『世界の複数性について』より 現実性 ⇒ 未唯宇宙では「私は私の世界」として、認識している。現実が存在となる。
われわれの世界は多くの世界のうちのひとつにすぎない、と私は主張する。われわれの世界は唯一の現実世界であり、残りの世界は現実世界ではない。なぜそうなるのか。私はこの問題を意味に関するトリビアルな問題とみなす。私は「現実」という語を「この世界」の同義語として用いる。私がこの語を用いる場合、この語は私の世界と私の世界メイトに適用される。すなわち、われわれが部分をなすこの世界とこの世界のすべての部分に適用される。誰か別の人がこの語を用いる場合は、その人がわれわれの世界メイトであろうと、あるいは現実化されていなかろうと、この語は同じようにその人の世界とその人の世界メイトに適用されることになる(ただし、その人がこの語でわれわれと同じことを意味していれば)。私は別のところで、こうしたやり方を現実性の「指標的分析」と呼び、次のように規定した。
「現実」という語、およびそれに類する語を、指標的名辞として、すなわち、発話の文脈がもつ関連する特徴に応じて指示が変化する名辞として分析することを提案したい。名辞「現実」の場合、ここで言う関連する特徴とは、どの世界でその発話がなされたのかということである。私の提案する指標的分析によれば、「現実」は(その一次的意義においては)いかなる世界wにおいてもその世界wを指示する。「現実」は、「現在」という、発話の文脈がもつまた別の特徴に応じて指示が変化する指標的名辞と類比的である。すなわち、「現在」は、いかなる時点tにおいてもその時点tを指示する。また、「現実」は、「ここ」、「私」、「あなた」、「これ」、「前述」とも類比的である。これらはそれぞれ、場所、話者、意図されている聞き手、話者の指さし行為、前に述べられたことに応じて指示が変化する指標的名辞である。
こうして、現実性は相対的な問題になる。すべての世界はその世界自身において現実であり、この意味ですべての世界は同等である。これは、すべての世界が現実であるヽということtゆない。そのようなことが真になる世界が存在しないのは、すべての時点が現在であるような時点が存在しないのと同様である。世界のあいだで成立する「~は~において現実である」という関係は、単に同一性関係なのである。
世界の複数性を受け入れるなら、相対性は避けられない。私は筋の通ったどんな代案も持ち合わせていない。というのも、仮にただひとつの世界だけが絶対的に現実であるとしよう。このとき、そのただひとつの世界だけがもつ--その世界の住人やそれ以外の何かと相対的にもつのではなく、端的にもつ--何かしら特別な差異が存在することになる。この絶対的な差異だとされるものをどのように理解したらよいか、私には分からないのだが、仮に理解できたとしよう。二つの反論が考えられる。
ひとつ目の反論は、われわれは現実のものであるというわれわれの知識に関わる。絶対的な差異なるものがたとえ存在するとしても、相対的な差異かどこかに消えてしまうわけではないことに注意しよう。あるひとつの世界だけがわれわれの世界であり、この世界であり、われわれが部分をなす世界であるということはそれでも正しい。しかし、われわれが部分をなすまさにこの世界が絶対的に現実であるような世界であるとしたら、それはわれわれにとってなんと驚くべき幸運だろうか。すべての世界のすべての人々のうち、圧倒的多数は絶対的な現実性を欠く世界に住む運命にあるのだが、われわれだけは選ばれた少数者だ、というわけである。実際にそうだと考えるどのような理由をわれわれはもちうるのか。いったいどうやってそれを知ることができるのか。たとえば、現実化されていないお金でも、現実化されていないパンを買うことはできる。それでもなお、われわれが部分をなす世界が現実世界であるということをわれわれは確実に知っている--それは、われわれが部分をなす世界がまさにわれわれが部分をなす世界であるということをわれわれが確実に知っているのとちょうど同じことである。いったいどうしたら、これがわれわれは選ばれた少数者であるという知識になることができるのか。
同じことをD・C・ウィリアムズも問うている。彼が問うているのは「現実性」についてではなく「存在」についてであるが、同じことである。というのも、彼は様々な学説について論じているが、それらによれば、いわゆる「存在」は、世界にあるもののいくつかを他から区別する特別な性質となるからである。彼は次のようにライプニッツを非難している。「[ライプニッツは、]たとえば、彼が存在する世界の一員であって、本質の陳列棚に置かれている単なる可能なモナドでないことを、彼がどうやって知ることができるのかをまったくあきらかにしてくれない。」
ロバート・M・アダムズはAdams(1974)でこの反論を退けている。彼によれば、絶対的な現実性についての単純性質理論では、われわれ自身が現実のものであることをわれわれが知っていることの確実性を、次のことを主張することによって説明することができる。すなわち、われわれは、みずからの絶対的な現実性について、みずからの思考や感情、感覚と同じぐらい直接的に見知っていると主張するのである。しかし、私はこれに対して次のように答えたい。もしアダムズや私や他のすべての現実の人々が、絶対的な現実性についてこのような直接的な見知りを本当にもつのであれば、私に姉がいると仮定するだけで、彼女もまたそのような直接的な見知りをもつことになってしまわないだろうか。そうすると、現実化されていない彼女は、遠く離れた別の世界において、私に私の知識を与えるとされるのとまさに同じ証拠によってだまされていることになるのである。
二つ目の反論は、偶然性に関わる(これはアダムズによるものであり、ここでは私は彼に同意する)。どの世界が現実かは、間違いなく偶然的なことがらである。偶然的なことがらは、世界ごとに異なることがらである。ひとつの世界において、偶然的なことがらはひとつのかたちをとる。別の世界においては、また別のかたちをとる。したがって、ひとつの世界においてはひとつの世界が現実であり、別の世界においては別の世界が現実である。これがどうやって絶対的な現実性になるのだろうか。相対性は明白ではないか。
指標的分析は、ひとつの問題を提起する。「現実」が指標詞であるとするなら、それは固定的な指標詞だろうか、それとも非固定的な指標詞だろうか。すなわち、他の世界を考慮している文脈であっても、発話か行なわれている世界を指示するだろうか。それとも、指示は変わるだろうか。通常は固定的な指標詞である「今」と、固定的にも非固定的にもなりうる「現在」を比べてみよう。たとえば、あなたが「昨日は、今よりも寒かった」と言うとする。時点シフト的な副詞「昨日は」のスコープの内部でも、「今」は発話の時点を指示する。同じように、あなたが「昨日は、現在よりも寒かった」と言うとする。このときも、「現在」の指示は移動しない。しかし、あなたが「すべての過去の出来事は、一度は現在だった」と言うなら、時点シフト的な時制つき動詞「だった」は、「現在」の指示をシフ卜させる。私は、「現実」やそれに類する語を、「現在」と同じように扱うことを提案する。すなわち、それらはときに固定的になり、ときに非固定的になる。私に姉がいたとしたらどうなるのか。現実には存在しない人か存在したのかもしれない(固定的なケース)。彼女は実際には現実でないが、現実だったかもしれない(非固定的なケース)。現実には現実でない人が、現実だったかもしれない(両方のケース)。さきほど引用した一節のなかでは、私は非固定的な意義のことを「一次的」と呼んだが、十分な理由があってのことではなかっび。
私が「現実」という語を用いる場合、それは私の世界と私の世界メイトに適用されると私は主張した。すなわち、私が部分をなす世界とその世界の他の部分に適用されるのだった。他の世界の住人がこの語を同じ意味で用いる場合も、必要な変更を加えれば、同様のことか言える。ただし、集合については別の扱いが必要になる。私は、いかなる集合もこの世界や他の世界の部分であるとは言いたくないか、それにもかかわらず、現実のものの集合は現実のものであると言いたい。いかなる集合も位置をもつことはないと言われることがときどきある。しかし、私はこれを信じる理由をまったく知らないし、集合はそのメンバーか位置するところに位置するという見解の方がよりもっともらしいと思う。集合はそのメンバーが散らばっている場合は散らばって存在している。メンバーが位置をもたないときは、その場合のみ位置をもたない。このことは、ひとつの世界のなかのどこに位置するかだけでなく、どの可能世界に位置するかにも同様にあてはまる。在宅しているオーストラリア人の集合がオーストラリアに位置するのと同様に、この世界のものの集合はこの世界に位置する。言い換えれば、現実のものである。同じようにして、オーストラリアに位置する集合すべての集合は、それ自体がオーストラリアに位置し、現実の集合の集合は、それ自体が現実のものである。同じ議論が、集合論的階層をどこまで登っても繰り返し適用できる。
それでも私には、「現実」という語をもっと広い意味で用いたいと思うときもあるかもしれない。何か現実と呼ばれるべきかを一度できっぱりと確定的な仕方で決定する必要はない。結局のところそれは、「何が存在するのか?」のような立派な問いではないのである。それは、「存在するもののうちのどれがわれわれと特別な関係にあるのか?」という問いにすぎない。だが、特別な関係はいくらでもある。われわれの世界ではなく、われわれの世界の部分でもなく、またわれわれの世界の部分だけから構成された集合でもないにもかかわらず、それら以外については私の量化がこの世界のものに制限さ私ているときでさえも私が量化を行ないたいと思うようなものがあるとしよう。このとき、慣習によって、ときどきはそれらを「現実」と呼んだとしても、まったく害はない。実のところ、それらが現実であるかそうでないかについて、いかなる公式見解も拒んだとしても、まったく害はない。これは本物の問いではないのである。
われわれの世界は多くの世界のうちのひとつにすぎない、と私は主張する。われわれの世界は唯一の現実世界であり、残りの世界は現実世界ではない。なぜそうなるのか。私はこの問題を意味に関するトリビアルな問題とみなす。私は「現実」という語を「この世界」の同義語として用いる。私がこの語を用いる場合、この語は私の世界と私の世界メイトに適用される。すなわち、われわれが部分をなすこの世界とこの世界のすべての部分に適用される。誰か別の人がこの語を用いる場合は、その人がわれわれの世界メイトであろうと、あるいは現実化されていなかろうと、この語は同じようにその人の世界とその人の世界メイトに適用されることになる(ただし、その人がこの語でわれわれと同じことを意味していれば)。私は別のところで、こうしたやり方を現実性の「指標的分析」と呼び、次のように規定した。
「現実」という語、およびそれに類する語を、指標的名辞として、すなわち、発話の文脈がもつ関連する特徴に応じて指示が変化する名辞として分析することを提案したい。名辞「現実」の場合、ここで言う関連する特徴とは、どの世界でその発話がなされたのかということである。私の提案する指標的分析によれば、「現実」は(その一次的意義においては)いかなる世界wにおいてもその世界wを指示する。「現実」は、「現在」という、発話の文脈がもつまた別の特徴に応じて指示が変化する指標的名辞と類比的である。すなわち、「現在」は、いかなる時点tにおいてもその時点tを指示する。また、「現実」は、「ここ」、「私」、「あなた」、「これ」、「前述」とも類比的である。これらはそれぞれ、場所、話者、意図されている聞き手、話者の指さし行為、前に述べられたことに応じて指示が変化する指標的名辞である。
こうして、現実性は相対的な問題になる。すべての世界はその世界自身において現実であり、この意味ですべての世界は同等である。これは、すべての世界が現実であるヽということtゆない。そのようなことが真になる世界が存在しないのは、すべての時点が現在であるような時点が存在しないのと同様である。世界のあいだで成立する「~は~において現実である」という関係は、単に同一性関係なのである。
世界の複数性を受け入れるなら、相対性は避けられない。私は筋の通ったどんな代案も持ち合わせていない。というのも、仮にただひとつの世界だけが絶対的に現実であるとしよう。このとき、そのただひとつの世界だけがもつ--その世界の住人やそれ以外の何かと相対的にもつのではなく、端的にもつ--何かしら特別な差異が存在することになる。この絶対的な差異だとされるものをどのように理解したらよいか、私には分からないのだが、仮に理解できたとしよう。二つの反論が考えられる。
ひとつ目の反論は、われわれは現実のものであるというわれわれの知識に関わる。絶対的な差異なるものがたとえ存在するとしても、相対的な差異かどこかに消えてしまうわけではないことに注意しよう。あるひとつの世界だけがわれわれの世界であり、この世界であり、われわれが部分をなす世界であるということはそれでも正しい。しかし、われわれが部分をなすまさにこの世界が絶対的に現実であるような世界であるとしたら、それはわれわれにとってなんと驚くべき幸運だろうか。すべての世界のすべての人々のうち、圧倒的多数は絶対的な現実性を欠く世界に住む運命にあるのだが、われわれだけは選ばれた少数者だ、というわけである。実際にそうだと考えるどのような理由をわれわれはもちうるのか。いったいどうやってそれを知ることができるのか。たとえば、現実化されていないお金でも、現実化されていないパンを買うことはできる。それでもなお、われわれが部分をなす世界が現実世界であるということをわれわれは確実に知っている--それは、われわれが部分をなす世界がまさにわれわれが部分をなす世界であるということをわれわれが確実に知っているのとちょうど同じことである。いったいどうしたら、これがわれわれは選ばれた少数者であるという知識になることができるのか。
同じことをD・C・ウィリアムズも問うている。彼が問うているのは「現実性」についてではなく「存在」についてであるが、同じことである。というのも、彼は様々な学説について論じているが、それらによれば、いわゆる「存在」は、世界にあるもののいくつかを他から区別する特別な性質となるからである。彼は次のようにライプニッツを非難している。「[ライプニッツは、]たとえば、彼が存在する世界の一員であって、本質の陳列棚に置かれている単なる可能なモナドでないことを、彼がどうやって知ることができるのかをまったくあきらかにしてくれない。」
ロバート・M・アダムズはAdams(1974)でこの反論を退けている。彼によれば、絶対的な現実性についての単純性質理論では、われわれ自身が現実のものであることをわれわれが知っていることの確実性を、次のことを主張することによって説明することができる。すなわち、われわれは、みずからの絶対的な現実性について、みずからの思考や感情、感覚と同じぐらい直接的に見知っていると主張するのである。しかし、私はこれに対して次のように答えたい。もしアダムズや私や他のすべての現実の人々が、絶対的な現実性についてこのような直接的な見知りを本当にもつのであれば、私に姉がいると仮定するだけで、彼女もまたそのような直接的な見知りをもつことになってしまわないだろうか。そうすると、現実化されていない彼女は、遠く離れた別の世界において、私に私の知識を与えるとされるのとまさに同じ証拠によってだまされていることになるのである。
二つ目の反論は、偶然性に関わる(これはアダムズによるものであり、ここでは私は彼に同意する)。どの世界が現実かは、間違いなく偶然的なことがらである。偶然的なことがらは、世界ごとに異なることがらである。ひとつの世界において、偶然的なことがらはひとつのかたちをとる。別の世界においては、また別のかたちをとる。したがって、ひとつの世界においてはひとつの世界が現実であり、別の世界においては別の世界が現実である。これがどうやって絶対的な現実性になるのだろうか。相対性は明白ではないか。
指標的分析は、ひとつの問題を提起する。「現実」が指標詞であるとするなら、それは固定的な指標詞だろうか、それとも非固定的な指標詞だろうか。すなわち、他の世界を考慮している文脈であっても、発話か行なわれている世界を指示するだろうか。それとも、指示は変わるだろうか。通常は固定的な指標詞である「今」と、固定的にも非固定的にもなりうる「現在」を比べてみよう。たとえば、あなたが「昨日は、今よりも寒かった」と言うとする。時点シフト的な副詞「昨日は」のスコープの内部でも、「今」は発話の時点を指示する。同じように、あなたが「昨日は、現在よりも寒かった」と言うとする。このときも、「現在」の指示は移動しない。しかし、あなたが「すべての過去の出来事は、一度は現在だった」と言うなら、時点シフト的な時制つき動詞「だった」は、「現在」の指示をシフ卜させる。私は、「現実」やそれに類する語を、「現在」と同じように扱うことを提案する。すなわち、それらはときに固定的になり、ときに非固定的になる。私に姉がいたとしたらどうなるのか。現実には存在しない人か存在したのかもしれない(固定的なケース)。彼女は実際には現実でないが、現実だったかもしれない(非固定的なケース)。現実には現実でない人が、現実だったかもしれない(両方のケース)。さきほど引用した一節のなかでは、私は非固定的な意義のことを「一次的」と呼んだが、十分な理由があってのことではなかっび。
私が「現実」という語を用いる場合、それは私の世界と私の世界メイトに適用されると私は主張した。すなわち、私が部分をなす世界とその世界の他の部分に適用されるのだった。他の世界の住人がこの語を同じ意味で用いる場合も、必要な変更を加えれば、同様のことか言える。ただし、集合については別の扱いが必要になる。私は、いかなる集合もこの世界や他の世界の部分であるとは言いたくないか、それにもかかわらず、現実のものの集合は現実のものであると言いたい。いかなる集合も位置をもつことはないと言われることがときどきある。しかし、私はこれを信じる理由をまったく知らないし、集合はそのメンバーか位置するところに位置するという見解の方がよりもっともらしいと思う。集合はそのメンバーが散らばっている場合は散らばって存在している。メンバーが位置をもたないときは、その場合のみ位置をもたない。このことは、ひとつの世界のなかのどこに位置するかだけでなく、どの可能世界に位置するかにも同様にあてはまる。在宅しているオーストラリア人の集合がオーストラリアに位置するのと同様に、この世界のものの集合はこの世界に位置する。言い換えれば、現実のものである。同じようにして、オーストラリアに位置する集合すべての集合は、それ自体がオーストラリアに位置し、現実の集合の集合は、それ自体が現実のものである。同じ議論が、集合論的階層をどこまで登っても繰り返し適用できる。
それでも私には、「現実」という語をもっと広い意味で用いたいと思うときもあるかもしれない。何か現実と呼ばれるべきかを一度できっぱりと確定的な仕方で決定する必要はない。結局のところそれは、「何が存在するのか?」のような立派な問いではないのである。それは、「存在するもののうちのどれがわれわれと特別な関係にあるのか?」という問いにすぎない。だが、特別な関係はいくらでもある。われわれの世界ではなく、われわれの世界の部分でもなく、またわれわれの世界の部分だけから構成された集合でもないにもかかわらず、それら以外については私の量化がこの世界のものに制限さ私ているときでさえも私が量化を行ないたいと思うようなものがあるとしよう。このとき、慣習によって、ときどきはそれらを「現実」と呼んだとしても、まったく害はない。実のところ、それらが現実であるかそうでないかについて、いかなる公式見解も拒んだとしても、まったく害はない。これは本物の問いではないのである。