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イスラーム諸派の形成

『イスラーム信仰概論』より 信仰論争の系譜

イスラームの最初期は当然ながらしっかりした信者を増やし、彼らの共同体を樹立することが急務であった。信仰をめぐる議論もそのような観点からの諸問題が優先度の高いものとなった。イスラームの基本的な信仰箇条は何か、見せかけや付和雷同の信者を見分けること、またどのような罪を犯した者が共同体から追放されるべきか、そして信仰は増減するのかといった問題などがかまびすしく論じられた。

ところが一九世紀以来の西欧からの文明的な衝撃により、信仰論議も大きく変容することとなった。要するに、かつてはイスラームと西洋の強弱関係がまったく逆であったはずなのに、近代科学の圧倒的な力を眼前にして一体どうしてこうなったのか、それはイスラームの何かが悪いからなのか、そして何をどうすればいいのか、というイスラーム文明復興の議論が陰に陽に主流を占めざるをえなくなったのである。

そこで本章第一節ではまず、初期の古から一九世紀までの時代について、どのような諸派の議論がなされてきたかを箇条書きで簡潔に見ることとしたい。かかる動向は思想史的にはダイナミックであり興味が尽きないものの、人々の実際の信仰生活におけるその位置づけは、時代の推移とともにすっかり変貌を遂げてしまった。

どの宗教であれ議論が盛んになると、学派が形成されるケースもあれば、共同体の政治指針となり党派的な動きを示すこともある。時の支配者間の闘争の具として特定の派を支持し、それに対抗するものを弾圧するようなパターンも見られた。

まず特記しておくのは、シーア派の誕生についてである。その全貌を示すことは大きなテーマであるが、ここではその要点のみを記す。シーア派が生まれたのは、イスラーム暦第一世代のころ、西暦七世紀のことであった。それは基本的には、正統カリフのアリー(没六六一年)の人望が高く、彼を強く支持する人たちがその死後も遺徳を偲んだことが出発点となった。アリーの信奉者たちは、イスラームの教えは彼に預言者ムハンマドより秘伝されて、それはアリーの直系しか伝えられないと主張し始めた。ちなみにアリーは、預言者ムハンマドの娘婿でもあった。そしてこの一派は、「アリーの党「シーア・アリー)」と呼ばれたところから、シーア派という名称が定着したのであった。

シーア派は当時のウマイヤ朝と対立して、アリーの息子フサインがウマイヤ朝により殺害されたのでますます両者の対立は深まった。そしてフセインが殺されたのは支持者である自分たちが十分に彼を守らなかったからだと悔やんで、これをきっかけに自身の身体を痛めつける毎年の恒例行事が始まった(アーシューラーといわれる時期に実施)。なおシーア派に従うと、アリーは初代のカリフであるということになる。それまでの三代のカリフの継承は、秘伝が伝授されていないので認められないということである。

アリーの後は、正式に秘伝を伝授された特定のイマームに従うとする基本思想により、シーア派内部でも分派活動を推し進めることとなった。一六世紀以来、イランで国の宗派として正式に採用されてきた一二代派は、指導者がその代でお隠れになったとする。正式のイマームが現れるまでは小指導者でつなぎ、いずれ現れる一三代目のイマームを待とうという救世主待望論の考え方である。五代派(イエメンのザイド派)や七代派(一一世紀エジプトのファーティマ朝や現在もインドにあるイスマーイール派)も同様の発想で、それぞれ五代目、あるいは七代目で秘儀を伝える指導者のイマームはお隠れになったと考えるのである。またレバノンやシリアに多いドルーズ派やアラウィー派もシーア派とされる。これら分派の多様性を跡づけてその系譜を追う作業は、一つの大きな研究分野となっているほどである。

イランがどうしてシーア派を採用したのかは、自らのアイデンティー確立の問題であり、背後にはアラブとの対抗意識が強い。アラブの方でも、従来アジャミーと称して、イラン人を何かと二流市民扱いする向きがあった。アジャミーとは「外国人の」といった意味でアラブではないということを一義的には意味する。

このような流れの中で、一〇世紀に至りスンナ派もようやく自らの名称(アフル・アルスンナ・ワアルジャマーア)を持つようになり、その簡略な呼称として「スンナ派」が誕生した。その名称の原語の意味は「慣行と総意の人々」ということで、コーフンに次いで重要な預言者伝承で示される預言者の慣行と関係識者の総意により物事を決定し進めるという意味である。それは合議制であるから、アリーであれ誰であれ、秘伝された教えはないと考えるところがポイントである。

こうしてイスラームの中に、主要な措抗関係が出来上がったことになる。その性格は、本来信仰箇条の理論的な根本問題をめぐるものではなく、誰を指導者にするかという問題であったのだが、時代の波にもてあそばれているうちに事態は硬直化してしまった。

当初は、両派の信徒間の結婚は日常茶飯事であったし、両派のモスクが隣同士に建てられることも珍しくはなかった。しかし一六世紀にサファビー朝が一二代派を正式に国教と定めてからは、抜き差しならない様相を帯びることとなった。そして西の王者としてオスマン帝国というスンナ派の旗手が確立されたのであった。

以下でスンナ派の主要な神学諸派をほぼ時系列に一望しておこう。ただしアシュアリー派とマートゥリーディー派以外の諸派は、異端と見なされるのが現状である。

 ・ジャフム派:イスラーム初期の分派で、ホラサーンの人、ジャフム・イブン・サフワーン(没七四五年)がその祖とされる。神がすべてを完全に定められているとする予定説とアッラーの属性の比喩的解釈を支持。

 ・カダル派:ウマイヤ朝末期、ダマスカスにあってジャフム派に対抗、人間の自由意志説と倫理的責任を唱える。下記のムウタズィラ派につながった。

 ・ムルジア派:ウマイヤ朝の七世紀に起こり、多神崇拝以外なら罪を犯しても信者であるとして行為と信仰を分けて捉えた。このような「罪ある信者」は地獄行きが必定とするハワーリジュ派やムウタズィラ派と異なり、穏健で中立的な思想で知られる。

 ・ハワーリジュ派:行為も信仰のうち、とした。ただしこの派はさらに一四もの小分派に分かれ、オマーンのイバード派もその一つである。反逆者とされたムアーウィアとの調停を受け入れようとした第四代カリフのアリーを殺害した。外見的な行為から不信者であると判断しうるとの立場であるので、武装闘争にも結び付きやすい傾向が指摘される。

 ・ムウタズィラ派一八世紀前半にバスラで起こった一派で、論理的思考を軸としてイスラーム史上最初の体系的な神学を提示した。行為と信仰に関しては前二者の中間を行ったが、クルアーンの創造説、預言者ムハンマドの執り成しを否定、正義はもともとあるのであって、アッラーは正義を識別するだけであること、アッラーの九九の属性の中で古い(カディーム)だけが本質であること、アッラーの擬人的解釈の否定、などがその主張点であった。中庸を行く理性派ともいえるが、極めて抽象性が高いのでアシュアリー派を中心とする一般のスンナ多数派の反発を呼ぶ結果となった。

 ・アシュアリー派一一〇世紀の人、アシュアリーが創始した。彼自身はハンバル法学派であったが、大半の同派神学者はシャーフィー法学派に属していた。ギリシア哲学の影響もありムウタズィラ派の思弁的傾向も引き継いで、この流派がセルジューク朝以来スンナ派神学を代表するに至った。クルアーンは創造されたものではない、全き予定説、多神崇拝以外で異端とはならない、アッラーには力、知識、視聴覚、顔、手、口があり、玉座におられる、預言者の執り成しはある、信仰は言葉と行為を含み信仰の増減がある、クルアーンとハディースに依拠すべし、などの主張をした。またこの世は偶有であり、変化の基体が実体であるといういわゆる原子論を展開した。抽象性を克服した反面、アッラーの直接性が減じられ、アッラーの愛への参入を説く神秘主義の溺漫を招いたとされる。

 ・マートゥリーディー派:前二者の中間を行く立場で、ハナフィー法学派。一〇世紀サマルカンドの神学者マートゥリーディーに始まるが、一一世紀、中央アジアからセルジューク朝の西遷に伴って東アラブ世界にも進出した。人間の自由意志説(ムウタズィラ派)、アッラーの属性の永遠性(アシュアリー派)を支持。信仰は心の問題として行為を除外する点はムルジア派に近い。アシュアリー派と並ぶ正統神学派と認められる。

なお後述するように現代では、イランのソルーシュらのように、信仰と神学を区別して信仰そのものの強化を目指すべきだとして、習慣や大勢順応でムスリムとなるのではなく、自由意志と個人的コミットメントで篤信となるほか、もっと内省的な信徒となるようなことを強調する人たちもいる。
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