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スタバの「レバノン」マグ

豊田市図書館の新刊書

 本が足りない! 哲学の本もない。

 豊田市図書館の新刊書に哲学が出てこない。月の真ん中なのに、漁って漁って、21冊です。以前の月末、月初よりも少ない。

ご機嫌伺いメールは有効?

 「調子はいかが」メールを送ったら、火曜日にお話しすることになった。ポーリングはした方がいいのかな。だけど、パートナーには怖くて送れない。

スタバの「レバノン」マグ

 駅前スタバに行ったら、バリスタがオクから「レバノン」のマグを持ってきた。前回忘れていったので、取っておいてくれたとのこと。

 「レバノン」マグでバリスタに自慢していたので、皆が知っていた。「レバノン」マグを持っている人は稀だから助かった。スタバで忘れ物をすると、すぐに松坂屋の管理になってしまって、よほどのことがないと帰ってこない。

 それにしても、なぜ、忘れていったのか。飲み終わって、洗って下さいと頼んだところまでは記憶に残っている。どうも、そのまま、受け取らずに帰ったとしか考えられない。

 マグで思い出したのが、15年前にこのスタバができた時の〝売り〟を思い出した。お客様のマグを預かってくれました。私はサンフランシスコのタウンマグを預けていた。あのインパクトは大きかった。帰属意識が発生します。スペースの問題で1年ぐらいで止めてしまった。

1.6未唯宇宙

 1.6未唯宇宙には、無限次元を含みます。無限次元空間を発見したときは嬉しかった。そのサブ空間を考えれば、無数に居場所があることになる。

未唯へ

 今日の乙女座との相性度は59です。水瓶座は94点で2位です。
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豊田市図書館の21冊

220『チュルクを知るための61章』

302.25『インドから考える』子どもたちが微笑む世界へ

318『「政策思考力」入門編』地域を創る!

336『あなたが作る等身大のBCP』今のままでは命と会社を守れない!

421.3『シュレーディンガー方程式入門』今度こそ理解できる!

345.1『パナマ文書』

332.1『現代日本経済史年表1868~2015年』

319.53『死神の報復 上』レーガンとゴルバチョフの軍拡競争

319.53『死神の報復 下』

302.57『コスタリカを知るための60章』

336.3『ハーバードのリーダーシップ講義』「自分の殻」を打ち破る

751.4『ちょび子のミニチュアフードBook』キュートでおいしそうなミニチュアフードと小物全82点

463『ビジュアルでわかる細胞の世界』

727『模様と意味の本』明日誰かに話したくなる模様のはなし

701.4『美の起源』アートの行動生物学

460『生命の始まりを探して僕は生物学者になった』

687.7『飛行機ダイヤのしくみ』交通ブックス310

918『日本語のために』

368.6『もしもごはんテロにあったら、自分で自分の命を守る民間防衛』

386.9『366日記念日事典』

914.6『「新しい人」の方へ』
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政策の複合化 地域のネットワーク化

『「環境思考力」入門編』より 政策の環境変化 人間行動の変化 政策視点の質的変化 政策の複合化

政策の耐久力形成に関して視野や思考のネットワーク化とともに、第二に求められるのが地域そして地方自治体間の連携によるネットワーク構造の充実です。人口減少と超高齢化が進む中で、単独の市区町村・基礎自治体で完結する生活・経済活動は極めて限られるほか、公共サービスの面でも単独の基礎自治体だけで提供し持続性を担うには限界があり、複数の地方自治体が連携して担う仕組みの充実が将来に向けて不可欠となっています。

(従来からの地方自治体間連携)

 従来も地方自治体間の連携の仕組みは展開されてきました。具体的には、

  ① 任意協議会

  ② 一部事務組合

  ③ 広域連合

 等です。それぞれの特色は、次のとおりです。

  ①の任意協議会は、自主的かつ法的な拘束力を受けない任意の協議会・研究会を設置し、地方自治体間の参加・連携を行う形態であり、各地方自治体の単費事務事業(国・県等補助事業外)に適するほか、民間企業等多様な主体と連携する事務事業でも有効性を発揮してきました。

  ②の一部事務組合方式では、事務の一部を処理するため複数の地方自治体が共同組織を設置し構成自治体から独立した位置づけとなり、独自の議会・執行機関が設置されます。

  ③の広域連合は、事務を広域的に実施するため、複数の地方自治体が共同して設置する形態であり、直接公選・間接公選で独自の議会・執行機関が設置されます。一部事務組合との違いは、広域連合では、各構成自治体を経ずに国や都道府県等から直接権限移譲を受けることが可能であること、事務執行上必要な事項を構成自治体に勧告等ができること、必要な規約変更を構成地方自治体に要請できることがあげられます。

  さらに、圏域を視野に入れた政策としては、④定住自立圏構想や⑤地方中枢拠点都市圏の形成があります。

  ④の定住自立圏構想は、圏域全体として必要な生活機能等を確保するために設けられた連携制度であり、⑤の地方中枢拠点都市圏の形成は、「過疎集落等の維持・活性化」「定住自立圏構想の推進」を越えてさらに政令指定都市や新中核市等を(ブにして、経済成長の牽引、都市機能の集積、生活の向上を目指し連携協定の導入、先行モデルに対する交付税等支援措置によって推進する制度となっています。

 このように、従来も地方自治体間での連携を推進する努力が展開されてきました。

(政策連担)

 しかし、今後求められる地方自治体間連携の仕組みは、個別事業だけでなく政策を圏域で形成し実施する「政策連携」の本格化です。その上で、構成する各地方自治体がそれぞれ役割を分担しつつ結びつく「連担」のネットワークを構成することも重要となります。

 各基礎自治体が重複した事業や政策を展開するのではなく、医療、福祉、安全・安心等核となる役割をそれぞれ分け合い、相互に担い圏域として結びつく仕組みです。この圏域を中心に地産・地消的な経済的循環構図を厚くすることで、グローバル化に対する地域の耐久力を充実させます。

(内部事務の共同設置と事務の代替執行)

 同時に、地方自治を支える行政機関の職員構成のピラミッドをいかに将来に向けて安定的に構成するかも重要となります。単独の地方自治体ごとにフルセットで業務を担う職員構成を確保することは、生産年齢人口が急速に減少する中で都市部も含めて不可能となっています。二〇一一年の地方自治法改正で導入された「内部事務の共同設置」は、特別地方公共団体の設置手続の煩雑さと事務の委託におけるサービス提供方法の不安定性等の課題を解消するため、機関等の共同設置の制度拡充により実現した仕組みです。

 また、事務の委託による執行権限の委譲を伴わない状態で、事務の管理執行を他の地方自治体に委ねることができる「事務の代替執行」という制度も、二〇一四年の地方自治法改正で導入されています。同種・類似のサービスを実施している分野の場合、行政機関の人的資源の制約の面からも連携する構図が大きな選択肢となります。

(議会間連携)

 連携・連担の際にさらに重要となるのは、議会間連携です。議会は、単に行政をチェックするだけの機関ではなく、地域の民主主義を育てるとともに政策を形成し進化させる役割をも本来は担っています。このため、地方自治体の行政区域に止まるのではなく、住民の経済社会活動の循環に目を配り、複数の地方自治体をネットワーク化した圏域での政策展開の視点を議会も重視する必要があります。

 たとえば、自治財政権は、地方自治の根幹を支える原則です。地方自治体の財政は、自らの地方自治体の住民からの税収で賄い、その効果は住民に帰着することを原則とします。こうした原則を形式的に貫けば、他の地方自治体との連携で他の地方自治体にも効果が直接帰着する財政支出を行うことには議論が生まれます。しかし、行政区画で議論することが有効な政策領域と、行政区画で議論せずより広い「圏域」といえる視野で議論すべき政策領域を分ける必要があります。現代の経済社会活動は、単独の地方自治体の行政区画で完結することはなく、所得循環の範囲も単独の行政区画を越える範囲でほとんどが形成されています。形式的な行政区画に限定することなく、最終的な政策効果が自らの地方自治体の住民に帰着することが検証できるのであれば、広い視野から政策を思考する姿勢が求められます。圏域としての所得循環構図の形成に向けた視点となります。

(コミュニティによる補完)

 なお、政策は、「市場の失敗の補完」という側面を持ちます。資本主義の市場は、景気変動を伴い、競争関係の中で所得格差なども拡大させる側面を持っています。こうした市場の失敗を政策が補う機能を持っています。一方で、政策も既得権の硬直化や行財政の肥大化、行政コストの増大、行政経営の非効率化などの失敗をもたらします。こうした政策の失敗を、民間の視点や市場機能が補完する役割を果たします。政策と市場は、相互に失敗の要素を持ち、相互に補完する関係となっています。

 ただし、災害時等で認識されたように、一時的でも、政策・市場ともに機能せず失敗状態に陥ることがあります。そうしたときに、地方自治体を支えるのは地域のコミュニティであり、コミュニティのネットワークは最終的なセイフティ・ネットといえます。

 「覗き見コミュニケーション」という指摘があります。もちろん、個人の秘密や私生活を悪意で覗き見することではなく、ゴミ出しや郵便箱、生垣など日常生活で普通に目にする状態から隣人を意識することでコミュニティを通じたセイフティ・ネットを形成することです。日常時でも政治や市場が機能しづらい部分でコミュニティが果たしている機能といえます。

 なお、コミュニティとは本来は「同志の集まり」を意味します。このため地域のコミュニティだけでなく、趣味のコミュニティ、仕事のコミュニティなど様々な形態が存在します。自治会・町会等の地域コミュニティが超高齢化などで空洞化する中で、様々な形態のコミュニティが多層的に形成されることが重要となります。

(アソシエーション)

 防災・子育てなどテーマを基軸として活動するアソシエーションも、同志の集まりたるコミュニティの一類型であり、NPO活動の高まりにより重要性を増しています。アソシエーションで顕著に発生しがちな課題として、他のアソシエーションと情報が連携されず、自らの実施事業の位置づけを認識していないことがあります。この場合、他のアソシエーションの実施する事業との重複や公共サービスの空白を生み出すことにつながります。こうした点を克服するには、地方自治体が地域コミュニティやアソシエーションが担う公共サービスを特定し、空白が生じる公共サービスについて、どのように対応するかを常にモニタリングすることが求められています。
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もしチャーチルがいなかったら

『チャーチル・ファクター』より

私は歴史における「もし」を問うことはあまり好きではない。いわゆる因果関係の流れが完全に明確ではないからだ。出来事はビリヤードのボールのようには起きない。ボールの一つが当たり前のように次のボールを動かすわけではない。ビリヤードの球でさえ思わぬ動きをするものだ。

山ほどある要素のなかから一つの木片を抜き取ってみれば、残りがどのように崩れ落ちるかはけっしてわからない。しかし、歴史上のすべての「もし」のなかでも、この問いは最も関心の高いものだろう。今日の最高の歴史家たちがこの思考実験を試みてきたが、圧倒的に多くが同じ結論に達している。もし一九四〇年にイギリスがドイツに対して抵抗を止めていたらどうなっていたか。結論は、欧州に取り返しがつかない災難が降りかかった、である。

当時、ヒトラーの勝利はほぼ確実だった。このため、もしイギリスが戦うことを諦めていたら、ドイツは対ロシアのバルバロッサ作戦を実際の一九四一年六月よりもはるかに早い段階で実行していただろう。地中海や北アフリカの砂漠でいまいましいイギリス軍がヒトラーの邪魔をしたり、兵や武器を取り上げたりしていなければ、ヒトラーはその敵意のすべてをロシアに向けることができたはずだ。独ソ不可侵条約に合意したときから密かに望んでいたように。そしてロシアでの軍事行動が寒さで凍った地獄と化す前に、ヒトラーは対ロシア戦をほぼ確実に成功させていただろう。実際にドイツ軍の進撃は驚くべき成果をもたらした。何百万平方マイルもの土地、一〇〇万人単位のロシア兵を制圧し、スターリングラードを占領し、モスクワの地下鉄の周辺駅まで到達した。もしドイツ軍がモスクワを占領し、共産主義体制を排除し、スターリンを再起不能なまでに叩きのめしていたらと想像してみてほしい(実際、ドイツの戦車が国境を越えた頃から、スターリンはすでに神経衰弱になっていた)。

歴史家たちは、ロシアではおそらく集団農場化によって割を食った中流階級の反対などにあって共産主義政権の独裁政治が急速に内部崩壊するだろうと予想した。そして、そこには親ナチスの傀儡政権が据えつけられるだろうと。もし本当にそうなっていたら、どんな世界になっていただろうか。

ヒトラーとナチス親衛隊指導者ハインワヒ・ヒムラーら邪悪な仲間たちは、大西洋からウラル山脈までの巨大なキャンバスを使って、ナチスドイツのおぞましい幻想を描くことができただろう。イギリス以外、それを止める存在はいなかった。ドイツに干渉する国もなく、彼らを公然と非難するほどの道徳的資質を持つ指導者もいなかった。

アメリカでは孤立主義者が勝利していただろう。もしイギリスが自国民の命を危険にさらさないのであれば、なぜアメリカがそうする必要があるのか? ベルリンでは、建築家のアルベルトシュペーアが「ゲルマニア」と呼ばれる新たな世界の首都をつくるという異常な計画を実行に移していただろう。

この都市計画の中心は「国民ホータ」になるはずであった。古代ローマの建築家アグワッパによるパンテオンの花尚岩版である。常軌を逸したデザインだ。あまりにも巨大なため、ロンドンにあるセント・ポータ大聖堂のドームをその天窓からそっくり入れられるほどであった。一〇万人が座れるように計画されていたが、祈りや叫びの声があまりにも大きいため、建築物の中で雨が発生するだろうと想定していた。集まった人々の温かい息が立ちのぼって凝結し、熱心なファシストの群集の頭部に水滴となって落ちてくるだろうと。

この悪夢のような建築物は巨大な鷲を戴いていた。このため、地上二九〇メートルの高さの、宇宙サイズのプロイセン風ヘルメットのように見えた。ロンドンのサザックにある高層ビル「シャード」に匹敵する高さである。その周りにはほかにもドイツの圧倒的強さを表す巨大なシンボルがあった。アーチはパワの凱旋門の二倍の大きさで、巨大な鉄道の駅から二階建ての列車が時速一九〇キロで疾走するはずであった。列車はドイツ人の入植者をカスピ海やウラル山脈、そのほかの東欧の地域に運ぶものである。ただしこの東欧地域からスラブ人の「下等人間」は追放されることになっていた。

スイスを除く(秘密の侵攻計画はあったものの)すべての欧州大陸はドイツ帝国の一部となるか、ファシスト国家として隷属していただろう。事実に反する推論をする多くの小説家が指摘したように、この地域を暗黒の欧州連合に転換するためのさまざまな計画が存在していた。

一九四二年、ドイツ帝国の経済大臣兼帝国銀行総裁グァルター・フンクは、欧州共通市場の必要性を提案する論文を書いた。単一通貨、中央銀行、共通の農業政策など、今日の私たちがどこかで聞いたことがあるような案を出した。リッペントロップ外相も同様の計画を提案した。ただしヒトラーは、ドイツ以外のメンバー国に対して生ぬるすぎるという理由でこの提案に反対した。

ゲシュタポが支配するナチス版EUでは、当局は自分たちの忌まわしい人種差別的イデオロギーを思う存分追求できただろう。ナチスは一九三〇年代に特定の人種の迫害活動を始めた。チャーチルが権力の座に就き、ドイツと戦い続けるという決定がなされるはるか以前に、ナチスはユダヤ人とポーランド人を強制移送していたのである。

鉄道の各拠点の近くにはこうした人々の「国外追放」の序章としてゲットーがつくられていた。ナチス親衛隊中佐アドルフ・アイヒマンがのちに認めたところによれば、国外追放とは粛清を意味していた。誰もその行動を検証せず、大部分が批判もしないままに、ナチスはユダヤ人、ジプシー、同性愛者、精神及び身体障害者など自分たちの気に入らない人々を大量に殺害する作業をこなしていただろう。そして、想像を絶するような恐ろしい、現実離れした、非人間的で、神をも恐れぬような人体実験を繰り広げていただろう。一九四〇年の夏、チャーチルはヨーロッパの状況についてこのように語った。ヨーロッパは「ゆがんだ科学の光によってさらに邪悪で、さらに終わりの見えない新たな暗黒時代に陥りつつある」。彼はまったく正しかった。

以上が実現していた可能性が最も高い、もう一つの世界だ。しかし、ヒトラーがロシアで成功せずスターリンが攻撃を返していたら、事態はこれよりましだっただろうか?

そのシナリオの場合、私たちは二つの全体主義によって分裂した欧州を目にしていただろう。一方はKGBか旧束ドイツの国家保安省による恐怖政治。もう一つは秘密警察ゲシュタポの支配する世界だ。どこにいようが国民は夜中のドアのノック、恣意的な逮捕、強制収容所に怯えている。抗議する道はない。
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ウィーン包囲の衝撃 テュルクとヨーロッパ

『チュルクを知るための61章』より

中央ユーラシアを西進した遊牧騎馬民のヨーロッパ侵入としては、4世紀から5世紀にかけてゲルマン大移動の契機も作ったフン族のそれがよく知られている。その後も、テュルクに属するブルガルが5世紀にビザンツ帝国領を窺い、6世紀にはユスティニアヌス一世時代のコンスタンティノープルを包囲した。また7世紀にやはりテュルク系のハザルがヴォルガ下流域から北コーカサスに国家をたてたことも知られている。さら11世紀になるとオグズが黒海北岸からバルカン半島へ入ってビザンツ領内を寇掠した。このように、史上多くのテュルクが黒海北岸を通ってヨーロッパヘ入った流れを受ける形で、11世紀後半以降、イスラム化したセルジューク朝がイランから黒海南岸のアナトリアヘ入り、さらにオスマン朝が14世紀にバルカンヘの進出を始めたのである。

オスマン朝の第十代スルタン、スレイマン一世(在位1520~66)は即位の翌年にベオグラードを攻略してバルカン高地からハンガリー平原へ下る関門を押さえると、良質の小麦と馬とを産し、トランシルヴァニアやオーストリアヘもつながるこの平原を支配すべく、1526年にハンガリー遠征軍を起こして国王を敗死させ、その首都ブダを占領した。スルタンに服従を誓ったハンガリー諸侯は後継国王にトランシルヴァニア侯サポヤイ・ヤーノシュを選んだが、ハプスブルク家のオーストリア大公フェルディナントを頼る諸侯もおり、まもなくサポヤイはフェルディナントによってブダを逐われた。サポヤイの支援要請を受けて、スレイマン一世は1529年5月に再度ハンガリーヘ遠征し、途中、サポヤイを臣従させた上であらためて王位に就けると、ブダを攻めてこれを陥落させた。そしてさらに、敵対勢力の背後にいるハプスブルクを討つべく、ウィーンヘ向かったのである。

スレイマンの動きを見てフェルディナントはウィーンの後方へ待避し、一方その兄カール五世もフランス王フランソワ一世対策で東方を支援するゆとりを持っていなかった。ウィーンの危機は深刻だったが、この年の悪天候がウィーンに幸いした。大雨と洪水とに悩まされてブダ入城までにも2か月を費やしたオスマン軍は、その後も泥淳に行軍を妨げられ、ようやくウィーン城下へ到着した9月末近い日も大雨だったと記録されている。城壁砲撃用に準備した巨大砲も行軍の妨げになるとして途中放擲してきたオスマン軍に対し、ウィーン側は十分な準備期間を得て、人員、武器弾薬の調達を済ませ、城壁の補修も終えていた。こうしたなか、10月1日から攻撃を始めたオスマン軍は、城壁を突破することができないまま降雪を迎え、2週間あまりで撤退を余儀なくされたのである。

陥落を免れたとはいえ、神聖ローマ皇帝の本拠地が包囲されたことはキリスト教世界に大きな衝撃を与えた。だが、その衝撃の結果、「トルコの脅威」を目の当たりにしたヨーロッパがただ怯えたりあるいは一致協力してその脅威にあたろうとする機運を生み出したりしたわけではなかった。まず、即位以来カール五世と対立し、1525年にはフランソワー世自身がハプスブルク軍に敗れてスペインで捕虜になるという危機を迎えていたフランスが、ハプスブルクに対抗し得る勢力を糾合しようとしてスレイマン一世に接近を図っていた。そしてウィーン包囲後の1534年から35年にかけ、両国の使節が相互に双方の首都を訪問し合い、同盟関係の確認がなされるに至った。なおこの間、1532年にはスレイマンは3回目のハンガリー遠征を行い、その後オーストリアヘ入ってウィーンの南を進んでグラーツにまで進軍していた。フランソワー世は、こうした強大なオスマン軍の存在を背景に、ハプスブルクの圧力を回避することに成功し、やがて国内の集権化を進めて近代的主権国家の基礎を確立することになるのである。

同じようにカトリック皇帝カール五世と争う形で勢力の確立を目指していたドイツの新教諸侯にとってもまた、オスマン帝国の存在は重要だった。1521年に教皇から破門されていたルターは、オスマン軍の侵攻をローマの腐敗堕落に対する神罰と認識し、「トルコ人」と戦うことに反対するほどであったことが知られている。1526年にスレイマン一世によってハンガリー遠征軍が起こされると、新教諸侯はハプスブルク兄弟(カール五世、フェルディナント)からの支援要請を受けて、シュパイアーにおける帝国議会で新教諸侯ならびに帝国都市が教義を選ぶ自由を獲得した。さらに1532年のオスマン軍による第三回ハンガリー遠征に際してはニュルンベルクの宗教和議締結を引き出すなど、1555年にルター派を公式に容認させるアウクスブルク宗教和議に至る過程で、皇帝の背後を脅かすオスマン帝国の存在は。ドイツ新教諸侯にとって常に大きな意味を持っていた。

やはりハプスブルクの支配を受けていたネーデルラントのカンルヴァン派(ユグノ-)にとっても、オスマン帝国の存在は重要だった。カール五世から同地を生前に譲り受けた、その長子であるスペイン王フェリペニ世は、熱烈なカトリック戦士として新教の弾圧を強行していたが、同時にフェリペは地中海においてオスマン海軍に対する大規模な挑戦を始めていた。この活動がネーデルラント独立運動に対するスペインの圧力を弱めることを理解した運動の指導者オランイェ公ウィレムは、イスタンブルヘ使節を送ってスペインに対するオスマン海軍の攻撃継続を要請したのである。

このように、ハプスブルク家の支配ないし脅威を脱して、近代主権国家へと連なる権力の確立を目指した諸勢力にとって、オスマン帝国の後ろ盾は大きな意味を持っていたが、ハプスブルクの王たちもまた、イスラームあるいはトルコの脅威からヨーロッパキリスト教世界を防衛する「神聖な任務」を遂行するものとして自らを表象することで、その支配の強化を図ることができた。とくにボヘミアにおいてはフェルディナントが「トルコの脅威」を掲げつつ新教派の都市を抑圧したり、銀山採掘権を手中に収めたりしながら、その支配を強めていったのである。

こうしてヨーロッパ諸国が変容を遂げる上でオスマン帝国の存在は小さからぬ役割を果たしたが、スレイマンの遠征から1世紀半後の1683年にオスマン軍が二度目のウィーン包囲に失敗して敗走すると、オーストリア、ポーランド、ヴェネツィアが「神聖同盟」を結んで攻勢に転じ、オスマン領を奪取し始める。そしてこの攻勢は、19世紀になると「東方問題」を生み出すことになるのである。
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