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もしチャーチルがいなかったら

『チャーチル・ファクター』より

私は歴史における「もし」を問うことはあまり好きではない。いわゆる因果関係の流れが完全に明確ではないからだ。出来事はビリヤードのボールのようには起きない。ボールの一つが当たり前のように次のボールを動かすわけではない。ビリヤードの球でさえ思わぬ動きをするものだ。

山ほどある要素のなかから一つの木片を抜き取ってみれば、残りがどのように崩れ落ちるかはけっしてわからない。しかし、歴史上のすべての「もし」のなかでも、この問いは最も関心の高いものだろう。今日の最高の歴史家たちがこの思考実験を試みてきたが、圧倒的に多くが同じ結論に達している。もし一九四〇年にイギリスがドイツに対して抵抗を止めていたらどうなっていたか。結論は、欧州に取り返しがつかない災難が降りかかった、である。

当時、ヒトラーの勝利はほぼ確実だった。このため、もしイギリスが戦うことを諦めていたら、ドイツは対ロシアのバルバロッサ作戦を実際の一九四一年六月よりもはるかに早い段階で実行していただろう。地中海や北アフリカの砂漠でいまいましいイギリス軍がヒトラーの邪魔をしたり、兵や武器を取り上げたりしていなければ、ヒトラーはその敵意のすべてをロシアに向けることができたはずだ。独ソ不可侵条約に合意したときから密かに望んでいたように。そしてロシアでの軍事行動が寒さで凍った地獄と化す前に、ヒトラーは対ロシア戦をほぼ確実に成功させていただろう。実際にドイツ軍の進撃は驚くべき成果をもたらした。何百万平方マイルもの土地、一〇〇万人単位のロシア兵を制圧し、スターリングラードを占領し、モスクワの地下鉄の周辺駅まで到達した。もしドイツ軍がモスクワを占領し、共産主義体制を排除し、スターリンを再起不能なまでに叩きのめしていたらと想像してみてほしい(実際、ドイツの戦車が国境を越えた頃から、スターリンはすでに神経衰弱になっていた)。

歴史家たちは、ロシアではおそらく集団農場化によって割を食った中流階級の反対などにあって共産主義政権の独裁政治が急速に内部崩壊するだろうと予想した。そして、そこには親ナチスの傀儡政権が据えつけられるだろうと。もし本当にそうなっていたら、どんな世界になっていただろうか。

ヒトラーとナチス親衛隊指導者ハインワヒ・ヒムラーら邪悪な仲間たちは、大西洋からウラル山脈までの巨大なキャンバスを使って、ナチスドイツのおぞましい幻想を描くことができただろう。イギリス以外、それを止める存在はいなかった。ドイツに干渉する国もなく、彼らを公然と非難するほどの道徳的資質を持つ指導者もいなかった。

アメリカでは孤立主義者が勝利していただろう。もしイギリスが自国民の命を危険にさらさないのであれば、なぜアメリカがそうする必要があるのか? ベルリンでは、建築家のアルベルトシュペーアが「ゲルマニア」と呼ばれる新たな世界の首都をつくるという異常な計画を実行に移していただろう。

この都市計画の中心は「国民ホータ」になるはずであった。古代ローマの建築家アグワッパによるパンテオンの花尚岩版である。常軌を逸したデザインだ。あまりにも巨大なため、ロンドンにあるセント・ポータ大聖堂のドームをその天窓からそっくり入れられるほどであった。一〇万人が座れるように計画されていたが、祈りや叫びの声があまりにも大きいため、建築物の中で雨が発生するだろうと想定していた。集まった人々の温かい息が立ちのぼって凝結し、熱心なファシストの群集の頭部に水滴となって落ちてくるだろうと。

この悪夢のような建築物は巨大な鷲を戴いていた。このため、地上二九〇メートルの高さの、宇宙サイズのプロイセン風ヘルメットのように見えた。ロンドンのサザックにある高層ビル「シャード」に匹敵する高さである。その周りにはほかにもドイツの圧倒的強さを表す巨大なシンボルがあった。アーチはパワの凱旋門の二倍の大きさで、巨大な鉄道の駅から二階建ての列車が時速一九〇キロで疾走するはずであった。列車はドイツ人の入植者をカスピ海やウラル山脈、そのほかの東欧の地域に運ぶものである。ただしこの東欧地域からスラブ人の「下等人間」は追放されることになっていた。

スイスを除く(秘密の侵攻計画はあったものの)すべての欧州大陸はドイツ帝国の一部となるか、ファシスト国家として隷属していただろう。事実に反する推論をする多くの小説家が指摘したように、この地域を暗黒の欧州連合に転換するためのさまざまな計画が存在していた。

一九四二年、ドイツ帝国の経済大臣兼帝国銀行総裁グァルター・フンクは、欧州共通市場の必要性を提案する論文を書いた。単一通貨、中央銀行、共通の農業政策など、今日の私たちがどこかで聞いたことがあるような案を出した。リッペントロップ外相も同様の計画を提案した。ただしヒトラーは、ドイツ以外のメンバー国に対して生ぬるすぎるという理由でこの提案に反対した。

ゲシュタポが支配するナチス版EUでは、当局は自分たちの忌まわしい人種差別的イデオロギーを思う存分追求できただろう。ナチスは一九三〇年代に特定の人種の迫害活動を始めた。チャーチルが権力の座に就き、ドイツと戦い続けるという決定がなされるはるか以前に、ナチスはユダヤ人とポーランド人を強制移送していたのである。

鉄道の各拠点の近くにはこうした人々の「国外追放」の序章としてゲットーがつくられていた。ナチス親衛隊中佐アドルフ・アイヒマンがのちに認めたところによれば、国外追放とは粛清を意味していた。誰もその行動を検証せず、大部分が批判もしないままに、ナチスはユダヤ人、ジプシー、同性愛者、精神及び身体障害者など自分たちの気に入らない人々を大量に殺害する作業をこなしていただろう。そして、想像を絶するような恐ろしい、現実離れした、非人間的で、神をも恐れぬような人体実験を繰り広げていただろう。一九四〇年の夏、チャーチルはヨーロッパの状況についてこのように語った。ヨーロッパは「ゆがんだ科学の光によってさらに邪悪で、さらに終わりの見えない新たな暗黒時代に陥りつつある」。彼はまったく正しかった。

以上が実現していた可能性が最も高い、もう一つの世界だ。しかし、ヒトラーがロシアで成功せずスターリンが攻撃を返していたら、事態はこれよりましだっただろうか?

そのシナリオの場合、私たちは二つの全体主義によって分裂した欧州を目にしていただろう。一方はKGBか旧束ドイツの国家保安省による恐怖政治。もう一つは秘密警察ゲシュタポの支配する世界だ。どこにいようが国民は夜中のドアのノック、恣意的な逮捕、強制収容所に怯えている。抗議する道はない。
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