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現実は私の世界と私の世界メイトに適用される

『世界の複数性について』より 現実性 ⇒ 未唯宇宙では「私は私の世界」として、認識している。現実が存在となる。

われわれの世界は多くの世界のうちのひとつにすぎない、と私は主張する。われわれの世界は唯一の現実世界であり、残りの世界は現実世界ではない。なぜそうなるのか。私はこの問題を意味に関するトリビアルな問題とみなす。私は「現実」という語を「この世界」の同義語として用いる。私がこの語を用いる場合、この語は私の世界と私の世界メイトに適用される。すなわち、われわれが部分をなすこの世界とこの世界のすべての部分に適用される。誰か別の人がこの語を用いる場合は、その人がわれわれの世界メイトであろうと、あるいは現実化されていなかろうと、この語は同じようにその人の世界とその人の世界メイトに適用されることになる(ただし、その人がこの語でわれわれと同じことを意味していれば)。私は別のところで、こうしたやり方を現実性の「指標的分析」と呼び、次のように規定した。

 「現実」という語、およびそれに類する語を、指標的名辞として、すなわち、発話の文脈がもつ関連する特徴に応じて指示が変化する名辞として分析することを提案したい。名辞「現実」の場合、ここで言う関連する特徴とは、どの世界でその発話がなされたのかということである。私の提案する指標的分析によれば、「現実」は(その一次的意義においては)いかなる世界wにおいてもその世界wを指示する。「現実」は、「現在」という、発話の文脈がもつまた別の特徴に応じて指示が変化する指標的名辞と類比的である。すなわち、「現在」は、いかなる時点tにおいてもその時点tを指示する。また、「現実」は、「ここ」、「私」、「あなた」、「これ」、「前述」とも類比的である。これらはそれぞれ、場所、話者、意図されている聞き手、話者の指さし行為、前に述べられたことに応じて指示が変化する指標的名辞である。

こうして、現実性は相対的な問題になる。すべての世界はその世界自身において現実であり、この意味ですべての世界は同等である。これは、すべての世界が現実であるヽということtゆない。そのようなことが真になる世界が存在しないのは、すべての時点が現在であるような時点が存在しないのと同様である。世界のあいだで成立する「~は~において現実である」という関係は、単に同一性関係なのである。

世界の複数性を受け入れるなら、相対性は避けられない。私は筋の通ったどんな代案も持ち合わせていない。というのも、仮にただひとつの世界だけが絶対的に現実であるとしよう。このとき、そのただひとつの世界だけがもつ--その世界の住人やそれ以外の何かと相対的にもつのではなく、端的にもつ--何かしら特別な差異が存在することになる。この絶対的な差異だとされるものをどのように理解したらよいか、私には分からないのだが、仮に理解できたとしよう。二つの反論が考えられる。

ひとつ目の反論は、われわれは現実のものであるというわれわれの知識に関わる。絶対的な差異なるものがたとえ存在するとしても、相対的な差異かどこかに消えてしまうわけではないことに注意しよう。あるひとつの世界だけがわれわれの世界であり、この世界であり、われわれが部分をなす世界であるということはそれでも正しい。しかし、われわれが部分をなすまさにこの世界が絶対的に現実であるような世界であるとしたら、それはわれわれにとってなんと驚くべき幸運だろうか。すべての世界のすべての人々のうち、圧倒的多数は絶対的な現実性を欠く世界に住む運命にあるのだが、われわれだけは選ばれた少数者だ、というわけである。実際にそうだと考えるどのような理由をわれわれはもちうるのか。いったいどうやってそれを知ることができるのか。たとえば、現実化されていないお金でも、現実化されていないパンを買うことはできる。それでもなお、われわれが部分をなす世界が現実世界であるということをわれわれは確実に知っている--それは、われわれが部分をなす世界がまさにわれわれが部分をなす世界であるということをわれわれが確実に知っているのとちょうど同じことである。いったいどうしたら、これがわれわれは選ばれた少数者であるという知識になることができるのか。

同じことをD・C・ウィリアムズも問うている。彼が問うているのは「現実性」についてではなく「存在」についてであるが、同じことである。というのも、彼は様々な学説について論じているが、それらによれば、いわゆる「存在」は、世界にあるもののいくつかを他から区別する特別な性質となるからである。彼は次のようにライプニッツを非難している。「[ライプニッツは、]たとえば、彼が存在する世界の一員であって、本質の陳列棚に置かれている単なる可能なモナドでないことを、彼がどうやって知ることができるのかをまったくあきらかにしてくれない。」

ロバート・M・アダムズはAdams(1974)でこの反論を退けている。彼によれば、絶対的な現実性についての単純性質理論では、われわれ自身が現実のものであることをわれわれが知っていることの確実性を、次のことを主張することによって説明することができる。すなわち、われわれは、みずからの絶対的な現実性について、みずからの思考や感情、感覚と同じぐらい直接的に見知っていると主張するのである。しかし、私はこれに対して次のように答えたい。もしアダムズや私や他のすべての現実の人々が、絶対的な現実性についてこのような直接的な見知りを本当にもつのであれば、私に姉がいると仮定するだけで、彼女もまたそのような直接的な見知りをもつことになってしまわないだろうか。そうすると、現実化されていない彼女は、遠く離れた別の世界において、私に私の知識を与えるとされるのとまさに同じ証拠によってだまされていることになるのである。

二つ目の反論は、偶然性に関わる(これはアダムズによるものであり、ここでは私は彼に同意する)。どの世界が現実かは、間違いなく偶然的なことがらである。偶然的なことがらは、世界ごとに異なることがらである。ひとつの世界において、偶然的なことがらはひとつのかたちをとる。別の世界においては、また別のかたちをとる。したがって、ひとつの世界においてはひとつの世界が現実であり、別の世界においては別の世界が現実である。これがどうやって絶対的な現実性になるのだろうか。相対性は明白ではないか。

指標的分析は、ひとつの問題を提起する。「現実」が指標詞であるとするなら、それは固定的な指標詞だろうか、それとも非固定的な指標詞だろうか。すなわち、他の世界を考慮している文脈であっても、発話か行なわれている世界を指示するだろうか。それとも、指示は変わるだろうか。通常は固定的な指標詞である「今」と、固定的にも非固定的にもなりうる「現在」を比べてみよう。たとえば、あなたが「昨日は、今よりも寒かった」と言うとする。時点シフト的な副詞「昨日は」のスコープの内部でも、「今」は発話の時点を指示する。同じように、あなたが「昨日は、現在よりも寒かった」と言うとする。このときも、「現在」の指示は移動しない。しかし、あなたが「すべての過去の出来事は、一度は現在だった」と言うなら、時点シフト的な時制つき動詞「だった」は、「現在」の指示をシフ卜させる。私は、「現実」やそれに類する語を、「現在」と同じように扱うことを提案する。すなわち、それらはときに固定的になり、ときに非固定的になる。私に姉がいたとしたらどうなるのか。現実には存在しない人か存在したのかもしれない(固定的なケース)。彼女は実際には現実でないが、現実だったかもしれない(非固定的なケース)。現実には現実でない人が、現実だったかもしれない(両方のケース)。さきほど引用した一節のなかでは、私は非固定的な意義のことを「一次的」と呼んだが、十分な理由があってのことではなかっび。

私が「現実」という語を用いる場合、それは私の世界と私の世界メイトに適用されると私は主張した。すなわち、私が部分をなす世界とその世界の他の部分に適用されるのだった。他の世界の住人がこの語を同じ意味で用いる場合も、必要な変更を加えれば、同様のことか言える。ただし、集合については別の扱いが必要になる。私は、いかなる集合もこの世界や他の世界の部分であるとは言いたくないか、それにもかかわらず、現実のものの集合は現実のものであると言いたい。いかなる集合も位置をもつことはないと言われることがときどきある。しかし、私はこれを信じる理由をまったく知らないし、集合はそのメンバーか位置するところに位置するという見解の方がよりもっともらしいと思う。集合はそのメンバーが散らばっている場合は散らばって存在している。メンバーが位置をもたないときは、その場合のみ位置をもたない。このことは、ひとつの世界のなかのどこに位置するかだけでなく、どの可能世界に位置するかにも同様にあてはまる。在宅しているオーストラリア人の集合がオーストラリアに位置するのと同様に、この世界のものの集合はこの世界に位置する。言い換えれば、現実のものである。同じようにして、オーストラリアに位置する集合すべての集合は、それ自体がオーストラリアに位置し、現実の集合の集合は、それ自体が現実のものである。同じ議論が、集合論的階層をどこまで登っても繰り返し適用できる。

それでも私には、「現実」という語をもっと広い意味で用いたいと思うときもあるかもしれない。何か現実と呼ばれるべきかを一度できっぱりと確定的な仕方で決定する必要はない。結局のところそれは、「何が存在するのか?」のような立派な問いではないのである。それは、「存在するもののうちのどれがわれわれと特別な関係にあるのか?」という問いにすぎない。だが、特別な関係はいくらでもある。われわれの世界ではなく、われわれの世界の部分でもなく、またわれわれの世界の部分だけから構成された集合でもないにもかかわらず、それら以外については私の量化がこの世界のものに制限さ私ているときでさえも私が量化を行ないたいと思うようなものがあるとしよう。このとき、慣習によって、ときどきはそれらを「現実」と呼んだとしても、まったく害はない。実のところ、それらが現実であるかそうでないかについて、いかなる公式見解も拒んだとしても、まったく害はない。これは本物の問いではないのである。
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世界の複数性テーゼ

『世界の複数性について』より 世界の複数性テーゼ ⇒ 未唯宇宙では集合論ではなく、リーマン仮説にもとづく、無限次元空間として、展開していく。

われわれが住むこの世界は、きわめて包括的だ。これまで見たことのある棒切れや石ころのどれもがこの世界の一部だし、あなたと私もそうである。地球も、太陽系も、この銀河の全体も、望遠鏡をのぞいて見えるはるか彼方にある数々の銀河も、そしてこれらの星々と銀河のあいだに散在する空っぽの空間(もしそのようなものがあるとするなら)も、この世界の部分なのだ。われわれからあまりにも遠く離れているためにわれわれの世界の部分ではない、そのようなものは何もない。どれほど遠く離れていても、この世界の部分であることに変わりはないのである。同様にして、この世界は、時間に関しても包括的だ。古代ローマ人たち、翼竜、原始プラズマ雲、これらがどれほど遠い過去にあるとしても、この同じ世界の部分ではないとは言えない。また、活動を終えて暗くなった星々も、それらがどれほど遠い未来にあるにせよ、この同じ世界の部分ではないとは言えない。この世界は(私が思うに)、ひとつの大きな物理的対象であるかもしれない。あるいは、生気、霊魂、霊気、神々、その他現行の物理学には知られていないようなものも、この世界の一部であるかもしれない。しかし、ここからある方向のある距離にあって、今と同時か、それより前あるいは後のいずれかの時点に存在すると仮定される限りは、われわれの世界の部分となりえないほど種として異世界的なものなど何もない。

事物のあり方というのは、包括的に言ってもせいぜい、この世界の全体がどうあるかを意味するにすぎない。ところが、もろもろの事物は異なるあり方をしていたかもしれず、その異なり方はじつに多様である。私のこの本は、予定通りに書き上げられていたかもしれない。あるいは、私がこのように常識的な人間ではなかったとしたら、可能世界が複数あることを擁護するにとどまらず、自己矛盾によって本当のことが語られる不可能世界も複数あることを擁護していたかもしれない。あるいはまた、私は、この私自身としても私の対応者としても、そもそも存在していなかったかもしれない。人間なるものが一度も存在しないこともありえたかもしれない。また、もろもろの物理定数が、生命の出現と折り合わないようないくぶん異なる値をとることもありえたかもしれない。あるいは、まったく異なる自然法則が存在したかもしれない。電子やクォークの代わりに、電荷や質量、スピンをもたず、この世界の何ものも共有しないエイリアンな物理的性質を備えたエイリアンな粒子が存在していたかもしれない。ある世界ひとつをとっても、その可能なあり方には非常に多くのものがある。そして、これら多くのあり方のうちのひとつがこの世界の現実のあり方なのである。

他のあり方をしているような、他の世界は複数存在するだろうか。存在すると私は主張する。私は、われわれの世界はたくさんある世界のうちのひとつにすぎないと主張する世界の複数性テーゼ、すなわち様相実在論を擁護する。他の世界は数えきれないほどたくさんあり、これら他の世界もまた非常に包括的である。われわれの世界は、われわれやわれわれをとりまくすべてのもの(時間と空間においてどれほど遠くにあるとしても)から構成されている。われわれの世界はより小さいものを部分としてもつひとつの大きなものなのだが、ちょうどそれと同じように、他の世界もまたその世界におけるより小さいものを部分としてもつ。これらの世界は、遠くの惑星のような何かである。ただし、それらの世界の大部分は単なる惑星よりもずっと大きく、どこか遠くにあるというわけではない。どこか近くにあるわけでもない。それらはそもそも、ここからなんらかの空間的距離にあるわけではない。それらはまた、過去あるいは未来向きに遠くにあるわけではなく、近くにあるわけでもない。それらはそもそも、現在からなんらかの時間的距離にあるわけではない。それらは孤立分離している。つまり、異なる世界に属するもののあいだには、いかなる時空的関係もないのである。ある世界で起こったことが原因となって、別の世界で何かを引き起こすというようなこともない。異なる世界に属するものがオーバーラップするということもない。つまり、異なる世界が部分を共有することはないのである。ただし、繰り返し現れるという特権をもつ内属的な普遍者に限っては、おそらく話は別だろう。

これらの世界はたくさんあって多様である。それらのうちには、(おおざっぱに言えば)私が予定通り本を書き上げた世界や、私が不可能世界の実在論のために本を書いた世界、人間なるものがまったく存在しない世界、物理定数が異なるがゆえに生命の発現が許されない世界、まったく異なる法則がエイリアンな性質を備えたエイリアンな粒子の振る舞いを支配する世界等々が含まれるほどに、十分にたくさんの世界がある。じっさい、他の世界は非常にたくさんあるので、あるひとつの世界の可能なあり方のおのおのに対して、なんらかの世界の現実のあり方が必ず対応している。そして、世界について言えることは、世界の部分についても言える。ある世界のある部分の可能なあり方は非常にたくさんある。そしてここでもまた、他の世界は非常にたくさんあり多様であるので、ある世界のある部分の可能なあり方のおのおのに対して、なんらかの世界のなんらかの部分の現実のあり方が必ず対応している。

他の世界は、このわれわれの世界と種類において同じである。もちろん、異なる世界の部分をなしているもののあいだには種類における違いがある。ある世界には電子があるが別の世界にはなく、ある世界には霊魂があって別の世界にはないこともある。しかし、これらの種類における違いというのは、一個の世界を構成するもののあいだにときとして生じるようなものと大差はない。たとえば、ある世界では電子と霊魂が両方存在することはある。この世界と他の世界のあいだの違いは、カテゴリーにおける違いではない。

また、この世界は、その存在の仕方において他の世界と異なるわけでもない。存在の仕方の違いというアイデアをどう考えるべきか、私には皆目検討もつかない。この地上に存在するものもあるし、地球外のどこかに存在するものもあって、ひょっとすると、特にどこという場所に存在するわけではないものもあるかもしれない。だがしかし、このことは存在の仕方における違いではなく、存在するものについて、それらのあいだに位置における違いがあったり、位置をもったりもたなかったりするというような違いがあるということにすぎない。同様にして、このわれわれの世界に存在するものもあるし、他の世界に存在するものもある。しかし、繰り返しになるが、このことは存在するもののあいだの違いであって、その存在の仕方における違いではないと私は考える。厳密に言えば、この世界のものだけが本当に存在する、あなたはそう言うかもしれない。そして、私は同意するにやぶさかではない。しかし、私の考えるところでは、この「厳密な」言い方というのは、じつは制限つきの言い方なのであって、それはちょうど、ビールは全部冷蔵庫のなかにあると言うときに、存在するすべてのビールの大部分を無視しているのと同じことだ。存在するすべてのものに対して量化を行なうのではない場合、(非制限的な言い方に従うと)端的に存在するもろもろのものが無視される。他の世界にあるもろもろのものを無視して、自分たちと世界を同じくするもの(世界メイト)に対して制限的に量化を行なうことはしばしばとても分別のあることだとは言えるけれども、私が正しければ、それら他の世界のものも端的に存在している。もしも私が誤っているとすれば、他の世界のものは端的に存在しない。それらは、ラッセル集合がそうであったのと同じように、間違った理論に従う限りにおいてのみ存在する。なんらかの間違った理論に従う限りにおいてのみ存在するというのは、何か劣った仕方で存在するということではない。そのようなものは、そもそも存在しないのと同じである。
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ブラックホールとホーキング

『ブラックホールはそれほど黒くない』より ホーキング

ベケンシュタインは計算を完成させるべく研究を続けた。この若き学生は、ついにブラックホールが温度を持っているということをつきとめた。だが、そこまでがベケンシュタインの限界だった。はじめは、彼ですら、エントロピーとブラックホールのサイズという比較からは逃げ腰だった。ブラックホールは何でも吸い込み続けると誰もが考えていた。何も発しないと。したがって、温度などあり得なかった。温度があるということは、熱として測れる放射を出しているということを意味する。「そのような認識はさまざまな矛盾にぶちあたってしまい、採用できない」とベケンシュタインは一九七三年の論文で結論している。こうして、トップクラスの理論家すべてが、ブラックホールの温度は「明白にゼロ」であると宣言した。

スティーヴン・ホーキングもそう思っていた。彼はベケンシュタインのブラックホールがエントロピーを持つという考えにひどく懐疑的で、その結論は誤りであると証明する論文を発表する計画だった。「ある部分、ベケンシュタインヘのいら立ちも動機だった」とホーキングは『ホーキング、宇宙を語る』で書いている。事象の地平線の面積が増大することについてホーキングが以前書いた論文をベケンシュタインは誤って使っていると感じていた。「しかしながら」とホーキングは「結局、彼は正しかった」と認めている。

大きなエントロピーでは放射も起こるということに、最初はホーキングは疑念を持っていた。まさに定義により、ブラックホールからは何物も出てこない。それとも出てくるのか?ホーキングはこの問題を追求していくにつれ、ますます関心を持つようになり、ついに理論的な大成果の一つにつながっていく。

ホーキングの見解は、ブラックホールというものを異なる視点、原子的視点から見たときに変わった。彼はこの線に沿って想いを巡らせた。一九七三年秋にモスクワを訪れたとき、ひらめくものがあった。そこでホーキングは、ヤーコフ・ゼルドヴィッチや彼のところにいた大学院生アレクセイ・スタロビンスキーと話を交わした。二人は、ブラックホールが自転している場合、自転エネルギーから放射エネルギーに変わり、したがって粒子ができることを示唆した。この放射は、ブラックホールの自転が遅くなり、止まるまで続くという主張だった。

この問題について、ホーキングは独自に数学的に取り組んでみた。その結果、驚くべきことに自転しているか否かにかかわらず、すべてのブラックホールが放射しているということを発見した。のちにこのことをホーキングは、有名な彼の本『ホーキング、宇宙を語る』の中の章のタイトルで語っている。すなわち「ブラックホールはそれほど黒くない」と。

ホーキングは、この発見を一九七四年二月に、オックスフォード近郊のラザフォード研究所で開催された量子重力に関するシンポジウムで発表した。彼の報告はすぐさま三月一日号の『ネイチャー』誌に載った。ホーキングの発表と論文にはおもしろいタイトルが付けられていた。「ブラックホールが爆発する?」。彼が爆発と言ったのには理由がある。量子力学をブラックホールに応用したとき、ホーキングはブラックホールがあたかも熱い天体であるかのように、粒子を発生させ、放出することを見出したのだ。結果として、ブラックホールは質量を減少させていき、ついには最後の爆発で消滅してしまう!その定義により、ブラックホールは呑み込んだものは出てこないとされてきたわけだから、この発見でブラックホールの物理学は大きくひっくり返ることになった。何も放出せず、消え去ることもないと思われていたのだ。

ホーキングは、太陽の数倍程度の質量のブラックホールの場合、完全に蒸発してしまうまでに宇宙の年齢よりはるかに長い時間がかかると見積もった。恒星質量ブラックホール(あるいはそれ以上の質量のブラックホール)では、一〇の六六乗年以上の時間がかかる計算になる。しかし、極めて小さいブラックホールがビッグバンの乱流の中で作られたとすると、それらは、現在消滅していることになる。そうした「小さな」天体でも、一〇〇万メガトンの水爆と同等のエネルギーを放出することになる。

言うまでもなく、この考えは彼の同僚物理学者の関心を集めることはなかった。相対論研究者のヴエルナー・イズラエルは「出版されるとすぐに強硬な反論を受けた……疑念は続き、実質的に疑念一色だった」と言った。二月の会議で初めてホーキングがその結果を公表した際には、〔蒸発説は〕信用ゼロの状態で迎えられた。話の終わりの方で、セッションの座長ロンドン大学キングスカレッジのジョン・テイラーはまったくのナンセンスであると主張し「申し訳ないがスティーヴン、まったくくだらない」と言った。

しかし、二年たつうちに次第に、ホーキングは驚くべき突破口を発見したのだと理解されるようになってきた。「たいへん満足したと思う」とベケンシュタインは言う。「これで、ブラックホール熱力学の欠落部分が見つかったのだ」。ブラックホールの温度はゼロではなく、ブラックホールから出てくる放射の温度だった。そのような放射は「ホーキング放射」として知られるようになった。

ホーキングは、ブラックホールが原子以下のスケールで周囲にどう影響するかを考えることで結論を得るに至った。時空はブラックホール近傍でねじられているため、ブラックホールのちょうど外側で、核子と反核子のペアがいきなり存在するようになる。その現象を、ブラックホールの強烈な重力場からエネルギーを抽出し、物質化したと解釈できる。

しかし、極めて微小なレペルの物理学の話であるため、事象の地平線の正確な境界はかなりあいまいなものとなる。したがって、ときには新たに作られた粒子の一つがブラックホールヘと消えていき、決して戻ってこないが、一方で、残りのうちの一つは、ブラックホールの外にあり、飛び去るようなことになる。結果として、ブラックホールの全体としての質量‐エネルギーの量はわずかに減少する。これは、ブラックホールが実際に蒸発しているということだ。粒子単位の非常にゆっくりしたペースで、ブラックホールは質量を失っていく。

恒星サイズのブラックホールでは、こうした奇妙な量子力学プロセスはほどんど意味を持たない。先に述べたように、普通のブラックホールが縮小し、何も残らないような存在になるまで、数兆年のさらに数兆倍かかってしまう。放たれる放射から測定される温度は、絶対温度の一度の一〇〇万分の一に満たない。しかし、ホーキングは、ビッグバンの最初の乱流時に初期の宇宙は小さなミニブラックホールを多数発生させたと示唆した。丘を転がり下るボールのように、そのようなミニブラックホールの蒸発は、時間経過とともに加速していく。こうした小さな原始天体は質量を失うほどに、粒子の脱出がいっそう容易になり、ミニブラックホールは破滅的最期に達するまでどんどんペースを上げて蒸発していく。

もし、ビッグバンがミニブラックホールを作り出したのなら、最小のものは、その末期の光を我々が観測する以前に消滅してしまっているだろう。しかし、一つの山程度の質量がある天体なら、短時間にガンマ線バーストを起こす最後の瞬間には、まだ陽子ほどのサイズであろう。そのようなミニブラックホールからの信号は、まだ確実に検出されたという例はないが、特有の信号を検出しようとする試みは続いている。
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豊田市図書館の23冊

031.5『ギネス世界記録2017』

293.8『るるぶロシア』

209.5『<情報>帝国の興亡』

024.06『アマゾンと物流大戦争』

162『「宗教」で読み解く世界史の謎』

953.6『ゴリオ爺さん』

596.7『TEA BOOK』

490.15『ホスピスからの贈り物』

201『近代史における国家理性の理念 Ⅰ』

201『近代史における国家理性の理念 Ⅱ』

233.06『レンズが撮られた19世紀英国』

290.93『aruco チェコ』

361『社会学講義』

290.93『メキシコ』

973『ひつじのドリー』

460.7『STAP細胞はなぜ潰されたのか』

336.2『超仮説思考』

316.88『ユダヤ人』

391.38『図解 城塞都市』

369.31『日本震災史』

134.96『存在と時間2』ハイデガー 中村元訳

596.04『ひさしぶりの海苔弁』

908.8『けさのことばⅦ』

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未唯宇宙 第2章 社会編 詳細

3.3「ハメリンナ」

 3.3「ハメリンナ」。これは中間の存在、コミュニティで何をするのか、市民がすること。それが循環を動かす元になることを示しています。もっと、具体的にします。

 中間の存在の四つのこと。コミュニティであること。メンバーはやれることは自分でやる。他に対して、アピールする。専門家を育成して、力にする。EUに対して、直接申し入れる。

 ハメリンナで習得したのは、チームで活動する、行政には依存しない。自分たちでやっていくこと。アピールアンケートでアウトリーチして拡げていくこと。

 市民は何をしたらいいのか。自分たちが主役であり、自分たちのニーズで動くこと。インフラは自分たちの要望で順位づけられる。主力は組織ではなく、若者と女性である。中間の存在が動きながら、循環を意識して、グローバルを動かしていくと同時に、市民を支援していく。

3.4「配置」

 3.4「配置」は今までのハイアラキーのカタチから、配置しながら循環で位置づけられることになっていく。社会編は3.4で結論まで行き着きます。3.5移行は、各ファクターの説明になります。

 最初に覚醒が来る。市民が分化できるようにしていくこと。その力をどう使っていくのかが3.4に当たります。配置は上から与えられるものでなく、自分から動かすもの。それを動かすのが分化から来る覚醒です。

分配から分散

 ハイアラキーは集中したところから分配することで、依存がベースになる。配置では分散して、自分たちでやっていくことになる。分配自体が限界に来ている。それは国債の状況を見れば分かる。地域で地産地消はお米を作るとか、エネルギーを作ることではなく、自分たちが主体になることを示す。

静脈の発想

 これを人間の身体にたと得たのが、静脈の発想である。心臓ありきではなく、静脈が先にあって、その活動で身体を動かす。血液で統合していく。心臓の蘇生も可能にする。それがあることで、対外的には一つの塊になる。つまり、統合です。

 そのために権限、特に保証制度みたいなものを社会として変えていく。行政をいかに自分たちのモノにしていくのか。行政をいかに循環させるのか。政治を地域で動かすためには市民の覚醒が必要である。それで細胞が生き生きしてくる。

3.5「中間の存在」

 3.5「中間の存在」は、コミュニティ機能を取り上げています。何のために必要かと、機能そのものです。乃木坂も一つのコミュニティとして、頭にイメージします。生活者が集まり、情報の集約を図る。一つの塊として、企業とか行政に対峙していく。

 知識と意識を集めること。地域の頭がコミュニティがあり、真ん中からしっかりして、下に覚醒を促し、上には文句を言っていくことになる。

 数学で言うところの座標系があって、その中に位置づけるのではなく、自分という点を中心として、近傍毛を生み出し、全体をカバーリングしていくという、トポロジーの発想をカタチにしたモノです。

状況把握と情報共有

 その場で何をするかというと、大きいのは状況を把握すること。これは今までは組織がないとできなかったけど、ソーシャルで可能になった。

 情報が共有できることになって、危機感を徹底するには、日本の大きさが問題になる。フィンランドのように500万人レベルが妥当であろう。日本を20分割すればいい。

 それとも、日本という単位をあまり関係なしにしておけば、もっと自由に振る舞える。500万人の地域と上海が一緒になるとか。それは、ハメリンナとラトヴィアが一緒になるようなものです。それによって、国の定義が変わってきます。多くの人が居きられる単位を探す。

3.6「インフラ」

 3.6「インフラ」。地域のインフラを作り替えないといけない。最大の目的はクライシスに対応するためです。今のように中央制御で地域クライシスを対応できない。フクシマにしても福島が中心になります。政府は原発を守るだけです。

 自律して、クライシスに対応するために、自分たちの要望によって、地域インフラそのものを見直します。一番は地域でエネルギーをどうしていくのかになります。これは30年以上前のソフトパスの考え方を使っていくことになります。

 今まで国単位でやってきたのは、技術に依存したからです。技術が解決してくれる。その際に効率がいいのは、国のハイアラキーを使っていくことでした。そんなものには依存できない。生活者に依存するとなると話は変わります。そんな大きな単位はいらない。小さな単位でないと対応できない。

 かつ、家庭の負担を考えると、何を中心にするかは、自分たちで合意形成できる方法でやっていく。インフラ工事も自分たちでできるものは自分たちでやっていく。それをやっているのは、富山などのコンパクトシティ構想でしょう。ただし、市長などの行政が中心ではなく、若者とか女性が中心になって、自分たちで決めていくしかない。

「合意形成」

 そのための合意形成は単純な多数決ではない。コラボが前提です。完全に分化の世界だから、手段が変わっていきます。ソーシャルネットもメディアも自分たちのモノにしていきます。

 発信するものに対して、受けるものと連携するものが必要です。ポータルについては、販売店の業務で実験済みです。何がポータルで必要なのか。販売店でやったときには、まだまだ依存関係が強くて、経営者が中心になってやるカタチになった、自分たちに何が必要なのかはサラリーマン試行で考えていなかった。

 合意形成のプロセスも実験したけど、自分たちのものになっていない。そこで気づいたのは、サファイア循環の事務局です。循環の中でどう考えていくのか。どう回していくのかというところです。循環の中の配置で考えていく。

自由と平等のトレードオフの解決

 ここからは民主主義の根本に関わるところになります。民主主義にとっては、自由を取ると平等がなくなる、格差が広がります。トレードオフです。これは民主主義を国という単位で考えるからです。治めるものと従うものとの関係で考えている。これを中間の存在で作り上げる世界になると、新しい平等が生まれます。その平等意識を作り出すのが、合意形成です。

3.8「サファイア社会」

 社会編の結論としては、3.8「サファイア社会」でまとめています。大きいのは分化と統合、それをまとめる中間の存在、全体として存在の力と自由と平等のサファイア社会を作り上げる。存在の力はバックボーンとしてあるけど、それを明確にしていく。具体的なつくり方は9章と10章に任せます。

3.1「社会とは」

 3.1「社会とは」。社会はつかみ所がない。最初は日常生活の視点です。ファストフードとかスマホが接点になります。では、どうやって知るのか。一般的には、本と仕事が大きなルートです。あとはメディアです。個人的には女性と歴史です。特に歴史の観点です。今だけ見ていても、何も分からない。民主主義制度も過去から見ていくことと未来を見ることが重要です。

 社会となると、政治・経済の分野。後は法律です。本来、メディアが伝達するためにあるけど、かなりの偏りです。自分で見ていくしかない。それらを地域の活性化から見ることにした。変化が起こるとしたら、地域からと思っている。バックにあるのは複雑性の思想ですね。

3.2「課題」

 3.2「課題」。これは大きな課題と言うよりも、地域の課題。大きい小さいはよく分からない。社会の課題と言ったときに、世の中が変わっていくこと、多様性とかつながり方とか、企業のあり方とか、さまざまなものが絡み合います。どう観点を持って行くか。これは整理していくしかない。上からの観点としたからの観点が必要でしょう。

 ここで、「行政」が出てきます。行政を見るために関与して、アプローチしたけど、やはり分からない。NPOみたいなものとか、ボランティアなどをやってみた。そこからの提案したけど、反応がない。提案していかないと、行政から答えが出てくると思えない。

 ボランティアとしては、図書館、愛知万博、環境学習設備に関与した。そこからインタープリターが重要だと思ったけど、行政に掛ると、碌なものにはならない。他者のことだから、どうでもいいけど、内なる世界から変わってきた。全てを知ること。そのために社会を知る。

地球規模の課題

 地球規模の課題は大きなところで解決できないから、市民との関係で、市民の覚醒、どういう知恵を持ってやって行くのか、変化を起こすにはどうしたらいいのか。大なものを小から、小のものは大から解決していくという。視点を変える試みがここから出てきます。

16thシングルの選抜

 次の16thシングルの選抜はどうなるのか?

 ベビメタルのすぅが居る限り、ひめたんを選抜から外せないでしょう。運営の不名誉になるから。

グランデのカプチーノ

 今日は、玲子さんのマネで「グランデのカプチーノ」です。ココアパウダーを混ぜながら。

今週の豊田市図書館の新刊書

 ハイデガー「存在と時間2」中村元訳がやっと出ました。これさえあれば、今週は大丈夫です。
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