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待っといてくれる人

名古屋のスタバ

 やっと、名古屋に来れました。以前の通勤時間の高速バスで来て、吉野家で並卵を食べ、スタバへ。今日はIさんが出勤しています。

 「久しぶりです。ご無沙汰しています。緑です」「この間、メールを送ったから(来てくれたんですね)」

 「違和感がない。毎日来ているみたいな感覚でした」「今後は、いる日とかピンポイントで連絡しますので」「イベントがある日は居ます」「9月1日(新しいアニバーサリー)とか9月9日(コーヒーの倫理的調達の日)とかは居ました」「こっちまで、来てもらうのも大変だから」

 (全然変わらないんですね)「そうはいっても、まだ、半年しか経っていないので」(髪型が一緒のバリスタが豊田に居て、間違えた)「雰囲気変わりますよね」「気持ちは豊田まで運んでいますので」「ゆっくりしていってください」

 2分の会話後はラテを飲んで、ミッドランドスクエアへ。

待っていてくれる人がいる

 待っていてくれる心が嬉しいんです。乃木坂の握手会に行く人の心理がよく分かる。スタバも握手会をすればいいのに。今週末のポートメッセの全握に行こうかな。

未唯宇宙1.2

 未唯宇宙1.2は「本質」ではなく、「存在する意味」にします。「夢」は最初ではなく、最後です。

Iさんとのやりとり

 Iさんへは季節の挨拶を合図で送るから、それに対して、対応可能な日をリプライして下さい。そろそろ、行きたい、逢いたい、見たいという合図です。この前なら、「暑いですね」でした。そのままのリプライで動けなかった。

1.3.4「存在の力」

 意思の力を存在の力で崩していくのが、1.3.4「存在の力」です。組織とか社会は意思の力です。その矛盾を突いて、ハイアラキーに攻撃を仕掛ける。その最大の武器がサファイアです。ローカル中心の循環で活性化させる。

 「サファイア」は生ちゃんのリボンの騎士の役名と同じです。こんなところにもつながりを感じます。ついでに言えば、サファイア循環の「サファイア」はパートナーの誕生石です。

映画館の最前列で気分休め

 映画は「超高速参勤交代リターンズ」にした。何も考えずにいられるので。最前列の真ん中に居座った。後方座席には割と多くの人たちが居た。

 舞台は茨城でなく、もっと上のようでした。久保田さんには間違って送ってしまった。

 映画のコンテンツに広さは感じなかった。のんびりメガネを外して見ていた。

未唯宇宙の位置づけ

 未唯宇宙そのものは分化であり、統合への道筋を示すもの。存在と無の最初は矛盾とかではなく、もっと先を見たモノです。進む道です。未来学者になる、未来を知る、そっちへ持って行かないと。

 出発点が存在と無ということ。そこから答えは一つしかない。存在は内なる世界を作り上げて、それを数学者として分析することは未来を示す。それが出発点。出発点が答え。

孤立と孤独は説明

 孤立と孤独は説明です。存在しなくなる、つまり、無になることがある以上、それが放り込まれたことで起こった以上は、他者の存在は気にしないし、承認は受けない。

 答えとして、真理を求めていく。当然の流れです。真理は存在の証し。自分自身が納得するもの。皆にとっての真理ではなく、自分にとっての真理のために、社会学はするけど、数学と哲学がベースとなる。

トポロジーは大きなヒント

 その中で、トポロジーの説明をしています。順番はかなり変わってきます。

 トポロジーを習ったのは偶然ではなく、必然です。ベースとなるものから答えを持ってくる。そのツールとして、トポロジーがある。トポロジーは従来の考え方と大きく変わっていた。空間を作り上げること、つまり、近傍系から全体を作り上げることが可能です。

 これに気づいているものは多くない。ごちゃごちゃしたことの組み合わせで考えていて、そこでいかに金儲けするとか、自分の場所を見つけることに汲々としているが、ベースはもっと単純です。点から関わってくること、それに位相を入れること。

 そういう全体の座標系がなくてもできることが、今、求められているものです。それが存在の力のベースになっている。この並び順序も変えていかないといけない。トポロジーというものがあって、それは部分と全体に分かれる。部分を統合して、全体が作り出される。最終的にモデルがある。モデルがあって、モデルは先でも後でもいい。

未唯宇宙1.2は存在の説明

 夢の部分は作られたモノです。外部との接触がなければ、夢はない。仕事は夢を実現してきた。外なる世界に対して、何をしたらいいのか。やってみると、自分のために準備されたものがいかに多いか。インターネットにしても、パソコンにしても、会社にしても全て用意されていた。この感覚がある限り、自分は主役です。脇役はいません。

 未唯宇宙はオーラルだけでも膨大なものになりそうですね。一個一個をつながりという面と単独が持っている独立性で考えていく。独立性を重要視していく。そこにあるものは偶然ではない。
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人間の悪が平和の条件である

カント『永遠平和のために』NHK講座より

「共和的な体制」の条件とは

 カントは、永遠平和を実現するためには「世界国家」ではなく、「国際的な連合」をつくるべきだと主張しました。国家の集合体である連合をつくるには、まずはそれぞれの国家がすでに法的な安定状態を確立していることが前提となります。そこで今回は、国家(国内)体制のあり方について、カントがどう考えていたのかをみていこうと思います。

 第二章「国家間における永遠平和のための確定条項」のなかの第一確定条項が、国内の体制について書かれた部分です。ここでカントはまず、国際的な平和連合をつくるためには「どの国の市民的な体制も、共和的なものであること」が重要であると述べています。そして、その成立に必要な条件を以下のように記しています。

  共和的な体制を構成する条件が三つある。第一は、各人が社会の成員として、自由であるという原理が守られること、第二は、社会のすべての成員が臣民として、唯一で共同の法に従属するという原則が守られること、第三は、社会のすべての成員が国家の市民として、平等であるという法則が守られることである。この共和的な体制こそが、原初の契約の理念から生まれたものであり、民族のすべての正当な立法の基礎となるものである。

 ごく素直に読めば、「個人の自由と平等が守られていて、すべての人が共通の法にしたがうのが共和的体制である」という意味にとれますが、ここでカントが言っている「自由」「平等」は、現代の私たちが用いる言葉とは若干意味が異なることに注意が必要です。カントの「自由」「平等」は、どちらも法のあり方やそれに対する関係のことを表しています。

 「自由」というと私たちは、他人に迷惑をかけないかぎり何をしてもよいといったことをイメージしがちです。しかしカントがここで言っている「自由」とは、「国民は自分たちが同意した法にだけしたがい、同意していないもの、つまり誰かに勝手に押し付けられた法にはしたがわなくていい」ということです。

 「平等」のほうも、「男女平等」とか「人間には貴賤はない」といった意味が込められているのではありません。「法にはすべての人がしたがうべきで、例外は認められない」ということです。国民全員が同じ法の下に拘束されてはじめて、法の下の平等は実現されます。「他人に法にしたがうことを要求しておきながら、自分は法にしたがわなくていい」という人聞かいるのでは平等とは言えません。カントは、「法の公平性」というものを重視し、それが担保されている社会が共和的な体制であると考えたのです。

 共和的な体制を構成する三つの条件を挙げた後に、カントは引用文で「この共和的な体制こそが、原初の契約の理念から生まれたものであり、民族のすべての正当な立法の基礎となる」と続けています。「原初の契約」とは、第1回でご説明した「社会契約」のことです。自然状態では人間は互いに争い合ってしまうので、それぞれの権利や安全を守るために共通の法を自ら定め、それにしたがうことを互いに約束することで、国家(政府)をつくったーと考えたのが社会契約説でした。社会契約説を素直に解釈すれば、人びとが自ら政府をつくったのだから、国家の主権は人びとにある、ということになります。人びとが自ら定めた法にのみ平等にしたがう共和的体制こそ、社会契約の理念から直接生まれてくるものであり、それこそが立法の正当な基盤となる、ということです。したがって、カントがここで言っている「共和的な体制」とは、現代で言えば「主権在民」、すなわち国民が主権をもつ国民国家の体制に該当します。

「民主制」という言葉の意味

 ではなぜ、「共和的な体制」こそが永遠平和を実現するために適したものなのでしょうか。カントはその理由を以下のように述べています。

  この体制では戦争をする場合には、「戦争するかどうか」について、国民の同意をえる必要がある。共和的な体制で、それ以外の方法で戦争を始めることはありえないのである。そして国民は戦争を始めた場合にみずからにふりかかってくる恐れのあるすべての事柄について、決断しなければならなくなる。みずから兵士として戦わなければならないし、戦争の経費を自分の資産から支払わねばならないし、戦争が残す惨禍をつぐなわねばならない。さらにこれらの諸悪に加えて、たえず次の戦争が控えているために、完済することのできない借金の重荷を背負わねばならず、そのために平和の時期すらも耐えがたいものになる。だから国民は、このような割に合わないくばくち〉を始めることに慎重になるのは、ごく当然のことである。

 この部分はとてもわかりやすい論理で書かれています。専制君主国家では、戦争をするかしないかは君主が一人で決めるのに対して、国民が主権を持った国家(共和制国家)では、それを決めるのは国民自身です。そうなると、おのずと自分たちの命を危険にさらすような馬鹿な真似はしなくなります。誰だって死にたくはないし、軍備を拡張するために高い税金を課せられるのは嫌でしょう。だから、戦争を起こさなくするためには国民主権の国家体制が望ましい、とカントは言うのです。

 ただし、少しややこしい問題があります。というのも、カントはこの少し後でこう述べているからです。「共和的な体制は、民主的な体制と混同されることが多いが、この二つを区別するには次の点に配慮する必要がある」と。カントによれば、共和的な体制と民主的な体制は別のものだということです。このカントの指摘を受けて、両者が具体的にどう違うのかと戸惑う方もいらっしゃるかもしれません。少し説明しておきましょう。

 カントは、国家のあり方を分類する基準として「支配の形式」と「統治の形式」の二つを挙げています。まず、「支配の形式」とは、支配する権力を握っている者の人数によって分類する方法のことで、権力者が一人の場合は「君主制」、複数人の場合は「貴族制」、すべての人が支配する権力を握っている場合は「民主制」に分類されます。「民主制」という言葉の意味が当時と現代とでは少し異なるんですね。つまり、カントの言う「民主制」とは、国民全員が国会に参加して、すべてをみんなで決め、さらに国民全員でそれを執行するという体制-つまり「直接民主制」のことを指しています。

 この分類にしたがうなら、現在の日本のあり方は民主制ではなく、貴族制に近いということになります。日本では主権は国民にありますが、国民は選挙で国会議員を選び、その国会議員で構成される国会が立法権を有し、さらに法の執行は国会とは区別された行政機関が行うという間接民主制ですから、すべてのことを全員が直接決めて執行する直接民主制とは異なります。

 カントはこうした「支配の形式」よりも、「統治の形式」に注目することこそが、平和な国家を実現するうえでは重要だと考えました。「統治の形式」とは、立法権と行政権の関係によって国家のあり方を分類する方法のことです。カントは、統治の形式において国家のあり方は「共和政体」と「専制政体」の二種類に分けられるとして、その違いを述べています。

  共和政体とは、行政権(統治権)が立法権と分離されている国家原理であり、専制政体とは、国家がみずから定めた法律を独断で執行する国家原理である。

 要するに、行政権と立法権が分離しているのが共和政体で、行政権と立法権が分離せずひとつになっているのが専制政体です。カントは共和政体を支持しました。ルールを定める側(立法)と、それを実際に執行する側(行政)が分離していないと、執行する側が自分に都合のよい法を勝手につくり、やりたい放題の状態になってしまうからです。

 第1回でもお話ししたように、「人間は邪悪な存在である」という人間観をカントは持っていました。人間は好きなことをしていい状況におかれると、自分だけの利益を考えてよからぬ方向に向かうものである。だからこそ、そうならないために、立法と行政はしっかり分けるべきだー-’とカントは考えたのです。

 カントが「民主制」を否定したのも、この論理とつながっています。ここでの「民主制」とは直接民主制のことを指しますから、民主制国家とは、国民全員で法を定め、国民全員でそれを執行する国家ということになります。いわば全体主義です。全員で立法と行政をになうため、立法権と行政権は分離されえず、カントの論理でいえば、「民主制=専制政体↓否定すべきもの」となるのです。

 話がややこしくなりましたが、要はカントの言う「共和的な体制」とは、現代で言う「民主的な体制」のことを指していると考えてください。
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