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地球温暖化は解決できるか

Iさんから追加のメール

 7時前にIさんからメールがありました。来週の出勤予定が載っていた。意図を探ってくれました。私から催促はしません。月曜日に行くつもりであったけど、水・木でした。金曜日も居ません。それで水曜日に決めました。待っていてくれる人が居るのはありがたい。

 水曜日に行くことを意味を与えるために、三日間、豊田市には出ないようにする。

地球温暖化は解決できるか

 地球温暖化に向けて、全人類が覚醒することは無意味です。目標が全然身近ではない。

 今の資本主義を含めた政治形態、自分の生活も変わりうると思えることが重要です。結果として温暖化があるかもしれないけど、それ以前のものが大きいです。生きる意味です。

 存在する意味を確信したときに、初めて、人類は行動をなし得る。温暖化のために努力はしません。ターゲットが見えてこない。

 今やっているのは、温暖化という名の元に巣くっている連中を助けるだけです。単にそれだけです。彼らは温暖化を先送りしている。そこに仕事を見つけて、それを単にやっているだけです。結果は求めていない。

 もし、本当にやっているとしたら、環境学習設備で10年間やってきて、何が変わったのかを冷静に見れば分かる。悪くなっただけです。

覚醒に必要なこと

 覚醒するために必要なのは、数学、哲学、宗教という社会の底辺です。そこから変えていかないと、変わるわけはない。メディアそのものもその底辺になるかもしれません。今とまるで異なるメディアは、始まっています。多くの人が気づいていない。

 皆の心に入って行くには、皆と同じレベルで考えて、何を考えているかを把握した上で行動することです。自分の仕事としてやっているだけでは何も変わりません。むしろ、悪くなるだけです。

未唯宇宙1.5「未唯空間」

 最初は「未唯への思い」の雑記帳から始まった。それを配置していった。NDCを使って、体系化した。何しろ、全てを表現したかった。「全て」の定義も含めて。

 そのために言葉を使った。言語を使って表現すること。言語である以上は個人によって、意味もイメージも異なります。キーワードもそこから出てきた。言葉で表現すると同時に、未来方程式とかサファイア循環もその中にいれこんだ。循環表現は見直さないといけない。サファイアでどこまで表現できるのか。

未唯宇宙1.6「分化と統合」

 ここに至ったのは、未唯空間から全てを表現するために、未唯宇宙に至った。それで私の世界を表現することができた。今、必要なことはバラバラにすること、それぞれが分化すること。そして、統合させるというステップを同時進行させることです。分化と統合はトポロジーそのものです。

 分化と統合を推進するためにはどうしたらいいのか。今の思いをまとめて発進していくこと。知識と意識の中間の場のコミュニティで確固たる意思をまとめる。その結果での変革をゆっくりさせること。
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天智天皇 百済の役

『日出づる国の誕生』より 天智天皇--東アジアの激動の中で

天智天皇--東アジアの激動の中で

大化の改新後の外交

 唐・新羅と高句麗・百済が対立する国際的環境の中で、改新の前に蘇我氏は、高句麗・百済と親交し唐を無視する外交方針をとったが、改新政府は、大化二年(六四六)から百済との親交を基本としながら新羅とも通交して、その仲介によって唐との関係を改善する方向に大きく転換し、それは白雄四・五年(六五三・五四)の二度の遣唐使派遣として実を結んだ。しかしこの間唐は大化元・三・四年と連年にわたり高句麗を征討し、また新羅は唐制にならった国政改革を進める一方、倭に百済との戦争への援兵を求めた。斉明元年(六五五)から再度唐の高句麗征討が始まるなか、同三年倭は新羅との関係が悪くなり、百済・高句麗と唐・新羅の両者と通交しようとする二面外交は破綻した。

船団による北征

 このように国際情勢が緊迫する中で、政府の命令によって、斉明四~六年(六五八~六〇〇)の三年間に三回わたって越国と陸奥国が船団による北方遠征を行った。これはふっう越国の阿倍比羅夫の北征といわれているが、実は同時に陸奥国も行ったのである。越国では比羅夫が淳足柵を根拠地に日本海沿岸沿いに遠征して秋田・能代・津軽の蝦夷を服属させ、一方陸奥国でも郡山遺跡I期官街を根拠地に太平洋沿岸沿いに遠征して閉村(岩手県沿岸部)の蝦夷を服属させ、さらに両国の船団は合流して北海道にまで至った。この北征の目的は北方蝦夷への支配拡大と考えられているが、当時の国際情勢や北征対象地域が当時の国家領域からあまりに北に突出していることからみて、そうではなく、国際情勢の緊迫化の中で、直接には斉明三年の新羅との外交関係の破綻を契機として、国土の北域と大陸・半島との地理的関係の探索や、友好国である高句麗への北方航路の開拓をめざしたものであったと考える。しかしこの事業は百済の役の勃発によって中断のやむなきに至る。

百済の役

 唐は連年にわたる高句麗征討が成功しなかったので、まず高句麗と連携する百済をたたくことに作戦を転換し、斉明六年(六六〇)に唐・新羅連合軍は百済に侵入し、七月に百済を滅亡させた。滅亡直後から百済の遺臣の鬼室福信らは百済復興の兵を挙げ、十月に倭に復興のための救援軍の派遣と百済の王子余豊璋の帰国を要請した。豊璋は皇極朝の初めに人質として来朝して、倭に約二十年も滞在していだ。倭はこれを承諾し、ここに半島に出兵して争乱に巻き込まれていくことになる。

 翌同七年、斉明はみずから船団を率いて中大兄を伴い、難波津から瀬戸内海を経て筑紫に到り、博多湾から内陸に入った地に朝倉 橘広庭宮(福岡県朝倉町)を設けて出征の本営とした。これはいわば遷都であり、また古代史上、大王自身が外征のために出征することは、この時を除いてなかった。瀬戸内海を進む途中に征討の軍士を徴発し、『備中国風土記』の逸文には、中大兄が下道評で二万人の軍士を徴発したので、渥磨郷と名付けたという地名起源伝承を載せる。八世紀に郷名の起源がこの外征軍の徴兵に関係して説かれたのは、この外征が徴兵の大きな負担の点で永く記憶されたことによるのであろう。また中大兄が軍士の徴発者として記憶されたことは、彼がこの外征軍における実質的な指揮者であったことを示している。百済滅亡直後、唐・新羅の侵寇から朝倉宮から倭京までを防衛するために、各地に神龍石山城が造営され、その力役の徴発も膨大であった。

 同七年七月、橘広庭宮の造営に神社の木を切った崇りが起こる中で、斉明か亡くなり、中大兄は喪服のまま、即位せずに大王の政務を執り(称制)、外征のことに当たった。八月に外征軍の第一陣を派遣し、九月に余豊璋に最高位の織冠を授けて百済に送り、翌同八年五月豊璋は百済の遺臣のもとで即位した。これは百済王を倭王の臣下とし、百済を倭国の従属国とすることを意味する。十月に中大兄は斉明の遺骸を伴って筑紫から飛鳥に向かい、その途中で母を偲んで、「君が目の恋しきからに泊てて居てかくや恋ひむも君が目を欲り」という歌をよんだ。十一月に斉明の旧宮川原宮で殯を始め、これ以後中大兄は飛鳥に留まって筑紫に戻らないが、それは五年余にわたって殯が行われたからである。

 天智二年(六六三)三月、倭は第二陣の増援軍を送り出し、一方百済軍では内訂が生じて余豊璋が鬼室福信を殺害した。百済軍の根拠地である周留城の側を流れる自村江(錦江)の河口において、八月倭の軍船が唐と会戦し大敗した。自村江の戦いである。倭軍はこの敗戦によって半島から撤退した。百済の役の敗戦は、友好国である百済の消滅、外征軍の多大な物的・人的損失など、倭に深刻な打撃を与えた。この外征軍の総数は少なく見ても、軍船一七〇艘、軍士数三万二〇〇〇人で、軍士の徴発地域は、西日本を中心として、東国から遠く陸奥にも及んだ。斉明朝において大軍の外征軍派遣、また倭京の改造、北征などの諸事業を実現できたのは、孝徳朝以来の国評制による地方支配の強化の成果であった。

国土防衛

 百済の役後、唐の次の攻撃目標は高句麗であり、半島の厳しい状況は変わらなかった。国際関係はめまぐるしく動き、天智三年倭は遣唐使を派遣して、一応唐との通交を回復したが、同六年唐・新羅連合軍は高句麗を攻撃し、同七年九月ついに高句麗は滅亡した。このような中で、白村江で叩きのめされた倭は、いつ来襲してくるか知れない唐の脅威を、ひしひしと感じて警戒を解かなかった。倭の朝廷では、中大兄らに対して百済の役の敗戦の責任を問う批判が起こったであろうが、中大兄はこれらの脅威を逆に利用して、国土防衛と内政改革に取り組んだ。

 天智三年(六六四)に対馬・壱岐・筑紫に防人と烽を置き、水城を築いた。防人は国境防備軍で、蜂は外敵の侵入があった時危急を知らせるためののろしである。水城は、外敵の侵入を防ぐために、筑紫平野の最も狭い部分を塞いで設けられた大堀と土塁である。発掘調査の結果、土塁は幅七ニメートル、高さ一四メートル、外側に幅六〇メートル・深さ四メートルの外堀、内側にも一部に幅一〇メートル、深さ一・五メートルの内堀が設けられている。博多湾辺にあった筑紫大宰は、水城の内側に移された。同四年大野城(福岡県宇美町・太宰府市)・橡城(佐賀県基山町・福岡県筑紫野市)、長門の城、さらに同六年に大和と河内の境に高安城(奈良県平群町・大阪府八尾市)、讃岐に屋島城(香川県高松市屋島)、対馬に金田城(長崎県美津島町の城山)を造営した。いずれも亡命百済人の指導で造営した朝鮮式山城である。斉明朝の神寵石山城に加えて、対馬から北九州、瀬戸内海沿岸を経て大和まで防衛線を設定した。

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民主主義の再生について

『民主主義の内なる敵』より 民主主義の将来

私が私たちの病への治療薬を見出すのは、政治的または科学技術的な革命よりも、民主主義的な計画の意味をふたたび見出し、その大原則--人民の権力、進歩への信仰、個人の自由、市場経済、自然法、人間性の神聖化-によりよき均衡をもたらすことを可能にするようなメンタリティの新しい変化のなかである。私たちの周囲にこの変化について人々が必要を感じている徴候を観察することができる。たとえば、最近の金融危機によって引き起こされた論争(これらの論争は具体的な結果をもたらさなかったが、少なくとも根本的な問題は提起された)、あるいは科学技術的な事故(フクシマの事故のような)によって引き起こされた論争である。あるいはまた、まったく別のジャンルでは、スペインやギリシアのような、いくつもの欧米諸国における街頭でのデモである。これらのデモは「これる者たち」によって組織されたが、この若者たちが要求するのは民主主義を他の体制によって置き換えることではなく、民主主義の現実をその理想により近づけることである。「いま、民主主義を!」ここで問題になっているのは、ほとんど関連づけられていない自発的なさまざまな運動であらて、それらの運動は具体的な命題を表明するすべを知らない。だがしかし、これらの運動の意味は、十分に明確であるように思われる。これらの国々の政府によって行なわれる新自由主義的な転換を拒否するのである。その帰結がどうなるのか、民主主義の再生なのか、ポピュリズムの高まりなのか、まだわからない。だがはっきりしているのは、それらの運動は現在、機能しているような体制に不満足を表明しているということである。

政治活動の目的は、科学主義者たちが主張しているのとは逆に、世界認識から生じるのではない。にもかかわらず、自分たちが生きている社会をしかるべく理解しなければ、間違って行動する恐れがある。そういうわけで、人間の個人的で集団的な生活の諸特徴にかんする人文・社会科学が私たちに教えていることを考慮に入れることが望ましい。ここでは、リアリズムは理想主義にも道徳的目的に霊感を得た政治にも対立しない。それは保守的な事なかれ主義と盲目的な主意主義、消極的なあきらめと素朴な夢想によって形作られるカップルの彼岸に位置づけられる。このリアリズムのみが、政治家の使命に呼応している。富裕になりたいという欲望が人間存在の最高善に呼応していると信じたり社会生活が凡百の選択の一つ、いわば任意のオプションであると信じたりすれば、民主主義の将来を適切に考えることはできない。

数年前から、エコロジックな思想が展開されてきた。これは科学に少しも対立するものではなく、きわめて部分的である科学を、人間だけではなく、人間が生きている自然的枠組みをも考慮に入れる、より完全な別の科学でもって置き換えようとするのである。この自然のエコロジーもまた補完されなければならない。あらためてフラオーを引用すれば、「今日、私たちが知っているようなエコロジーは、いまだ制限されたエコロジーでしかない。というのも、このエコロジーはこの地上に生きている物理的組織体としての人間を考慮に入れるだけで満足しているからである。全面化したエコロジーは文化と社会を、エコロジーがすでに私たちの物理的環境を思考するように思考する。つまり、それは心的実存の条件に、心的実存の脆弱さに、社会的エコシステムの脆弱さに関心を抱く」。文化的帰属、社会生活は、人間の本性の一部なのである。

個人と集団、経済的な目標と意味への熱望、独立への欲望と愛着の必要のあいだの相補性を考慮に入れることが可能となるのは、このような社会的で政治的なエコロジーの枠組みにおいてである。なぜ、新自由主義の影響--たとえば、契約による法律の徹底的な置き換え、人間性を失わせる管理技術、あるいは直接的な最大限の利益の追求--に抵抗しなければならないかが理解できるようになるのも、この枠組みにおいてである。同じく、文化的多様性がもつ、または同じ道徳的価値の万人への強制がもつ利点と難点を考えることが可能となるのも、ここにおいてである。

もはや国家という舞台ではなく世界という舞台に目をやれば、自然のエコロジーの教訓は、あらためて社会的エコロジーの教訓によって補完されなければならない。最初の教訓は私たちに警戒を呼びかける。すなわち、地球の人口は絶えず増加している。多くの国の住人はいまや生活水準を向上させる手段を有しているのに対し、エネルギー、水、肥沃な土地にかんする地球上の資源には限界がある。第二の教訓とは、唯一の国家または唯一の国家グループの世界的覇権の時代は終わったということ、傲慢な政治によって他国に加えられた屈辱は、持続する不吉な結果をもつ怨念を生み出すということ自分の優越性を心から確信しているとしても、他者に善を押しつけることはできないということ(中東における民主主義の波乱に満ちた運命が明確に例証しているように)を私たちに教えている。このことが意味するのは、私たちは多極的世界に足を踏み入れたということである。この多極的世界ではたとえ支配が善の名において行なわれようと、支配よりも交渉と相互の利益の追求のほうがよい結果をもたらすのである。しかしながら国際関係にかんするこの新しいパースペクティヴは、私たちは普遍的調和に向かって静かに進んでいるという、バスティア流の結論へはみちびかない。もろもろの集団の利害は対立したままであり、攻撃はつねに可能である。だから防衛能力はつねに必要なのである。

私は、この民主主義の再生が、このタイプの体制が誕生するのを見た大陸--ヨーロッパ--に打ってつけの場所を見出すと考えたい。なぜ、欧州連合という枠組みが、この大陸自体のもろもろの国民国家--まだ一〇〇年にしかならない以前、第一次世界大戦の前夜、世界を支配していた国民国家--の枠組みよりも好ましいのかを理解することは容易である。これらの国家は今日、あまりにも弱体化しているので、自分たちが有用であると判断する方向にグローバリゼーションのプロセスを変化させたり、世界的なレベルで能動的な役割を演じたりする能力を失っているのである。だがヨーロッパにはまた、他の巨大規模の国々、中国、インド、ロシア、合衆国、ブラジルのような大陸的国家に対して主張すべきいくつかの利点がある。たしかに、これに意識的になるには、現状に対して若干の距離を取らなければならないのであるが。ヨーロッパの利点は当面は潜在的であるだけである--だが利点が現実的であることに変わりはない。そしてヨーロッパという亀はいつの日か、自分の前を走っているウサギたちを追い越すかもしれない--とりわけ、ウサギたちが正しい方向に向かわなかったことが明らかになるときである……。

これらの利点は、本質的に長い多元主義の実践に還元される。すなわち、民族の多元主義である。これらの民族は、住んでいる土地の自然そのものにより、また海牛高山によって隔てられて、相互にきわめて異たっているが、おたがいにつき合わざるをえなかったのである。思想系統の多元主義--もろもろの思想系統が、古代以来、相互に対決し、影響し合っている。ソフィストとプラトソ主義者、正統派のキリスト教徒と異端に与するキリスト教徒、ヒューマニストと反ヒューマニスト、自由主義者と社会主義者……。この多元主義の実践は、これらの土地を血で汚した数々の大量虐殺を妨げるためには、周知のように悲劇的に不十分であった。にもかかわらず、それは多種多様な間化に抗することを可能にするはずの価値観の土台を形成するのに一役買った。間化は、今日では、脳のプログラミングから行動のトヨタ化に至るまで広がっている。

ヨーロッパの人々のこれらの特徴だけでは、メシア信仰、ウルトラ自由主義、またはポピュリズムという民主主義の逸脱を退けるのには不十分である。だがそれらはレジスタンスが開始されうるための起点となる下地を形成する。ただヨーロッパが自分の前に提供されている民主主義をこのように作り直すための幸運をつかみさえすれば、ヨーロッパは抑圧的な父権制的社会と間化されたウルトラ自由主義的な社会のあいだの不毛な対立から脱出することを可能にするモデルを完成するのに一役買うだろう。世界の他の部分においても、他の国々が喜んで見習うようなモデルである。「アラブの春」につづいてやって来つつある「ヨーロッパの春」が夢見られはじめている。これは数百年前から着手された民主主義という冒険にそのあますところなき意味をふたたび付与するだろう。つぎのよう尨現実的な呼びかけが聞かれ、また実行に移されるべき時がやって来だのではないだろうか。すなわち、「今こそ民主主義を」である。

地球の住民たる私たち全員は、今日、同じ冒険に巻き込まれ、もろともに成功するか失敗するかを余儀なくされている。たとえ各個人が巨大な挑戦を前にして無力であるとしても、つぎのことは、やはり真実である。すなわち、歴史は不動の法則に従ってはいない。神が私たちの運命を決めるのではなく、将来は人間の意志次第なのである。
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民主主義の内なる敵

『民主主義の内なる敵』より 民主主義の将来

民主主義はその行き過ぎによって病んでいる。そこでは自由は暴政と化し、人民は操作可能な群集へと姿を変える。進歩を促進しようとする欲望は、十字軍の精神に変化する。経済、国家、法は万人の開花のための手段であることをやめ、いまや間化のプロセスの性質を帯びている。日によっては、このプロセスは不可逆的であると私には思われる。

それでも民主主義国で生活することは、全体主義国家、軍事独裁、あるいは反啓蒙主義の封建体制における服従よりも好ましいことに変わりない。だが、このようにして民主主義自体によって産み出された内なる敵にむしばまれた民主主義は、もはやその約束の高さにはない。これらの敵は民主主義を外部から攻撃した過去の敵よりも怖くない外観をもっている。プロレタリア独裁を樹立しようともくろみはしないし、軍事クーデタの準備もしない。情け容赦ない神の名において自爆テロをおこなうこともない。民主主義の衣装をまとっており、それゆえ気づかれぬまま通り過ぎることができる。それでも、これらの敵は真実の危険をはらんでいる。これに対していかなる抵抗も対置しなければ、これらの敵はしまいには、いつの日かこの政治体制からその実質を排除することになるだろう。それらは人間の自己喪失と人間生活の間化へとみちびくのである。

私たちはつねに、私たちが断罪するものは、私だちとは全面的に無縁であると考えることを好んでいる。私たちが通常、忌み嫌う人々に私たちは似ているという考えはとても耐えがたいので、私たちは大急ぎで彼らと私たちのあいだに乗り越えがたいと思われる壁を建立しようとする。ところで、もう一方の極端に行って、さまざまな政治体制をおたがいに同一視しようとしなくても、異論の余地のない対立はあるものの、共通の枠組みがしばしば存在することを認めることは私たちにとって得策以外の何ものでもない。民主主義のように、全体主義は合理的思考と科学とを引き合いに出す。民主主義は植民地主義とも共産主義とも混同されることはないが、しかし三者ともしばしばメシア思想の精神に突き動かされている。この親近性は二〇世紀史を支配した全体主義国と民主主義国の全面対決によって隠蔽されていた。大陸のような国の莫大な資源が共産主義のイデオロギーの役に立っていたソヴィエト陣営は、真のライバルであり敵と化していた。このことが差異の強調を正当化していたのである。それは「悪の帝国」であり、それ以上でも以下でもなかった。冷戦後のその崩壊には、その住民を解放するという利点はあったが、同時に欧米列強からこの敵対する大国を奪うという難点があった。この敵対する大国は欧米列強の覇権への熱望に対するブレーキのごとくに作用していたのである。欧米列強は同時に、両陣営のコソトラストを目立たせるために、無意識に美徳にもとづいて行動するように自分たちを促す、引き立て役のパートナーを失ったのである。

敵との親近性が発見すべきものとしてある似たような事実の隠蔽は、ナチスの全体主義の崩壊の直後に出現していた。第二次世界大戦の終戦、およびナチズムの犯罪--とりわけ絶滅収容所と強制収容所における住民全員の殺戮と奴隷化--の暴露以来、欧米の世論は、私たちをこれらの怪物から切り離す距離をつねに強調してきた。現代にいたるまで、歴史家、小説家、映画人が、これらの行為の張本人たちの動機は、私たちが共有できるような質のものだと主張するたびに、抗議がわき起こる。そのとき、過去の出来事を理解しようとすること、あるいはたんに背景のなかに置くことは、それらの出来事を許容することになると宣言される。ヒトラーは私だちと共通のある種の特徴をもった人間であると考えることは、私たちを憤慨させる。この悪は恐るべきものであり、だから私たちは、それが私たちの歴史からも本性からも外部にある怪物じみた異常だと考えるほうを好んでいる。

しかし、耳を傾けたくなくても、逆を主張する少数意見にも事欠かない。ナチズムの知的歴史について考えながら、ナチズムについてもっとも洞察力の鋭い専門家のひとりであるジョージ・L・モッセは、ナチズムのベースにある人種主義がはるかに尊敬すべきさまざまな教義と諸特徴を共有していることに注目した。人種主義は--と彼は書いた--「ヨーロッパ思想の錯誤とか孤立した狂気の時期なのではなく、ヨーロッパという体験の不可欠か二部をなす」。それは「近代が絶えず推奨してきたあらゆる美徳に結びつけられている」。戦時中、フランス自由軍の戦闘員であったロマンーガリは彼の初期の書物から、敵の人間性を、あるいは同じことになるが、私たち自身の非人間性を明らかにしようとした。一九四六年に出版された小説『チューリップ』では、ハーレムの黒人であるナットおじさんはつぎのように宣言する。「ドイツ人のなかに罪深いものがあるとすれば、それは〈人間〉であるピモの後、『善い半分』では、アルジェリア人ラトンはその友人リュックにいう。「世界中に何人いると思う、シュルー〔ドィツ人の蔑称〕の奴らは? 三〇億人だよ」。ガリにとって、ナチズムを説明するために召喚しなければならないのは、近代だけではない。人類史全体である。

私たちの内部に敵を発見することは、敵が私たちから遠くにあり、まったく異たっていると考えることよりもずっと憂慮すべきことである。民主主義は、ナチあるいは共産主義の全体主義という醜悪な敵をもっているあいだは、その内なる脅威を知らぬままに生きることが可能であった。今日、民主主義はこれらの脅威に立ち向かわなければならないのである。民主主義がそれらを乗り越える可能性とはいかなるものだろうか。

根本的な転倒が可能である(さらに望ましい)とも、革命があらゆる問題を解決できるとも私は思わない。民主主義の現在の変化は、陰謀の結果でも悪意ある意図の結果でもない。そういうわけで、これらの変動はブレーキをかけることが難しいのである。変動はメンタリティの変化に由来するが、この変化自体、科学技術から地政学を通って人口統計学までにいたる、多数で匿名の密やかた二連の変化に結びつけられている。個人の地位向上、経済の自律化、社会の金もうけ主義は、国民議会の命令によっても、新しいバスティーユの奪取によっても廃止することができない。全体主義体制の体験が目の前にあって、もしこれらの歴史的な骨組みを知らなければ、人は不可避的に破局へと向かっていくと私たちに想起させる。私はまた、救済は万人の生活をいっモう容易にするような何らかの科学求術上の刷新にあるとも思わない。技術は過ぎ去ったばかりの世紀を通じて異例の進歩を見せ、物質をますます制御することが可能にしたが、この進歩自体が驚くべき結論に到達した。すなわち、いかなる技術も私たちのすべての期待を満足させることはけっしてないという自覚である。もろもろの道具を際限なく改善するだけでは十分ではない。同時に、到達しようとする目的をめぐる問いを自分に課さなければならない。すなわち、いかなる世界で私たちは生きることを願っているのか。私たちはいかなる生活を営もうとしているのか。

つまり、私はつぎの極端な解答のいずれをも信じない。このような問いの隠蔽は往々にして、あきらめ、シニズム、またはある人々が虚無主義と呼んでいるもの--すなわち、人間のすべての活動はむなしく、世界は破滅へと向かっているという確信--へと通じている。だが私の場合はそうではない。私が、結局は肯定的なこうした精神の傾向のもろもろの源泉について問いかけるのは、私がそれらの源泉を、私が世間知らずであるかもしれないことは別にして、私が日々接している諸個人の日常的な行動のなかに見出すからである。エゴィストな行為、権威主義的な行為、または悪意のある行為には事欠かない。だが私はこれらの個人が、愛、遠近を問わず他者に対する献身、認識と真実への情熱、自分たちの周囲に意味と美を創造する必要に駆り立てられるのを見る。これらの熱情は私生活にのみかかわっているのではない。それらは私たちの種に本質的に属する人類学的特徴に由来する。それらはある種の社会制度や社会的プロジェクトのだかにも見出される。それらの制度やプロジェクトのおかげで、一国のいかかる住人も司法活動、保健システム、公教育、社会事業の恩恵に浴することができるのである。

これらの行動が示しているエネルギーが、いかにして現在の政治生活の大きな傾向を変化させることに一役買うのかを私は知らない。しかしながら、このエネルギーが永久に影響をもたらさないままであるとは、私にはどうしても想像できないのである。
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