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図書館は分化と統合の場

図書館は分化と統合の場

 「記憶を還元する」という図書館の定義は成長しない限りは意味が無い。もうひとつは部分と全体の関係。

 これは分化と統合という動きとつながるものがあります。個の分化をうけるところと統合することで毎回、全体を変えていく。あくまでも部分だけではなく、全体があること。

 部分と全体の関係はよく言われているけど、実際の行動を起こすためのシナリオができていない。できているのはトポロジーだけです。図書館というものの定義があるけど、図書館そのものが有限から無限に変わっていく。

 市民とのつながり、分化と統合が多くなっていく。もうひとつ大きいのは成長すると言うこと。変わっていくだけでなく、成長していく。成長ということは方向が重要。方向を誰が示すのか。
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沖縄の高校生が『図書館戦争』を読んだら

『図書館ノート』より

私が勤務する私立大学の入試制度では、AO入試は一〇月上旬に、推薦入試もて一月上旬に合格者が早々と決まってしまう。一〇〇名にものぼる合格者のなかには、入学が決まった安堵感からか、学校での授業に集中できなかったり、喫煙や飲酒などの事件を起こすこともあるらしく、高校側から「気持ちが浮つかないように大学から何か課題を与えてほしい」という要望もあって、「入学前課題」というものを合格者に課すことになっている。私が所属する学科では課題図書の感想文を課しており、専門領域ごとに一冊ずつ合計三冊を選んだうえで、四〇〇字詰め原稿用紙八枚以上にまとめて提出するように指示している。

合格者が選択できる領域は「近現代文学分野」「古典文学・文化分野」「琉球文化分野」「日本語・国語教育分野」「人文情報分野」の五つである。「人文情報分野」は私が担当することになっているため、司書になりたいという合格者にぜひ読んでほしい本として、『図書館戦争』(有川浩著 メディアワークス ニ○○六)を課題図書の一冊に挙げている。。

課題図書は全領域を合わせると一六冊あるのだが、そこから『図書館戦争』を選んだ合格者は今年度も四三人と圧倒的に多い。私自身も大好きな作品だが、司書志望以外の学生も本書を選んでおり、あらためて『図書館戦争』が高校生にとって、とても魅力的なコンテンツなのだということがよくわかる。

この課題のもともとの目的は「合格後も勉強する習慣をなくさないように」という消極的なものであったため、提出された感想文の出来不出来の評価はせずに、ネットからのコピー&ペーストではないかを取りまとめ役の教員が調べる程度で、課題図書を選定した教員のところに作文が届くことはなかった。ただ、三年前からは私が学科長として合格者の対応を引き受けていることもあって、専門領域の作文には時間を見つけて目を通すようにしている。いざ読んでみると、新鮮な発見や興味深い指摘もあって、はっとさせられることも少なくない。

上の表は今年度の合格者による『図書館戦争』の感想文が取りあげた題材やテーマを大きく分けたものである。

前年度までの傾向としては、登場人物の人間関係や恋愛模様に着目したものが多くを占めていたのだが、今年は本書のメインテーマである「表現規制問題」について正面から向き合ったものが増えている。ただし、このテーマを「図書館」と関連づけて書いた感想文はむしろ減っていて、作中の「四、図書館はすべての不当な検閲に反対する」

この章では、「高校生連続通り魔事件」が起こった後に、「考える会」の介入により、学校図書館の「エンタメ系の本が大量に処分」されたことに不満をもった中学生二名が「考える会」の列にロケット花火を投げ込むエピソードが描かれている。多くの合格者はこの中学生の行動を共感的にとらえているのだが、これは感想文を書く時期にちょうど「東京都青少年条例」の改定問題(二○一〇年)がマスコミで騒がれていたことが影響しているのだろう。感想文のなかには条例の問題点を詳しく調べて書いたものもあり、表現規制・マンガ規制という現実の問題が高校生の日常生活と重なり、本書のテーマに対する理解がいつも以上に深まっているようすがうかがえるのである。

また今年の感想文では、規制を求める側と規制に反対する側のそれぞれの意見を取り上げて、「正論のぶつかり合い」「考えれば考えるほど難しい」として、いったん判断を保留するものがあったのも特徴的である。これまでは「表現規制には反対」という作品のテーマに沿った感想しかなかったことと比べると、「葛藤」が書かれている分、本書のテーマをより真剣に考えようとしている姿勢が現れているように思える。これも現実の問題が影響しているのだろう。

私が最も印象に残った感想文は、「図書館の自由に関する宣言」のなかの「図書館の自由が侵されるとき、われわれは団結して、あくまで自由を守る」という項目への違和感を書いたものであった。

この感想文を書いた高校生は、「この〈我々〉というのは作中では図書を守る立場にある『図書隊』の役割であるわけだが、現実の方となるといったい誰になるのだろうか?」と冒頭で投げかけている。そして、「真っ先に出てきたのは図書館で働く図書館員である。けれど、私は多くの図書館を知っているわけではけして無いのだが、図書館員というのは一つの図書館にそう大勢は居ないのではないかと思った。少人数では、〈あくまで自由を守る〉ことは難しそうである」と綴られている。そして、感想文の最後には「この〈我々〉の答えが一体何処にあるのか分からなかったが、私はその答えが『私を含めた図書館利用者=一市民』であれば良いと思った」とまとめられている。

「図書館の自由に関する宣言」は何度も読んでいるはずだが、この感想文を読むまで、「われわれ」という言葉が図書館員以外を指しているとは考えたこともなかった。確かに、「自由宣言」の副文を読み返してみると「われわれは、図書館の自由を守ることで共通の立場に立つ団体・機関・人びとと提携して、図書館の自由を守りぬく責任をもつ」と記されている。図書館員が連携する対象が挙げられているため、ここでの「われわれ」は「図書館員」を指していると考えるのが妥当である。しかし、そうした二元論的な解釈は自由宣言の主旨からすると無意味だろう。この合格者が言うように、「我々」のなかに「図書館員以外の一市民」が含まれるという解釈は間違いではないだろうし、東京都での条例改訂の動きをみると、積極的にそう解釈することふさわしい社会になりつつあるようにも感じてしまう。素朴な感想ではあるが、胸を突く鋭さが含まれているように思う。

私が課題図書として『図書館戦争』を挙げている第一の目的は、司書志望の合格者に対して、「図書館の自由」という理念があることを知ってほしいということにあるのだが、もう一つ隠れた意図があることもここで告白したい。合格者には、本土(沖縄県外の)出身者も毎年数人は含まれているが、九五%以上は地元の、つまり沖縄の高校生である。

以前、『図書館戦争』を評した専門家のコメントのなかに、「図書館の自由」と「戦闘」を結びつけることに対して「違和感」を表明したものがあった。私が勤務する沖縄国際大学は普天間基地と道路をはさんですぐの場所にあり、入学前から否応なしに戦争・平和という問題を考えなければならない環境にある。本書のメインテーマは「表現規制」や「図書館の自由」であるが、「戦闘、戦争」という素材を用いた作品を沖縄の高校生はどう読むのか、という興味が、私には密かにあったのである。

結論を先に言うと、「戦争」や「平和」というキーワードに結びつけて書かれた感想文はわずか二作しかなかった。一つは昨年の「尖閣諸島中国漁船衝突事件」と絡めて政府による情報規制が国民の知る自由を侵害することで、戦争という過ちをふたたびくり返してしまうのではないか、という問題提起、もう一つは「メディア良化法」のような政府による表現規制が進めば、普天間基地問題の国内外移設を求める「県民の怒り」も届かなくなってしまうのではないか、という不安を書いたものであった。

その一方で、男子生徒の感想文のなかには、作中に登場する武器や軍の組織などディテールに感嘆する感想文が三人から寄せられた。その内、一人は「図書館戦争というタイトルをみて、興味を持たない男子高校生はいないと思います」と書いている。こうした状況をどのようにとらえるべきなのだろうか。

小説の感想とは離れてしまうが、沖縄で図書館学を教えることにつながる大きなテーマが隠されているようにも思う。
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ナチス「無駄なくせ闘争」の十ヵ条

『ナチスのキッチン』より ⇒ 総力戦のターゲットが家庭なんですね。キャッチフレーズは美しい! 実態はバレバレだけど。市民は常に裏の裏を読まないといけない。その為に「本」がある。

闘争の十ヵ条

 ところでショルツ=クリンクとバッケは、「無駄なくせ闘争」の開戦にあたりて、主婦に向けた十ヵ条の要望を発表する。ここには、ちようど「アイントップの日曜日」運動がそうであったように、台所を国家とダイレクトに結びつける表現が多い。それぞれの条文に、主婦の自尊心を刺激し、主婦を発奮させるようなレトリックが用いられているので、ひとつすつみていこう。

 一、「無駄なくせ闘争」は民族の価値ある財産を救う。食糧の自由に貢献する。

  第一次世界大戦時のイギリスの経済封鎖によって、ヨーロッパ大陸外からのドイツの食糧輸入が一切断たれた悲劇を繰り返さないため、いつ戦争が起こっても大丈夫なように国内の食糧を確保せよ、というニュアンスが「自由」という言葉に込められている。つまり、自由とは、イギリスからの自由であり、世界市場からの自由であり、逆説的にいえば、いつでも戦争を行なうことができる自由をも意味しているのである。

 二、勤勉な主婦であれば、食べものをけっして無駄にしない。

  主婦に「勤勉」であることを要求している。「無駄なくせ闘争」の女性政策の本質は、この「勤勉」にある。たとえば、当時はまだ高級品であった冷蔵庫を購入したり、食料保存庫を改良したりするには費用がかかる。そうではなく、主婦の自助努力によって一億五〇〇〇万ライヒスマルクの無駄を削りなさい、とシュルツ=クリンクおよびバッケは説いている。

 三、いつも、旬のもの、ドイツの土地で収穫したものを買え。

  現在の日本の文脈に即していえば、これは地産地消運動やエコロジー運動のさきがけであろう。ドイツ産の旬の食材を購入することで、たとえばドイツの気候では育たない地中海産の果物を購入するさいの輸送経費を省く、というねらいがここにはある。さらにいえば、ドイツの旬の野菜や果物を主婦があらためて知ることは、ドイツの自然や文化を知ることでもあり、主婦の国民化政策としても重要である。

 四、手塩にかけて育てられた農作物を購入する人は、それを適価で購入することによって、質の高いドイツの農業生産に貢献するのだ。

  これは、公定固定価格とは異なる値段で食料が売買される闇市への牽制であろう。ドイツ産の食料品をしかるべき価格で購入し、国内市場を掻き乱さないことは、主婦の重要な義務である。だが、ナチ時代、闇市の売り手も買い手も犯罪者とみなされたにもかかわらず、第一次世界大戦と同じように、それが全国いたるところに出現したことは見逃せない。

 五、必要以上に作物が生産され、台所、地下貯蔵庫、食料倉庫において食べものを傷みから守ることができる場合にかぎり、買いだめをせよ。

  食べものが不足しているからといって安易に買いだめをして、市場を混乱ぎせることを戒めている。計画的に理性をもって買い物をすることを要請しているのみならず、結果的には、一九三九年の開戦と同時に実施された戦時配給制の精神的な準備にもなった。また、食材を煮詰めて保存する手法は、さまざまな料理本や雑誌で紹介された。

 六、汝が買いだめしたものを、宿敵たち、つまり汚れ、暑さ、霜、害虫から、日夜防御せよ。

 七、出現したすべての有害生物と即座に、そして精力的に戦え。なぜなら、その有害生物から百万の破壊者が産まれるからだ。

  これは両者とも、バッケの演説と重なる。過激な表現であるが、のちに「清潔なる帝国」と呼ばれた第三帝国の過剰なまでの清潔志向、主婦の平凡な日常がしつは戦争であると思わせる比喩、敵への憎悪の創出の巧みさをみることができるだろう。これは、ユダヤ人を「寄生虫」と呼んで忌まわしさを増幅させるレトリックとそれほど遠くない。ナチス・ドイツを「清潔なる帝国」と呼んだのは、ハンス・ペーター・ブロイエルであり、それはそのまま彼の本のタイトルになっていて、ブロイエルはもっぱら性問題や人種主義についてのナチスの「清潔さ」を指摘している。だが、そればかりでなく、「無駄なくせ闘争」にみられるように、家庭の台所を清潔に保つことから、国家財政を運営するための無駄をとことん排除し、さらには人種の「純潔」を守るためにユダヤ人やスラブ人を排撃する暴力にいたるまで、もっと広義の清潔志向を考えなくてはならないだろう。そうしてはじめて、ナチス・ドイツを「清潔なる帝国」と呼ぶことができるのである。

 八、愛は食事によって表現できる。そのために、食事は丹誠込めて、十分な理解をもったうえで、調理せよ。

  前条までの好戦的な文句とはうってかわって、突然、ロマンティックな響きをもつ条項が現れる。この「愛」とは何か。ここで思い出されるのは、第2章で引用したエルナ・ホルンの「美味しい料理によって主婦は夫の愛を獲得する」という一節、あるいは第4章で引用したマジー・ハーンの表現、「夫の心への道は、胃袋を通っている。

  〔……〕愛だけでは配偶者の幸福の持続を保証することはできません」であろう。これらの言葉と同様に、第八条も、基本的に、家族愛の醸成の核に料理を据えている。

  だが、問題なのはそれだけではない。「無駄なくせ闘争」が国家プロジェクトである以上、それは民族愛であ79、国家への愛でもなければならない。だからこそ、この「愛」には修飾語が付されていない。こうした愛の連鎖も、すでに述べたように、新聞や雑誌をあまり読まない人びとをも巻き込む「食」というメディアの特色である。

 九、良き主婦は。食材の残りを目的に応じて再利用する。それによって家參に費やされる夕金を蓄えよ。

  食材の残りを、たとえば、農家なら畑の肥料に、都市の住人なら家庭菜園の肥料にすることで、リサイク片を奨励している。この試みにかんしては、次節で詳しく触れたい。

 一〇、無駄なくせ闘争は、ドイツ民族が作った収穫物への感謝なのだ。

  十ヵ条の最後は、こう締めくくられている。家の台所が、生産地と直接つながっていることを、この条項は想起させる。

 この十ヵ条は、主婦を挑発し、創意工夫をさせ、家事労働に緊張感をもたせる。女性を台所に閉じこめる、というよりは、台所から新しい社会を建設するというプラスのイメージを感じさせる演出なのである。この十戒は、冊子やビラなどに書かれ、主婦たちに配布されていった。
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ナチスのキッチン ラジオによる台所の統制

『ナチスのキッチン』より ⇒ いかにも、ドイツ的なアプローチ。日本の場合は、標語と町内会で統制していた。この統制を民族意識とかませた文献はあるのか? 当たり前すぎて、論文にもならない。この国の最大限の弱さであると思う。

女性への宣伝を担ったメディアは、雑誌、新聞、演説だけではない。ヴァイマル時代に世界を席捲したニューメディアでありたラジオも、「主婦のナチ化」に大きな貢献を果たしていく。ドイツでラジオの設置してある世帯の割介は、一九二五年にはわすか六・七パーセントにすぎなかったのが、一九三三年には四分の一にまで上昇する。ナチ時代に「民衆受信機」という名の安価なラジオ受信機の大量生産が軌道にのったことで、その割合はさらに上昇する。一九三九年にはドイツ(一九三七年の領土)の全世帯のうち、半数の世帯にラジオが設置され、一九四一年には六十五パーセントになった。

ヴァイマル時代からナチ時代までの農村におけるラジオの普及過程について研究したフローリアン・ツェブラは、ラジオが消費統制政策に重宝された事実を伝えている。たとえば、国営ラジオ局マンブタタ支局は、一九三四年四月から六月にかけて、週に一度、料理レシピを紹介した、という。しかも、その主菜の添え物は、地元の食材を使ったもので、アスパラガス、卵、カブ、ジャガイモがとくに強く勧められた。というのも、これらの作物を使用するキャンペーンの要請を地元の農政担当者から受けたからであった。

また、一九三四年十二月には、食糧農業省事務次官バッケの名前が付された通達によって、外国産と国産の価格を比べる情報をラジオで流すことと、さらに、ラジオで農民の優位性を強調することを避けるように、との指示が出された。これは、労働者が、安価な外国産の食料を購入したり、自分たちよりも農民のほうが政府に優遇されていると疑ったりすることを未然に防ぐためである。

もちろん、ナチスの女性団体も、ラジオを積極的に利用する。本書では実際にごのような家政関連番組が放送されたかを調査することはできなかったが、べルリン連邦文書館所蔵「国民経済=家庭経済」のファイルのなかに、ラジオ番組の提案が二十一ページにわたって記された書類を見つけたので、参考までにそれを紹介したい(以下、連邦文書館の引用には請求記号を付す)。

これは「一九三八年から一九三九年にかけての冬期のラジオ番組の提案」というもので、全国女性指導部の出版プロパガンダ部ラジオ専門チームが作った書類である。ここでは、たとえば、「家事--将来有望な職業を目指す女性のためのステップボード」という女子の家政教育にかんする番組、あるいは「しっかり立てた計画は、あなたの名アシスタント」という、母親が家事手伝い人や未婚者たちを指導するやり方を放送する番組がある。後者の番組のなかには、ラジオの男性レポーターが勤勉な主婦「シュミットさん」の家に訪問して、とくに洗濯の方法なくその指導ぶりを取材するものもあり、なかなか充実した内容である。

本書の関心からして興味深いのは、「家族の健康は正しい食事次第、国民経済の健康は主婦の経済観念次第」という番組である。ここでは、百年にわたって肉と脂肪に偏りつつある食の変化を反省し、それがリューマチや代謝疾患をもたらしていることを警告したうえで、当時めざましい発展を遂げていた栄養学の知識を用いることでその危機を乗り越えるための、心構えとレシピが紹介されている。

ドイツの代表的な食材であり、しかもヴィタミン豊富なジャガイモを有効に料理すること、食材が乏しい冬の「正しい」買いものの方法や、「正しい」食料保存方法、とくに霜から守るための方法、あるいはしばらく冷水に浸し、それによってデンプンが化学変化をおこして蓄積された糖分を溶かして流す、という霜にかかったジャガイモから甘みを消す方法などが語られている。

また、油脂のかわりに、ドイツ産のテンサイから精製できる砂糖の使用も奨励されている。砂糖は栄養学的にいっても、熱やエネルギーの素になるだけでなく、消化によく、他の食材にすばやく浸透する優れものである。甘い料理を食事のときに出してもいいし。果物の砂糖煮も冬には不可欠である。クリスマスには脂肪を少なくし。その代わりに砂糖を増やしたケーキを作る。パンは、国民の健康のために黒っぽいパンを、つまり、ライ麦パンや全粒粉のパンを食べるべきだ。タンパク質と脂質がふんだんに含まれている魚料理も、価値が高まりつつある、という。

なお、この時期、ドイツ婦人事業団では、「フォルクスヴァーゲン」ならぬ「フィッシュヴァーゲン」という宣伝車を都市や農村に走らせ、魚のキッチン・デモンストレーションを敢行していた。ある研究によれば、実際に、第二次四ヵ年計画の枠組みのなかで、一九三八年だけで約七八〇〇に及ぶコースの調理デモを行ない、一回につき平均十八人から二十人の参加者が訪れた、とされている。

ふたたびラジオ番組に戻れば、ニシンの煉製、コイ、カニなども推奨されている。ちなみに養鯉はヨーロッパの内陸部でさかんに行なわれて、海から遠い農村の貴重なタンパク源を供給してきたものである。さらに、反肉食も繰り返し訴えており、肉の代わりに、魚のみならす、ジャガイモや野菜を使った団子、粗挽きの粉、ひきわりの麦ノ豆類を野菜と一緒に混せてつくる焼き団子が勧めている。もちろん、アイントップの紹介コーナーもある。また、冬に不足しがちなヴィタミン源として、ヴィタミンBおよびCが豊富なキャベツ、とくにザウアークラウトも扱われている。

というように、このラジオ番組の提案書はきわめて具体的であり、この前年には少なからぬ提案が実現しているような印象を与えるのだが、全体としてみると、やはり、調理の基礎として栄養学用語が頻繁に用いられていることが際立っている。「ヴィタミン信仰」の篤さは相変わらすだし、脂肪より砂糖へという論調も、また肉食批判も、ほとんどその文脈で語られている。国民経済的視点をさりげなくいれることも忘れていない。

以上のような、進歩するメディア技術、存在感を増す栄養学、そして緊迫した食糧状況の相乗効果が、かつてなかったほどまでに台所に国家権力を浸透させる。国家権力といっても、それは暴力を伴わない。パンフレットの配布やヴォランティア活動のように自発性を喚起する、いわば「柔らかい権力」である。食品の購入から、保存、調理、残飯の分別にいたるまで、台所は政府の厳しい目にさらされた。こうして監視される台所と、そこで調理される食べものを通じて、ドイツ国民は、身体の外側からだけでなく内側からも戦争に適応可能な人間に変えられていく。

宣伝は、台所でも容易に聴くことができたに違いないラジオはもちろん、新聞、雑誌、演説によっても頭にすり込まれる。店の棚から、まな板を経て、胃のなかに収まる過程で繰り広げられる「食」というメディアを通じたこのような宣伝は、それが朝昼晩と一日三回も繰り返される習慣であり、心身の調子にもダイレクトに影響を与えるだけにいっそう根深く、またやっかいなのである。

女性は「第二の性」であり、「第一の性」である男性に奉仕すべきだ、というナチスの男性中心主義。だが、こうしたイデオロギーとはうらはらに、主婦たちは、台所という空間からさまざまな通路を通って外とつながっていく。具体的な事例を以下にみていこう。
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