『映画は社会学する』より 監視社会
身体の消失
ライアンが現代の監視社会の重要な特徴として指摘しているのが、監視の対象としての身体の消失である。注意しておきたいのは、ライアンのいう「身体の消失」は、監視システムの技術的発展のなかで、監視の対象が身体からデータヘと移行したという意味ではないということだ。
近代社会は、そもそも、人びとの社会生活におけるコミュニケーションの範囲を、身体の直接的な現前を前提として展開するものから、交通や通信メディアの発達によって、身体的に知覚可能な範囲を超えて大きく拡大させた社会である。近代社会におけるコミュニケーションが身体的現前を前提としなくなったからこそ、身体の直接的監視はじゅうぶんに機能しない。したがって、近代社会における監視は、技術的発展に合わせてその対象を身体からデータヘと移行させたというよりも、データを対象としない限り監視の意味を成さないのだ。ライアンの考える「監視」は、社会のなかにまず存在していて、その対象が情報技術の発展とともに身体からデータヘと移行していくものではない。むしろ、その逆で、社会的コミュニケーションが身体を前提としなくなってきたからこそ、ライアンの考える「監視」が出現したのだ。
その点、現在の監視社会の象徴でもある監視カメラは、対象の身体をカメラの視野に収める点で身体を対象としており、ライアンの指摘と矛盾しているように見える。しかし、監視カメラの映像のみでは、監視はじゅうぶんに機能しない。映像のみで捉えられたからこそ、『ゴールデンスランバー』では青柳の偽物の姿を青柳本人の姿と思い込ませることが可能だった。また、『プラチナデータ』において、監視カメラに捉えられた人物の映像から顔貌や歩容が抽出され、それがDNA捜査システムのデータベースと照合されて神楽として特定されたのだった。
ライアンの考える「監視」は、コミュニケーションが、社会の近代化によって、身体の直接的現前を前提としなくなったことで現れる「監視」であることは強調しておきたい。
情報化
そして、ライアンの考える「監視」は、「身体の消失」という前提が設定されることで、情報化を必然的にともなう。監視の情報化は身体の消失と表裏一体なのだ。
社会の流動性が高まっている現代社会においては、コミュニケーションの範囲が身体の直接的な現前を前提としなくなった。だからこそ、監視は身体を対象としなくなる。それでは何か監視の対象かというと、「個人から抽出した断片的な事実」である。つまり、氏名・住所・生年月日・電話番号といった個人情報、クレジットカード番号やその利用記録、ネット・ショッピングの購入履歴、ウェブ・サイトのアクセス記録など、それぞれ断片化されたデータであり、それらが監視の目的別に収集・分析され利用されている。したがって、監視社会において、ひとりの個人は、データの束として把握される。
しかし、個人が断片化したデータやそれらの束として把握されるからこそ、データの記録・保存・管理・処理を、コンピュータに代表される情報技術に委ね、効率性の高い監視が可能になるのである。情報技術に支えられたデータの監視によってもたらされるのが、M.ポスターが「超パノプティコン」とよぶ状況である。「パノプティコン」とは,常時監視されている(かもしれない)状況に閉じ込めて囚人を規律訓練する監禁装置である。M.フーコーは、パノプティコンによる監禁を、規律を内面化する近代的主体の生成の問題として論じた。監視の情報化によって登場した超パノプティコンは、一方で、パノプティコンの監視可能性を徹底するが、他方で監視される主体に対してパノプティコンとは対照的な帰結をもたらすとライアンは指摘する。「パノプティコンは、自分の内的生を改善しようとする主体を産出する。対照的に、超パノプティコンは、対象を構成する。つまり、アイデンティティの分散した個人、これらのアイデンティティがコンピュータによってどのように解釈されるのか気付かずにいる個人を」。
つまり、断片的なデータとその情報処理としての監視は、監視する側だけでなく、監視される側にとっても、個人を断片的データの束として出来させてしまうのだ。近年のライアンは、こうした監視の情報化の結果、断片的データによって個人が格付けされ「社会的振り分け」が行われることの問題を強調している。
プライバシーと自由
監視がすみずみまで行き届いている監視社会は、プライバシーを失った社会である。『踊る大捜査線』の監視カメラ・システムが「極秘裏の試験運用」だったのは、「プライバシー問題」に配慮してのことだった。『サイコパス』の世界は、街中に設置されたセンサーによって、人びとのサイコパスが常にチェックされており、異常が検出されるとそれを排除するための対応が即座にとられるようになっていた。個人の精神状態の常時監視など、プライバシー侵害の究極のかたちであろう。
もちろんこれは虚構のSF的世界の話である。しかし、意識することなく情報技術の恩恵を受けている(ユビキタス化した)現在の情報環境について考えてみると、移動体端末のGPSや、クレジットカードの利用記録、ネットワークのアクセス記録など、私たちは日常生活のなかで個人情報を常に発信している。そうした情報が、追跡可能な状況におかれているかぎり、上記のSF的状況とは程度問題でしかない。
たしかに現代の監視の技術は私たちのプライバシーを侵害している。しかし、それは私たちにとって「不自由」であろうか。たとえば、プライバシーが侵害されているからといって、私たちはGPS機能搭載の携帯電話を手放すだろうか。おそらく私たちはそうしない。それが私たちの日常生活のなかに浸透していて、それを手放すことの方が逆に「不自由」を招くからだ。プライバシーを侵害する技術が、私たちにより自由な生活をもたらしているのだ。『サイコパス』の世界でも、人びとが精神状態の常時監視を許容するのは、それによって平穏で安心な社会で暮らせるからだ。
監視社会では、基本的に人びとが自由に振る舞うことは許容されている。しかし、その行動が常に監視されており、社会秩序を脅かす行動だと判断されれば、即座に排除される。この監視と排除によって社会秩序が維持されている。私たちの自由は、監視する側が許容する範囲での「自由」である。それは、監視する側から「自由」を与えてもらうために 自分たちのプライバシーを自発的に放棄しているということでもある。
管理機構としての監視システム
『サイコパス』の世界が描いていたように、監視社会の究極の目的は、「常に見張ること」そのものではなく、「常に見張ること」によって「社会をコントロールすること」である。したがって,「常に見張ること」がどのようなしくみで「社会をコントロールしているのか」を理解する必要がある。つまり、管理社会における「管理機構が、「監視すること」とどのように関係しているのかを捉えなければならない。ここは、G.ドゥルーズに倣い、管理社会とフーコーの規律社会との違いから確認しておきたい。
フーコーの描く規律社会の要点は、パノプティコンに逸脱者を閉じ込めてルールを内面化させるという、監禁による規律訓練である。ルールの内面化によって、人びとは、監禁装置の外でも、ルールから逸脱せずに振る舞う。かれらは、自発的にルールを遵守するようにつくりあげられる(主体化される)のだ。
しかし、近代化の進行とともに社会の流動性が高まるにつれ、ルールの内面化は、社会をコントロールする有効性を失っていく。流動性の高い社会においては、ルールを内面化してしまうと、その変更(新たなルールの再内面化)には大きなコストをともなうため、変化に対応しながら社会をコントロールするのは難しいからだ。
そこで、社会の変化に柔軟に対応するため、人びとには自由に行動することが許容される。しかし、この自由は無制限の自由ではない。無制限に自由な行動によって、万人が万人に対して闘争する自然状態に陥らないためにも、この自由は一定の範囲内にコントロールされなければならない。コントロールする側は、人びとの行動をチェックし、許容範囲を逸脱した行動を見つけるとそれを速やかに排除する。こうして人びとの自由な行動を一定範囲内に収めるのが「管理社会」であり、それを実現するしくみが「管理機構」である。
憲法学者のL.レッシングは、人間の行動を制約・誘導する手段として、法、社会的規範、市場と並んで重要なのが、ネット空間や社会空間の構造「アーキテクチャ」だと指摘する。人間の行動が一定の範囲内に収まるように設計された環境(客の長時間滞在を制限し、回転率を上げるために飲食店が椅子を硬くするなど)がアーキテクチャだが、これがドゥルーズのいう「管理機構」に重なるのは明らかだろう。
『踊る大捜査線』では、犯罪監視システムに常時監視されることによって「みんな隠れて何もできなくなる」と語られていた(監視システム・オペレーター小池茂〔小泉孝太郎〕のセリフ)。その意味では、人びとを「見張り続ける」さまざまな監視装置を張り巡らせた現代社会の環境こそ、行動を逐一チェックすることで人びとの行動を一定の範囲内に制限・誘導するアーキテクチャ=管理機構である。社会は監視システムによってコントロールされる。人びとを「最大多数の最大幸福」へ導くために社会全域を常時監視している『サイコパス』のシビュラは、典型的なアーキテクチャ=管理機構である。
身体の消失
ライアンが現代の監視社会の重要な特徴として指摘しているのが、監視の対象としての身体の消失である。注意しておきたいのは、ライアンのいう「身体の消失」は、監視システムの技術的発展のなかで、監視の対象が身体からデータヘと移行したという意味ではないということだ。
近代社会は、そもそも、人びとの社会生活におけるコミュニケーションの範囲を、身体の直接的な現前を前提として展開するものから、交通や通信メディアの発達によって、身体的に知覚可能な範囲を超えて大きく拡大させた社会である。近代社会におけるコミュニケーションが身体的現前を前提としなくなったからこそ、身体の直接的監視はじゅうぶんに機能しない。したがって、近代社会における監視は、技術的発展に合わせてその対象を身体からデータヘと移行させたというよりも、データを対象としない限り監視の意味を成さないのだ。ライアンの考える「監視」は、社会のなかにまず存在していて、その対象が情報技術の発展とともに身体からデータヘと移行していくものではない。むしろ、その逆で、社会的コミュニケーションが身体を前提としなくなってきたからこそ、ライアンの考える「監視」が出現したのだ。
その点、現在の監視社会の象徴でもある監視カメラは、対象の身体をカメラの視野に収める点で身体を対象としており、ライアンの指摘と矛盾しているように見える。しかし、監視カメラの映像のみでは、監視はじゅうぶんに機能しない。映像のみで捉えられたからこそ、『ゴールデンスランバー』では青柳の偽物の姿を青柳本人の姿と思い込ませることが可能だった。また、『プラチナデータ』において、監視カメラに捉えられた人物の映像から顔貌や歩容が抽出され、それがDNA捜査システムのデータベースと照合されて神楽として特定されたのだった。
ライアンの考える「監視」は、コミュニケーションが、社会の近代化によって、身体の直接的現前を前提としなくなったことで現れる「監視」であることは強調しておきたい。
情報化
そして、ライアンの考える「監視」は、「身体の消失」という前提が設定されることで、情報化を必然的にともなう。監視の情報化は身体の消失と表裏一体なのだ。
社会の流動性が高まっている現代社会においては、コミュニケーションの範囲が身体の直接的な現前を前提としなくなった。だからこそ、監視は身体を対象としなくなる。それでは何か監視の対象かというと、「個人から抽出した断片的な事実」である。つまり、氏名・住所・生年月日・電話番号といった個人情報、クレジットカード番号やその利用記録、ネット・ショッピングの購入履歴、ウェブ・サイトのアクセス記録など、それぞれ断片化されたデータであり、それらが監視の目的別に収集・分析され利用されている。したがって、監視社会において、ひとりの個人は、データの束として把握される。
しかし、個人が断片化したデータやそれらの束として把握されるからこそ、データの記録・保存・管理・処理を、コンピュータに代表される情報技術に委ね、効率性の高い監視が可能になるのである。情報技術に支えられたデータの監視によってもたらされるのが、M.ポスターが「超パノプティコン」とよぶ状況である。「パノプティコン」とは,常時監視されている(かもしれない)状況に閉じ込めて囚人を規律訓練する監禁装置である。M.フーコーは、パノプティコンによる監禁を、規律を内面化する近代的主体の生成の問題として論じた。監視の情報化によって登場した超パノプティコンは、一方で、パノプティコンの監視可能性を徹底するが、他方で監視される主体に対してパノプティコンとは対照的な帰結をもたらすとライアンは指摘する。「パノプティコンは、自分の内的生を改善しようとする主体を産出する。対照的に、超パノプティコンは、対象を構成する。つまり、アイデンティティの分散した個人、これらのアイデンティティがコンピュータによってどのように解釈されるのか気付かずにいる個人を」。
つまり、断片的なデータとその情報処理としての監視は、監視する側だけでなく、監視される側にとっても、個人を断片的データの束として出来させてしまうのだ。近年のライアンは、こうした監視の情報化の結果、断片的データによって個人が格付けされ「社会的振り分け」が行われることの問題を強調している。
プライバシーと自由
監視がすみずみまで行き届いている監視社会は、プライバシーを失った社会である。『踊る大捜査線』の監視カメラ・システムが「極秘裏の試験運用」だったのは、「プライバシー問題」に配慮してのことだった。『サイコパス』の世界は、街中に設置されたセンサーによって、人びとのサイコパスが常にチェックされており、異常が検出されるとそれを排除するための対応が即座にとられるようになっていた。個人の精神状態の常時監視など、プライバシー侵害の究極のかたちであろう。
もちろんこれは虚構のSF的世界の話である。しかし、意識することなく情報技術の恩恵を受けている(ユビキタス化した)現在の情報環境について考えてみると、移動体端末のGPSや、クレジットカードの利用記録、ネットワークのアクセス記録など、私たちは日常生活のなかで個人情報を常に発信している。そうした情報が、追跡可能な状況におかれているかぎり、上記のSF的状況とは程度問題でしかない。
たしかに現代の監視の技術は私たちのプライバシーを侵害している。しかし、それは私たちにとって「不自由」であろうか。たとえば、プライバシーが侵害されているからといって、私たちはGPS機能搭載の携帯電話を手放すだろうか。おそらく私たちはそうしない。それが私たちの日常生活のなかに浸透していて、それを手放すことの方が逆に「不自由」を招くからだ。プライバシーを侵害する技術が、私たちにより自由な生活をもたらしているのだ。『サイコパス』の世界でも、人びとが精神状態の常時監視を許容するのは、それによって平穏で安心な社会で暮らせるからだ。
監視社会では、基本的に人びとが自由に振る舞うことは許容されている。しかし、その行動が常に監視されており、社会秩序を脅かす行動だと判断されれば、即座に排除される。この監視と排除によって社会秩序が維持されている。私たちの自由は、監視する側が許容する範囲での「自由」である。それは、監視する側から「自由」を与えてもらうために 自分たちのプライバシーを自発的に放棄しているということでもある。
管理機構としての監視システム
『サイコパス』の世界が描いていたように、監視社会の究極の目的は、「常に見張ること」そのものではなく、「常に見張ること」によって「社会をコントロールすること」である。したがって,「常に見張ること」がどのようなしくみで「社会をコントロールしているのか」を理解する必要がある。つまり、管理社会における「管理機構が、「監視すること」とどのように関係しているのかを捉えなければならない。ここは、G.ドゥルーズに倣い、管理社会とフーコーの規律社会との違いから確認しておきたい。
フーコーの描く規律社会の要点は、パノプティコンに逸脱者を閉じ込めてルールを内面化させるという、監禁による規律訓練である。ルールの内面化によって、人びとは、監禁装置の外でも、ルールから逸脱せずに振る舞う。かれらは、自発的にルールを遵守するようにつくりあげられる(主体化される)のだ。
しかし、近代化の進行とともに社会の流動性が高まるにつれ、ルールの内面化は、社会をコントロールする有効性を失っていく。流動性の高い社会においては、ルールを内面化してしまうと、その変更(新たなルールの再内面化)には大きなコストをともなうため、変化に対応しながら社会をコントロールするのは難しいからだ。
そこで、社会の変化に柔軟に対応するため、人びとには自由に行動することが許容される。しかし、この自由は無制限の自由ではない。無制限に自由な行動によって、万人が万人に対して闘争する自然状態に陥らないためにも、この自由は一定の範囲内にコントロールされなければならない。コントロールする側は、人びとの行動をチェックし、許容範囲を逸脱した行動を見つけるとそれを速やかに排除する。こうして人びとの自由な行動を一定範囲内に収めるのが「管理社会」であり、それを実現するしくみが「管理機構」である。
憲法学者のL.レッシングは、人間の行動を制約・誘導する手段として、法、社会的規範、市場と並んで重要なのが、ネット空間や社会空間の構造「アーキテクチャ」だと指摘する。人間の行動が一定の範囲内に収まるように設計された環境(客の長時間滞在を制限し、回転率を上げるために飲食店が椅子を硬くするなど)がアーキテクチャだが、これがドゥルーズのいう「管理機構」に重なるのは明らかだろう。
『踊る大捜査線』では、犯罪監視システムに常時監視されることによって「みんな隠れて何もできなくなる」と語られていた(監視システム・オペレーター小池茂〔小泉孝太郎〕のセリフ)。その意味では、人びとを「見張り続ける」さまざまな監視装置を張り巡らせた現代社会の環境こそ、行動を逐一チェックすることで人びとの行動を一定の範囲内に制限・誘導するアーキテクチャ=管理機構である。社会は監視システムによってコントロールされる。人びとを「最大多数の最大幸福」へ導くために社会全域を常時監視している『サイコパス』のシビュラは、典型的なアーキテクチャ=管理機構である。