未唯への手紙

未唯への手紙

OCR化した7冊

2016年09月26日 | 1.私
『ブラックホールはそれほど黒くない』

 ホーキング

『世界の複数性について』

 世界の複数性テーゼ

 現実性

 あらゆるものが現実的になってしまう?

 すべての世界がひとつの世界のうちにある?

 実際よりも多くの世界がある?

 いかにして知りうるのか?

『<情報>帝国の興亡』

 近代世界システムの崩壊--不安定な情報化社会 2016/09/24 1:31 午後

 近代世界システムの終焉

 インターネットの発達

 情報による不安定性

 つながりすぎた世界

 携帯電話の役割

 デジタルメディアの発展

 インターネットがつくる社会

 情報による不安定性と政治--アラブの春

 アラブの春とデジタルメディア

 ソフトパワーがつくるハードパワー

 新しいシステムヘ

『ユダヤ人』

 問題の否認 ユダヤ人問題は存在しないとする態度

 摩擦は存在しないとする人々

 迫りくる危険

 実験は必ず行き詰まる

 ユダヤ人がもっとも欲したもの

 ユダヤ人の市民権

 国際金融を支配する最重要人物

 同化する特異な能力

 虚構を支持する最後の論拠

『アマゾンと物流大戦争』

 物流のターニングポイント--ネット通販と宅配便の異変

 アマゾンはなぜ書店から始まったのか?

 ネット書店の新しさ

 「ロングテール」の裏側

 「ネット通販=店舗がないから安い」のウソ

 拡大するネット通販

 なぜネット通販の家電は安いのか?

 楽天が急成長できた理由

 ネット通販における物流機能

 モール型ネット通販の弱点

 苦戦する楽天

 楽天物流の失敗

 非効率な物流で破綻したネット企業

 独自の配送網を築くカクヤス

 ストックポイントを見る

 オフィスグリコの革命

 ラストワンマイルが差別化の分かれ目

 アスクルの強みは物流

 アスクル成功の要因

 日本の宅配サービスはすごい

 宅配便の異変

 転機となる運賃値上げ

 寡占が進む宅配便業界

 深刻なトラック不足

 「再配達」問題

 受け取り場所の多様化

 「全品送料無料」中止の衝撃

 重くのしかかる配送費の負担

 アマゾンが秘密にする物流センター

 アマゾンのラストワンマイル戦略

 広がるアマゾンの自前配送

 自走式ロボットを取り込む

『「宗教」で読み解く世界史の謎』

 なぜ商人であったムハンマドがイスラム教をひらいたのか?

 ムハンマドの登場

 不安に満ちた部族社会の生活

 布教の始まり

 メッカの有力者との対決

 ムハンマド、メディナに遷る

 ウンマ(イスラム共同体)の掟

 無血で従えたメッカ

 スンニー派とシーア派の起こり

 後継者をめくる紛争が現代まで残る

『社会学講義』

 理論社会学

 社会学に標準テキストがないのは、なぜか?

 社会学の必要性はどこにあるのか?

  行為とは何か?

  規則は行為を決定できない

  クリプキの「規則は存在しない」

  規則とは他者の存在によって媒介されて生ずる一種の錯覚である

 近代社会の自己意識の構造はどのように生まれたか?

  一九世紀の社会学--「個人/集合」という対立軸

  ウェーバーの「方法論的個人主義」とデュルケムの「方法論的集合主義」

  近代を定義する主体性=主観性

  主体を生み出す権力機構--フーコーの一望監視装置

  抽象的な支配者、ネーション(国民)の誕生

  社会学はすぐれて近代的な営みである

 社会学理論の困難な問題とは何か?

  「ホッブズ問題」をどう解決するか

  社会学理論の共通の困難--「循環の構図」とは?

  ↑機能主義の限界

  現象学的社会学の限界

  「循環の構図」を解かなかった構造主義

  ギデンズとブルデューの理論

  ハーバーマスのコミュニケーション論とは何か?

  ルーマンの「オートポイエシス」と「合理的選択理論」
 近代の変容とともに

  近代の変容

  ポストモダン論

  国民国家から〈帝国〉ヘ

  リスク社会

  社会の社会

社会学 近代の変容とともに

2016年09月26日 | 3.社会
『社会学講義』より 理論社会学 社会学に標準テキストがないのは、なぜか? ⇒ 大学での講義みたいに体系だったものと捉えます。

近代社会は、いわば、自己意識をもつ社会であり、その自己意識の最も自覚的な表現が社会学である。このような趣旨のことを先に述べました。社会学は、近代社会という土壌から生まれてきたわけです。

ところで、二〇世紀の末期、一九八〇年代あたりから、その近代が大きく変容しつつある、ということが気づかれ、社会学の主要なトピックとなってまいりました。社会学が、自分自身を生み出した基盤そのものの変化を、自ら探究の対象としてきた、ということです。つまり、近代社会の内部に孕まれた大きな転換をどのように解釈し、また説明するのか、というのが、二〇世紀末期以来の社会学の中心的な話題であり、それは二一世紀を迎えた現在まで続いています。最後に、駆け足で、近代の変容を捉える現代社会論を紹介しておきましょう。

先に、近代社会においては、個人主義とナショナリズムとが車の両輪のようなものになっていた、と論じました。この両極の間の相互規定の関係が、大ざっぱに言えば、あの「循環構造」に対応しています。近代社会の変容は、この両極に現れます。

ポストモダン論

 変容した近代をどのように呼ぶかは、論者によって異なっていて、その呼び名は、各論者が変容のどの部分を本質的なものとみなしているかを反映しています。最もよく使われる語は、「ポストモダン」です。ポストモダンというと、「近代以降」という印象を与えますが、むしろ、「ポスト」という接頭辞のついた近代社会の後期的形態とみなすほうがよいと思います。

 ポストモダンとは何かを、明確に定義したのは、フランスの哲学者ジャン・フランソワ・リオタールです。リオタールによれば、ポストモダンの条件は、「大きな物語」の喪失です。大きな物語というのは、歴史を理念や目的の実現過程とみなして、自分たちの現在を意味づけることです。近代においては、民主主義とか、自由とか、人間解放とか、民族独立とか、共産主義とかが、大きな物語の焦点となる理念や目的として機能していました。「大きな」物語というとき、それは、物語の内容が気宇壮大だということではなく、社会的に大きいということ、つまり、物語が社会的に広く共有されていた、ということです。物語の核となっていた、理念や目的が失われた時代、それがポストモダンです。

 ポストモダンの段階の社会学的分析の多くは、情報化とか、消費とかに注目しています。そのような分析を試みた社会学者の代表は、ジャン・ボードリヤールでしょう。彼は、従来の社会学が、経済を「生産」を中心に見ていたのに変えて、消費、とりわけ記号的な消費に注目し、ポストモダンな社会を消費社会と呼びました。「記号的な消費」とは、あるブランドの流行のようなことを考えると最もわかりやすいわけですが、商品が、その使用価値によってではなく、他者との差異化に役立つ記号として欲望されることを指しています。

 この種のポストモダン論の特徴は、個人の意味世界(リアリティ)が変容し、それにともなって、近代がかつて描いていたような個人の強い主体性が崩壊してきている、ということに注目していることです。ちなみに、私も、この流れの中で--主に日本の戦後社会の変容を念頭におきながら--理想の時代/虚構の時代/不可能性の時代という三段階を考えています。見田宗介が、現実を意味づけるときの原点となる「反現実」がどのようなモード(タイプ)か、ということで、時代区分をしているのですが、私の三段階は、それを継承したものです。この三段階では、理想の時代が、もともとの近代に、そして、虚構の時代と不可能性の時代がポストモダンに対応しています。

国民国家から〈帝国〉ヘ

 マルクス主義の潮流に属する社会学者たちも、近代の変容ということに対応した資本主義社会の分析を提起しています。その上うな理論は実にたくさんあるのですが、その集大成的なものとしては、アントニオ・ネグリとマイケル・ハートの〈帝国〉という把握があります。

 近代においては、グローバルな社会は、主権を有する国民国家の集合として捉えられてきました。しかし、今や、このような像は成り立だない、というのがネグリたちの診断です。つまり、古典的なナシ’ナリズムの段階は終わった、というわけです。彼らは、現代社会を統治する新しい主権のあり方を、〈帝国〉と呼んでいるのです。

 この〈帝国〉は、かつての中華帝国とかイスラーム帝国とかというときの帝国とも違いますし、またある時期マルクス・レーニン主義者がよく使った「帝国主義」とも違います。〈帝国〉というのは、グローバルな経済や文化の交換やネ″トワークを調整している複合的な主体のことで、特定の国家や機関と同一視することもできません。〈帝国〉と呼ばれるのは、このグローバルな社会を、ローマ帝国の比喩で考えるとわかりやすいからです。

 この〈帝国〉に対して、地球上の至るところに、労働したりしなかふたりしている、有象無象の群衆がいる。その群衆のことを、ネグリたちは「マルチチュード」と呼びます。要するに、近代後期の(国民国家の時代以降の)グローバルな社会は、「〈帝国〉対マルチチュード」という構図で捉えることができる、というわけです。

リスク社会

 もうひとつ、近代の変容に着目している現代社会論として重要なのは、リスク社会論です。「リスク社会」ということを最初に唱えたのは、ドイツの社会学者、ウルリヒ・べックです。この概念を提起した、彼の『リスク社会』という本は、ちょうど、チェルノブイリの原発事故があった直後に、出版されたのです(一九八六年)。彼は、この事故が起きたあとに本を書いたわけではないのですが、原発事故こそ、リスク社会のリスク、「新しいリスク」の典型でもあったため、『リスク社会』はベストセラーになりました。学問的な概念と現実の出来事が完全にシンクロしていたわけです。

 リスクと危険一般とは違います。リスクの特徴は、人間の選択ということと関係しています。リスクというのは、人間が何事かを選択したとき、それに伴って生じると認知された不確実な損害のことです。このようなリスクは、人間の主体性ということが社会の根本的な前提となった近代社会になってから生まれます。そして、リスク社会というのは、その上うなリスクの中でも、とくに新しいタイプのリスクによって特徴づけられる社会です。

 新しいリスクとは何か。今あげた原発事故などはその典型ですが、それは、二つの顕著な特徴かあります。第一に、その危惧されているリスクは、しばしば、きわめて大きく破壊的な結果をもたらす、ということです。温暖化による地球生態系の破壊などは、その例です。第二に、そのリスクが生じうる確率は、一般に、非常に低いとされているか、あるいは、計算不能である、ということです。このくらいの確率で、それが起きる、ということを確定的に言うことができないのです。まだ言及していない例を出せば、先進国の大都市での無差別テロのようなものも、新しいリスクのぴとつです。

 このような新しいリスクが登場してくるのは、後期近代である、というのがべックをはじめとするリスク社会論者の主張です。後期近代とポスト近代は、外延的には、ほぼ同じ時期を指しています。後期近代と呼んだ方が、近代の一部であるということが強調されます。

 リスク社会の新しいリスクは、われわれのリアリティの感覚に大きな変化をもたらさざるをえません。なぜかというと、それは、「責任」(それは「自由」の観念とセ″卜になっています)という観念を破壊するからです。個人の主体性ということをベースにしたとき、責任という観念が重要なことはすぐにわかるでしざっ。人類は、リスクがある程度大きくなって、個人ではその責任を担ったり、補償したりできなくなったとき、保険というシステムを編み出しました。保険というのは、一人では担いきれない責任を、ある規模の人口をもつ集団によって担う、というアイデアです。しかし、新しいリスクに対しては、そのょうな意味での責任すら成り立ちません。たとえば、温暖化で、生態系に致命的な破壊がもたらされたとき、誰かがこの責任を負い、損害を補償できるか、と考えてみるとわかります。このように、リスク社会は、伝統的な近代社会の前提を切り崩しているのです。

社会の社会

 べックやギデンズのように、リスク社会を重視する社会学者は、近代社会の「再帰性(リフレクシヴィティ)」ということを強調します。再帰性とは、次のようなことです。最初の方で述べたょうに、行為は規範やルールを前提にしています。近代社会では、規範への反省的(再帰的)態度が浸透している、というのがギデンズたちがいうことです。つまり、規範やルールを「変えることができる」という自覚を前提にして、規範やルールを不断にモニタリングし、修正や調整をほどこしていく。これが再帰性という現象です。

 このような、社会システムに備わった、自己言及の構造にさらに徹底してこだわり、その含意を完全に余すことなく引き出したのが、前節でも名前を挙げた--社会システムをオートポイエシス・システムと捉えた--ルーマンです。この理論によれば、システムがとらえる「実在」は、それぞれのシステムに固有な「観察」の産物です。つまり、それは、生の客観的実在ではなく、システムの構築物です。たとえば、法システムは、人々の行為が違法か遵法かという観点で分節しますが、他の側面は無視します。このょうに、実在は、システムの観察に相関してしか現れない。これをラディカルな構成主義と呼びます。

 ルーマンは、二〇世紀もほぼ終わろうとしている時期に亡くなりましたが、晩年まで旺盛に執筆をしていました。彼の最後の十年くらいの本の多くはとてもふしぎなタイトルをもっているのです。「社会のX」となっています。このXの位置に、「経済」とか「法」とか「芸術」とかが入ります。たとえば「社会の経済」は、社会学的な経済システムの理論ですが、なぜ「社会の」などと付いているのか。それは、Xの位置にあるものが、社会システムによる構成の所産であることを強調するためです。

 そうすると、最終的にはどうなるか、というと、Xの位置に「社会」そのものが入るのです。『社会の社会』です。これは、ルーマンの集大成のような本で、普通に考えれば、社会システムの一般理論、つまり社会学そのものです。社会学という認識自体が、社会システムに内在している、という痛烈な自覚のもとにあるわけです。それは、社会システムに外在する超越的な「観察する主体」を断じて認めない、という意味でも、近代の黄昏に見合った学問になっています。社会学は、近代とともに生まれ、近代の変容とともに変化しているのです。

社会学の必要性はどこにあるのか?

2016年09月26日 | 3.社会
『社会学講義』より 理論社会学 社会学に標準テキストがないのは、なぜか? ⇒ 大学での講義みたいに体系だったものと捉えます。

まず、われわれにとってどういう意味で社会学という知の在り方の必要性が出てくるか、について見ていきましょう。

社会学の入門者がまず気がつかなければいけないのは、「実践」「認識」がもっている社会的な被規定性です。つまり実践や認識の内容はもちろんのこと、その方法そのものの多くの部分が--一般に素朴に信じられているよりもはるかに多くの部分が--、特定の型の社会構造を背景にして、社会化・共同(主観)化されている、ということを前提として押さえていなければいけません。

ちょうど音声言語が、その言語を母語としている人としていない人では別様に分節されて聞こえるように、物理的には同じ刺激でも、その人がどのような社会構造・社会関係の内にあるかによってまったく異なったものとして現れます。たとえば食欲は、人間がそれぞれ特定の社会に属しているということから独立した、生理的な欲求だと信じられています。しかし、食欲の大部分は社会的に形成されたものです。構造人類学者レヴィ=ストロースは、ひとつの文化に属するさまざまな料理が、相互にシステマティックな差異・関係を保っており、その差異・関係のシステムのなかで規定された記号的こ象徴的な意味を担っていることを示しています。つまり、人は食物の摂取を通じて、生理的な要求を満たすと同時に、文化的・社会的に規定された意味的欲望を充足させているのです。同じことは、性欲に関して、もっとはっきりと言うことができます。

行為とは何か?

 行為や意識の社会的な被規定性とは別に、行為が社会的なものとしてのみ成立しうるのだということ、つまり行為がまさに行為として成立するために「他者」の存在が不可欠の条件となっているのだ、ということを話しましざっ。常識的に言えば行為には私的な行為と社会的な行為があり、そのうちの後者のみが、他者の存在を前提にしているということになります。しかし行為は、ぴどく私的な営みに見えるものも含めてすべて、他者の存在を前提にしているのです。だから行為についての考察は、必然的に社会学とならざるを得ないのです。

 では、行為とは、そもそも何でしょうか。行為(Action)とは、何らかの意味で規則、規範に従っていると解することができるパフォーマンスのすべてを指します。行為に、それが生起する情況に相関して、正しいもの(適合的なもの)/正しくないもの(非適合的なもの)という区別を与える情報を、規範あるいは規則と言います。逆に言うと、そういう解釈を許されないものは行為と呼びません。飛んできたボールに対して反射的に目をつぶってしまったといった生理的な反応は行為ではありません。私たちは、べつに規範的に正しいから(妥当だから)目をつぶるわけではありませんから。

 行為を可能にする中核的な要素は規則、規範です。先に、「社会秩序がいかにして可能か」という問いは、規則、規範がいかにして可能かを問うことにつながっていくと説明しましたが、規則、規範の成り立ち方は社会学にとって中核的な問題になってきます。

 規範・規則の特徴として、ここではふたつのことを押さえておきましざっ。

 まず、どんな規則も行為の無限集合を標的にしています。有限の集合を対象にする規則は、論理的に存在しません。規則は、行為の無限の可能性に対処できなくてはなりませんから。

 もうひとつは、これは非常に自明ですが、どんな規則もその行為より先に決まっているということ、つまり行為に対してプライオリティ(先行性)をもっているということです。行為のあとに決まる規則など、規則ではあり得ません。ある行為が規則に従っていると言われるためには、規則はその行為よりも先に決まっていなければいけません。

規則は行為を決定できない

 どんな行為も規範・規則とセッ卜になっているということから、「意味」への志向性を伴うことになります。行為が規範・規則に従うということは、その行為が、「正しい」とか「妥当だ」とかといった性格づけを伴っていることです。妥当な行為は、対象を自らにとって適合的なものとして認識し、志向します。その対象の適合的なあり方が、その対象の行為にとっての「意味」です。

 ところで、社会学の基礎論にあたるようなことを結果的にやってしまった有名な哲学者にヴィトゲンシュタインがいますが、彼は規則に従うことについての有名なパラドクスを『哲学探究』という本の中で提出しています。原文を訳せば、

 〈規則は行為を決定できない。なぜならば、いかなる行為の仕方もその規則と一致させられるからだ〉となります。

 先に述べたとおり、規則は正しい行為とそうではない行為、あるいは妥当な行為とそうではない行為とを区別できなければいけません。ところがヴィトゲンシュタインは、常識的にはそう映るかもしれないが、それは錯覚である、と言っているのです。つまり、ある規則を採ってきたとき、どんな行為も、その規則と一致していると言いくるめることができるというのです。そうなると、規則は正しい行為とそうでない行為とを区別できないことになる。それは規則が存在しないに等しいことになります。