格メール

 Iさんがブラックに合格。★★★になったという報告メールあり。去年、不合格になったことが遠因で、メールでのスケジュール確認を止めてしまった。

 月曜日にそっと、様子を見に行こうと思っている。これも、返答の中には入れることはできなかった。月曜に居るかどうかを確認しようと思ったが、やめました

 映画「超特急参勤交代」にテレビで確認したところ、茨城弁の字幕が表示されていた。茨城弁は外国語扱いなので、「「超特急参勤交代リターン」を月曜日に見に行こう。Iさんが居なかった時に、これを観に来たと言えるから。
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人生観と世界観

『人間と実存』より ⇒ 池田晶子の概念「宇宙の旅人」で私の感覚は変わった。他者の存在を信じていない。

人生観というものと世界観というものとは離すことはできない。殊に現代のように人間学とか実存哲学とかいうようなものが哲学の中心問題であることがはっきり意識されてくると、人生観と世界観とを区別することさえも無理だと考えられてくる。人生観に根ざさない世界観はあり得ないし、世界観の形を取らない人生観も実際としてはないであろう。

世界観の観ずる問題は結局は形而上学の攻究する問題にほかならない。形而上学の根本問題は昔から霊魂不滅に関するもの、意志自由に関するもの、神に関するものの三つに要約されている。この根本問題は今日でも必ずしも変ってはいない。もし霊魂不滅、意志自由、神などの言葉が古めかしい感じがするならば、その代りに死、実存性、共同的世界内存在というょうな言葉を用いて見ればいい。そうすれば現代的な匂いがする。しかし問題そのものは昔とあまり変ってはいない。形而上学、従って世界観の焦点をなすこの三つの問題は同時にまた人生観の問題でもある。不滅とか自由とか神とかいう問題はみな人生というものを中心に置いてそこから考えた問題である。人生の全体性すなわち人の一生ということを考えると、霊魂不滅とか死とかいうことが問題になってくる。人生の原本性すなわち人の本当の生き方ということを捉えようとすると、自由とか実存性とかいうことが問題になってくる。人生の相対性、従って甲の人生と乙の人生と丙の人生の相互関係ということに目を附けると、絶対的統一としての神とか共同的世界内存在とかいうことが問題になってくる。

およそ人生観を述べようとすると、この三つの問題に対してどう観じているかを述べなければならないことになる。それは昔から幾度となく繰返して考え抜かれていることであるから、今更なにか新味を加えようなどということは企てる方が間違っている。昔から在る様々の思想がどういう風に有機的に内的に結合し醗酵してその個人の血となり肉となっているかというところに人生観の個性が認められなくてはならない。私の観方を簡単に述べてみよう。

霊魂不滅の問題を私はどう観ているか。現代人がこんなことを問題とするのは可笑しいという人があるかも知れないが私はそうは考えない。人間の一生は死によって無に帰してしまうものか、または何等かの形で存続するものか、いずれであるかということは真面目に考えてみて差支ない問題だと思う。だが私自身には来世存在の理由として普通に挙げられるものはIつとして首肯することはできない。その限りに於て私自身は来世の存在を信じない。来世が在るとすれば人間は二度生きることになる。現世が二つあるようなものである。そうすると現世の一回性とか尊厳とかいうものが壊されてくる。人生は絶えず死に脅されている果無い脆いものである。しかしその果無さ脆さに人生そのものの強さがある。人間がただ一回だけしか生きることが出来ないで、我々の一歩一歩が我々自身の徹底的否定である死に向って運ばれているというところに、人生の有つすべての光沢や強さが懸っているのである。同じようなものが二つあるという余計なことを許さないならば、来世はないという論理になるであろう。朝に道を聞けば夕に死すとも可なりというような光沢と強味のある人生は一回だけ生きられるものでなくてはならない。我々が死なずに永久に生きているものとしたら、どんなに冗漫で退屈なものであろう。死は全体性としての人生に欠くべからざる緊張を与えている。死が何時とも知らず控えているということが人生を生甲斐あるものであらせている。

人間は死の自然の到来を待たないでみずから生よりも死を択ぶこともある。だが、もし死後に何等かの形で生の存続があるとしたなら自殺は無意味なものとなってしまう。自暴自棄の自殺でさえも、責任逃避の自殺でさえも、自殺という現象は否むべからざる厳粛性を担っている。その厳粛性は生か死かという選択が肯定か否定かの選択として本当に成立することを予想している。死後にまたしても生があるというのでは生か死か肯定か否定かの選択ではないことになってしまう。私には自殺の後に更に来世を押付けるということは自殺行為に対して何か冒涜ででもあるかのょうに感じられる。情死者が死の彼岸に楽しい来世を描くというような場合があるとしても、それは全く無邪気な妄想に過ぎないであろう。情死によって人生に対する何等かの反感を力強く明示する事実そのものの中に、情死の目的は完全に達せられている。また何者の介在をも許さずただ二つの心が抱き合って死ぬという瞬間そのものの中に、永遠の天国がある。

賞罰の観念によって来世の存在を要請しようとする人があるかも知れない。またそれによって人生に一層の緊張を加えようと企てるかも知れない。しかし善い行為はそれ自身が賞であり、悪い行為はそれ自身が罰である。善い行為が来世に於て更に賞せられ、悪い行為が来世に於て更に罰せられるというのは二重に同じことを繰返すだけで私には余計なこととしか思えない。また賞罰を背景に据えて緊張の度を増そうとするのは寧ろ卑しい考え方である。

魂の発展という観念に基づいて来世を展望の中に置こうとする人があるかも知れない。しかしこのことは人類全体の発展ということと相容れないように私には考えられる。個人の魂がどこまでも発展して行くものならば、人間は子孫を造る必要はない。人間が子孫を造るのは、個人の魂の発展の中絶と頓挫とを、その中絶し頓挫した箇所に於て取上げて更に発展を継続させて行くためである。不滅という意味は子孫による価値の継承が不滅であるということより以外には考えられない。

普通の意味の来世を信じる位ならば、私はむしろ厳密な同一事の永劫回帰を信じたい。なぜならば一生が厳密に同一な内容をもって無限回繰返されるということは、一生が一回より生きられないということとつまりは同じことである。厳密な同一事の永劫回帰の思想は現世という実像を無数の鏡に写してその映像を過去と未来に配列したようなものである。映像を無数に造ったからとて実像の一回性や尊厳をいささかも傷けはしない。

人生は無に取囲まれている。死は生の徹底的終局である。死の積極的意義を飽迄も悉知している人間でも、それ故に、時としては、歳月の推移に無限の哀愁を感じる。そして魂は死の鐘を聴くとき、自己の創造した価値が、たとえ僅少でも、不滅であるという諦念を懐いて、自己を無の淵へ突き落すであろう。

自由の問題を私はどう観ているか。自由ということは問題にならないほど確かなことのように私には考えられる。自然科学が決定論を唱えて意志自由に累を及ぼした時代もあった。しかし現代の自然科学的認識論はその非を悟っている。殊に量子論の進展につれて必然性の概念は蓋然性の概念に場所を譲り、因果的決定の概念は確率増大の概念によって代られる傾向を示すに至った。また仮に自然科学が決定論を立てたとしても、それによって意志自由が危くされると考えてはならない。意志自由の直証に立脚して自然科学の決定論の認識論的限界乃至弱点を発見して行かなければならない。意志自由は論議の帰着点ではない。出発点である。自由を措いて実存ということは考えられない。実存を措いて人間というものは考えられない。自由ということと人間ということとは殆ど同義語と云ってもいい。自然科学そのものも人間の産んだものにほかならない。
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タイ「自由」な社会と「不自由」な社会

『タイの基礎知識』より

タイは「自由」な国であるとよく言われる。これは「夕イ」という語が自由という意味を持つことに由来する。すなわら、タイ人に言わせれば彼らは自由の民であり、誰からも束縛されず自由意思で行動できる人々なのである。このような言説が出てきたのは大タイ主義が出てきた一九三〇年代末のことと思われ、タイナショナリズムの高揚とともに重視されていった。一九三九年の国名の変更を筆頭にこの時期には盛んにタイという言葉が用いられることとなり、タイという語は国民に広く浸透していった。

確かにタイは自由な社会である。はじめに述べたように、タイが「居心地」の良い包容力のある社会であることは、自由な社会であるからこそ実現できるものである。二者関係が重視されるタイ社会では集団主義よりも個人主義的な様相が強くなり、その結果「緩い」社会という解釈まで出てきた。タイ人は他人に雇われるよりも自営業を好み、独立志向かきわめて強く、インフォーマルセクターに含まれるようなさまざまな新しいサービスを次々と生み出してきた。タイ社会は多様性が認められる社会であり、さまざまな階層の人々がそれぞれに見合う経済レベルで生活スタイルを構築している。性の転換にも寛容であり、ついこの間まで「男」であった人がある日突然「女」になることも珍しくなく、自分の欲求に基づいて人々が自分の好きな「性」を選んで生活している。そして、他人に迷惑を掛けない限りそのような人々の存在も黙認される。このような自由が、多くの人々を惹きつけているのであろう。

しかし、タイ社会にも「不自由」な側面は存在する。それは国王や王室に対する不自由さである。確かに、国王は二者関係から構築されるタイ社会の中で頂点にあり、「ピー」の最高峰に位置する存在である。その権威はラック・タイの下での国民統合の中で強化され、その存在は絶対化されてきた。このため、タイでは国王の存在に疑問を挟む余地がなくなり、王室批判はタブーとなっていった。タブーが存在するということ自体が、自由の国タイを否定していることになる。規範面のみならず制度的にも不敬罪というものがあり、刑法典には国王や王妃王位継承者、摂政を侮辱する行為は禁固刑に処するという規定が存在している。不自由な社会の側面は、実はラック・タイが生み出した負の遺産であると言えよう。

ラック・タイの原理が効いている間は、たとえこのような不自由が存在しようと、多くの人々はそれを不自由であるとは思ってもみなかった。ところが、二一世紀に入って親タックシン派と反タックシン派の対立が顕著となると、親タックシン派の中から公然と王室批判をする人々が出現し、それを反タックシン派が不敬罪を用いて抑え込む動きが出てきた。反タックシン派は王室擁護派であり、王室も反タックシン的なそぶりを見せたことから、親タックシン派による王室批判の動きが出てきたのである。このため、親タックシン派の言動に対して不敬罪のレッテルが張られる事態が相次ぎ、不敬罪容疑で逮捕される人が二〇〇六年のクーデター以降増加した。不敬罪がこのように政治的に利用されるようになると、内外からの反発はさらに高まることとなり、結果として王室批判の声をさらに高めることとなった。

自由な社会が魅力であるタイであるが、このような不自由な社会という一面もまた存在し、政治的対立がその不自由さをさらに高めている傾向がある。二〇一四年のクーデター以後の軍事政権も不自由な状況を増長しており、政治的に自由に発言や行動ができずに抑圧されている人々もいる。しかしながら、親タックシン派と反タックシン派が自由にデモを行ない、その社会が混乱して不安が増加した状況を踏まえて、半ば強引に平穏が維持されている不自由な状況のほうが望ましいと考える夕イ人も少なからず存在する。

政治的な面に限らず、社会情勢や国際情勢の変化によってタイ社会の不自由さは徐々に拡大してきている。二〇〇〇年代に入って深南部のテロが活発化してから、バンコクのショッピングセンターや地下鉄の入口にも金属探知機が設置され、テロ対策が行なわれている。飲酒を抑制するためにアルコール飲料の販売時間が決められ、コンビニエンス・ストアでも厳守されている。さまざまな場面において規制が強まりつつあり、自由の国タイの実像が徐々に変わりつつある。交通マナーの面などあまりに自由すぎるのもどうかと思われる場合もあるが、逆にあまりに不自由な状況も自由の国タイにはそぐわない。白由と不自由の間の線をどこに引くかが、現在のタイ社会には求められているのであろう。
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日本のエネルギー選択と温室効果ガス削減目標

『地球温暖化は解決できるのか』より 私たちに何ができるのか? ⇒ できない。大人が「存在の力」に覚醒しない限りは。

2030年の理想のエネルギーの将来像を考えてみましょう。エネルギーの将来像を考えることは、そのまま日本の2030年の温室効果ガスの削減目標を考えることにもなります。

まずは最も大切なのは省エネルギーです。省エネルギー技術には様々なものがあり、やり方次第で大きな可能性があることを見てきました。ここではパリ協定を実現していくために最大限に省エネルギーすることにしましょう。2015年に示された政府の2030年エネルギー見通しでは、エネルギー全体に対して2013年比で約10%減の省エネルギーに留められましたが、2012年当時に環境省から示された温暖化対策の選択肢には約20%減(2010年比)というものもありましたので、ここでは少なくとも20%以上削減することといたしましょう。

残ったエネルギーをどんなエネルギー源で賄うかを考えていきます。本来は、日本の使っているエネルギーは、電力に使われる分は4割程度で、残りの6割は天然ガスやガソリンなど熱・燃料用途ですが、ここでは話をわかりやすくするために、電力だけに絞って考えていくことにしましょう。

電力を作るには、再生可能エネルギー、原子力、そして化石燃料の天然ガス、石炭、石油などがあります。それぞれのエネルギーのメリット、デメリットを考える際には、大きく分けて4つの面から考える必要があります。

 ①安全であるか二季故を起こした時に甚大な被害をもたらすリスク等がないか

 ②安定的に供給できるか一日本では化石燃料はそのほとんどを輸入に頼っている。たとえ ば輸入先の石油産出国で政情不安が起きたりすると、日本は輸入できなくなってしまう。そのため1つの国に頼るのではなく、なるべく多くの国から輸入するなどリスクを分散する必要がある。この観点からは国内で産出する国産エネルギーがベスト

 ③経済的であるか:経済活動を行うには、なるべく安いエネルギーが必要

 ④環境に悪影響がないか∵天気汚染や地球温暖化など悪影響を引き起こさないか

今の段階では残念ながら4つのすべての条件を満たすエネルギーはありません

どれを優先するかによって、様々なエネルギーの選択がありえます。4つの面から考えて、それぞれのエネルギーのメリット、デメリットを考えていきましょう。表にはそれぞれの電源の代表的なメリットやデメリットを記しておきましたが、巻末の参照文献などを参考に皆さんでさらに調べて書き込んでみてください。

③の経済性を考える参考として、それぞれの電源の2014年の今の価格と2030年の予測価格の表を示しておきます。2014年の価格で、高い電源の割合を多くすると電気料金は高くなり、安い電源の割合を多くすると電気料金も安くなることになります。ただ、石炭や天然ガスなど化石燃料の価格は2014年も2030年もほとんど変わらないという予測ですが、再生可能エネルギーは技術の進歩が見込まれるので、2030年には価格が下がり、特に太陽光や風力は2030年には2014年の半額になってくる見込みです。2030年時点の予測価格も念頭に置いて検討してください。

④の環境の悪影響をはかるには、第1章第3節で示した化石燃料の排出する二酸化炭素の排出係数の図を参考にしてください。二酸化炭素の排出係数が高いほど、温暖化を進めてしまうことになります。なお二酸化炭素を多く出す化石燃料は、ほかの大気汚染物質も排出することも知っておいてください。

①の安全性を考える際に知っておくべきことは、今ある原発のうち、40年たった古い原発を使わず、さらに原発の新設もしないならば、2030年には日本の原発の割合は大体15%前後になるということです。つまりあなたの考える原発の割合が15%を超えるならば、古い原発の延長か新設が必要です。ちなみに政府の2030年エネルギー見通しで示された原発20~22%というのは、40年以上の古い原発を延長して使うという前提です。

さあ、皆さんは2030年の日本にとってどんなエネルギーの割合が望ましいと考えるでしょうか? どうしてそう考えるのかも合わせて、皆さんの考える2030年の日本のエネルギー選択を書き込んでみてください。2015年に日本政府が発表した2030年のエネルギー見通しと、それに従って決められた温室効果ガスの削減目標も、参考として示しておきます。

エネルギー割合を書き込んだ後は、温室効果ガスの削減目標も考えてみましょう。削減目標とは、要は温室効果ガスを出さないエネルギー(原発と再生可能エネルギー)の割合と、化石燃料の中で石炭を多くするか少なくするかによって決まってきます。政府のエネルギー選択では、二酸化炭素を出さないエネルギーが合わせて約45%で、残りの化石燃料のうち石炭の割合が26%です。もしあなたの考える二酸化炭素を出さないエネルギー割合の合計が45%を超え、石炭の割合を26%よりも低くとるならば、政府の設定した温室効果ガスの削減目標26%を上回る目標になります。逆ならば、政府の目標を下回る削減目標を提案することになります。つまり、あなたの考える2030年のエネルギー選択は、2030年の日本の削減目標を考えることでもあるのです。

さあ、いかがでしたか? 書き込んだらぜひ他の皆さんと比べてください。人によって大きく考え方が異なることが感じられると思います。ぜひ、自分と異なる選択をした人とじっくり話し合ってみてください。一番大切なことは、お互いにオープンな気持ちで多様な考え方を受け入れながら議論を深めることです。将来のエネルギー選択や温暖化対策を考えることは、自分たちの未来の社会を考えることです。ぜひ積極的にトライしてみてください!
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