未唯への手紙

未唯への手紙

監視社会についての論点

2016年09月05日 | 3.社会
『映画は社会学する』より 監視社会

身体の消失

 ライアンが現代の監視社会の重要な特徴として指摘しているのが、監視の対象としての身体の消失である。注意しておきたいのは、ライアンのいう「身体の消失」は、監視システムの技術的発展のなかで、監視の対象が身体からデータヘと移行したという意味ではないということだ。

 近代社会は、そもそも、人びとの社会生活におけるコミュニケーションの範囲を、身体の直接的な現前を前提として展開するものから、交通や通信メディアの発達によって、身体的に知覚可能な範囲を超えて大きく拡大させた社会である。近代社会におけるコミュニケーションが身体的現前を前提としなくなったからこそ、身体の直接的監視はじゅうぶんに機能しない。したがって、近代社会における監視は、技術的発展に合わせてその対象を身体からデータヘと移行させたというよりも、データを対象としない限り監視の意味を成さないのだ。ライアンの考える「監視」は、社会のなかにまず存在していて、その対象が情報技術の発展とともに身体からデータヘと移行していくものではない。むしろ、その逆で、社会的コミュニケーションが身体を前提としなくなってきたからこそ、ライアンの考える「監視」が出現したのだ。

 その点、現在の監視社会の象徴でもある監視カメラは、対象の身体をカメラの視野に収める点で身体を対象としており、ライアンの指摘と矛盾しているように見える。しかし、監視カメラの映像のみでは、監視はじゅうぶんに機能しない。映像のみで捉えられたからこそ、『ゴールデンスランバー』では青柳の偽物の姿を青柳本人の姿と思い込ませることが可能だった。また、『プラチナデータ』において、監視カメラに捉えられた人物の映像から顔貌や歩容が抽出され、それがDNA捜査システムのデータベースと照合されて神楽として特定されたのだった。

 ライアンの考える「監視」は、コミュニケーションが、社会の近代化によって、身体の直接的現前を前提としなくなったことで現れる「監視」であることは強調しておきたい。

情報化

 そして、ライアンの考える「監視」は、「身体の消失」という前提が設定されることで、情報化を必然的にともなう。監視の情報化は身体の消失と表裏一体なのだ。

 社会の流動性が高まっている現代社会においては、コミュニケーションの範囲が身体の直接的な現前を前提としなくなった。だからこそ、監視は身体を対象としなくなる。それでは何か監視の対象かというと、「個人から抽出した断片的な事実」である。つまり、氏名・住所・生年月日・電話番号といった個人情報、クレジットカード番号やその利用記録、ネット・ショッピングの購入履歴、ウェブ・サイトのアクセス記録など、それぞれ断片化されたデータであり、それらが監視の目的別に収集・分析され利用されている。したがって、監視社会において、ひとりの個人は、データの束として把握される。

 しかし、個人が断片化したデータやそれらの束として把握されるからこそ、データの記録・保存・管理・処理を、コンピュータに代表される情報技術に委ね、効率性の高い監視が可能になるのである。情報技術に支えられたデータの監視によってもたらされるのが、M.ポスターが「超パノプティコン」とよぶ状況である。「パノプティコン」とは,常時監視されている(かもしれない)状況に閉じ込めて囚人を規律訓練する監禁装置である。M.フーコーは、パノプティコンによる監禁を、規律を内面化する近代的主体の生成の問題として論じた。監視の情報化によって登場した超パノプティコンは、一方で、パノプティコンの監視可能性を徹底するが、他方で監視される主体に対してパノプティコンとは対照的な帰結をもたらすとライアンは指摘する。「パノプティコンは、自分の内的生を改善しようとする主体を産出する。対照的に、超パノプティコンは、対象を構成する。つまり、アイデンティティの分散した個人、これらのアイデンティティがコンピュータによってどのように解釈されるのか気付かずにいる個人を」。

 つまり、断片的なデータとその情報処理としての監視は、監視する側だけでなく、監視される側にとっても、個人を断片的データの束として出来させてしまうのだ。近年のライアンは、こうした監視の情報化の結果、断片的データによって個人が格付けされ「社会的振り分け」が行われることの問題を強調している。

プライバシーと自由

 監視がすみずみまで行き届いている監視社会は、プライバシーを失った社会である。『踊る大捜査線』の監視カメラ・システムが「極秘裏の試験運用」だったのは、「プライバシー問題」に配慮してのことだった。『サイコパス』の世界は、街中に設置されたセンサーによって、人びとのサイコパスが常にチェックされており、異常が検出されるとそれを排除するための対応が即座にとられるようになっていた。個人の精神状態の常時監視など、プライバシー侵害の究極のかたちであろう。

 もちろんこれは虚構のSF的世界の話である。しかし、意識することなく情報技術の恩恵を受けている(ユビキタス化した)現在の情報環境について考えてみると、移動体端末のGPSや、クレジットカードの利用記録、ネットワークのアクセス記録など、私たちは日常生活のなかで個人情報を常に発信している。そうした情報が、追跡可能な状況におかれているかぎり、上記のSF的状況とは程度問題でしかない。

 たしかに現代の監視の技術は私たちのプライバシーを侵害している。しかし、それは私たちにとって「不自由」であろうか。たとえば、プライバシーが侵害されているからといって、私たちはGPS機能搭載の携帯電話を手放すだろうか。おそらく私たちはそうしない。それが私たちの日常生活のなかに浸透していて、それを手放すことの方が逆に「不自由」を招くからだ。プライバシーを侵害する技術が、私たちにより自由な生活をもたらしているのだ。『サイコパス』の世界でも、人びとが精神状態の常時監視を許容するのは、それによって平穏で安心な社会で暮らせるからだ。

 監視社会では、基本的に人びとが自由に振る舞うことは許容されている。しかし、その行動が常に監視されており、社会秩序を脅かす行動だと判断されれば、即座に排除される。この監視と排除によって社会秩序が維持されている。私たちの自由は、監視する側が許容する範囲での「自由」である。それは、監視する側から「自由」を与えてもらうために 自分たちのプライバシーを自発的に放棄しているということでもある。

管理機構としての監視システム

 『サイコパス』の世界が描いていたように、監視社会の究極の目的は、「常に見張ること」そのものではなく、「常に見張ること」によって「社会をコントロールすること」である。したがって,「常に見張ること」がどのようなしくみで「社会をコントロールしているのか」を理解する必要がある。つまり、管理社会における「管理機構が、「監視すること」とどのように関係しているのかを捉えなければならない。ここは、G.ドゥルーズに倣い、管理社会とフーコーの規律社会との違いから確認しておきたい。

 フーコーの描く規律社会の要点は、パノプティコンに逸脱者を閉じ込めてルールを内面化させるという、監禁による規律訓練である。ルールの内面化によって、人びとは、監禁装置の外でも、ルールから逸脱せずに振る舞う。かれらは、自発的にルールを遵守するようにつくりあげられる(主体化される)のだ。

 しかし、近代化の進行とともに社会の流動性が高まるにつれ、ルールの内面化は、社会をコントロールする有効性を失っていく。流動性の高い社会においては、ルールを内面化してしまうと、その変更(新たなルールの再内面化)には大きなコストをともなうため、変化に対応しながら社会をコントロールするのは難しいからだ。

 そこで、社会の変化に柔軟に対応するため、人びとには自由に行動することが許容される。しかし、この自由は無制限の自由ではない。無制限に自由な行動によって、万人が万人に対して闘争する自然状態に陥らないためにも、この自由は一定の範囲内にコントロールされなければならない。コントロールする側は、人びとの行動をチェックし、許容範囲を逸脱した行動を見つけるとそれを速やかに排除する。こうして人びとの自由な行動を一定範囲内に収めるのが「管理社会」であり、それを実現するしくみが「管理機構」である。

 憲法学者のL.レッシングは、人間の行動を制約・誘導する手段として、法、社会的規範、市場と並んで重要なのが、ネット空間や社会空間の構造「アーキテクチャ」だと指摘する。人間の行動が一定の範囲内に収まるように設計された環境(客の長時間滞在を制限し、回転率を上げるために飲食店が椅子を硬くするなど)がアーキテクチャだが、これがドゥルーズのいう「管理機構」に重なるのは明らかだろう。

 『踊る大捜査線』では、犯罪監視システムに常時監視されることによって「みんな隠れて何もできなくなる」と語られていた(監視システム・オペレーター小池茂〔小泉孝太郎〕のセリフ)。その意味では、人びとを「見張り続ける」さまざまな監視装置を張り巡らせた現代社会の環境こそ、行動を逐一チェックすることで人びとの行動を一定の範囲内に制限・誘導するアーキテクチャ=管理機構である。社会は監視システムによってコントロールされる。人びとを「最大多数の最大幸福」へ導くために社会全域を常時監視している『サイコパス』のシビュラは、典型的なアーキテクチャ=管理機構である。

連続性の中に生きる

2016年09月05日 | 7.生活
豊田市図書館の品揃い

 2年前の豊田市図書館の品揃いはよかった! この二年で何が起こったのか? 市としての方向が見いだせない。

 市民の環境に関する意識も10年前に比べると悪くなっている。豊かだと思っている連中は現状維持を図る。それは常に悪化を意味する。

連続性の中に生きる

 歯医者の予約を忘れていた。3時に何か感じていたので、ふと感じて、確認したら、そうだった。その日だけで生きるのではなく、連続性の中で生きることを感じないといけない。

 朝起きたときからの1日が全てから変えていきます。だけど、予定したものはほとんど、朝には動けないのも事実。そこでムリすると、急激な眠気に襲われます。それを前提として、生きていく。

ポートメッセの全握に行きたい

 18日のポートメッセなごやでの全国握手会に行こうかと思っている。2日の幕張には、例年の倍の2万人ぐらい来たみたい。少しびびります。体力が持たない。ミニライブで、生ちゃんのミュージカルをみたいけど、近寄ることは難しい。

 ブログを見ていると、ファンの方がメンバーの体調を気にしています。ミニライブは見るけど、メンバーに負担を掛けないために、欠席する人も居た。

 握手するために、七瀬で2時間半待ち。体調悪化が玲香、若様、白石、琴子、日奈子の5人、他の仕事は生ちゃん他2名欠席だから、余計に混みます。

 さらにブログを見ていると、幕張で握手できなかったから、名古屋まで遠征すると決めた人間が多く居た。全握は10月1日の京都しかないから、関東から狙われそう。

大躍進--国民の半数が死のうとも 一九五八~六一年 毛沢東六四~六七歳

2016年09月05日 | 4.歴史
『真説 毛沢東 下』より

中国全土を襲った大飢饉は一九五八年に始まり、一九六一年まで続いた。最悪だった一九六〇年には、政府の公式統計でも、国民の平均カロリー摂取量は一日あたり一五三四・八(キロ)カロリーまで落ち込んでいる。きわめて毛沢東政権寄りの作家ハン・スーインでさえ、都市部の主婦の一日あたりカロリー摂取量は一九六〇年には最大で一二〇〇カロリーだった、と書いている。アウシュビッツ強制労働収容所の囚人は、一日あたりて二〇〇ないし一七〇〇カロリーの食事を与えられていた。それでも、一日に約一一時間の重労働をさせられる囚人の場合、配給以外の食糧を手に入れられない者は大半が数カ月以内に死亡している。

大飢饉のあいだ、人肉を食べた者もいた。毛沢東の死後に安徽省鳳陽県に関しておこなわれた研究(ただちに中止させられた)によると、一九六〇年の春だけで六三件の人肉食が記録されている。その中には、夫婦が八歳の息子を絞め殺して食べたケースもあった。しかも、おそらく鳳陽が最悪のケースではないはずだ。住民の三分の一が死亡した甘粛省のある県でも、人肉食が横行した。ある村の幹部で妻も姉も子供も飢饉でなくした人物は、のちにジャーナリストにこう語っている。「それは多くの村人たちが人肉を食べましたよ……あそこ、公社の事務室の外でしやがんで日向ぼっこをしている人たちが見えるでしょう?あの人たちの何人かは人肉を食べています……みんな、腹が減って頭がおかしくなってしまったのです」

こうした地獄絵の一方で、国の穀物倉庫には食糧がたっぷりあり、軍によって守られていた。なかには倉庫内でそのまま腐ってしまう食糧さえあった。ポーランドのある学生は、一九五九年の夏から秋にかけて中国東南で果物が「トン単位で腐っていく」のを目にしたという。それでも当局は、「餓死不開倉」(人民が餓死しようとも、穀物倉庫の扉は開けるな)と命令していた。

大躍進と大飢饉の四年間で、三八〇〇万近い人々が餓死あるいは過労死した。この数字は、ナンバー2の劉少奇によって確認されている。劉少奇は、大飢饉が終息する前の段階ですでに三〇〇〇万人が餓死したことをソ連大使ステパン・チェルボネンコに話している。

六一年にかけての死亡者数が過少報告されたためである。

これは二〇世紀最悪の飢饉、人類史上最悪の飢饉だった。毛沢東は計算ずくで何千万という人々を餓死や過労死へ追いやったのである。飢饉が最悪だった一九五八年から一九五九年にかけての二年間、穀物だけでも七〇〇万トン近くが輸出されている。これだけあれば、三八〇〇万人に一日あたり八四〇カロリー以上を与えることができる--生死を分ける数字だ。しかも、これは穀物だけの数字で、食肉、食用油、卵、その他大量に輸出された食料品は含まれていない。これらが輸出に回されず、人道主義的基準に従って分配されていたら、おそらく中国は一人の餓死者も出さずにすんだはずだ。

実際には、毛沢東はさらに多くの人間が死ぬことを計算に入れていた。大躍進のあいだ、毛沢東は意図的に大量殺人をおこなったわけではないが、結果的に大量の人間が死ぬことになってもかまわないと考えており、そのような事態が起こってもあまり驚かないように、と、幹部に伝えていた。大躍進運動の開始を決定した一九五八年五月の党大会において、毛沢東は、党が打ち出した方針の結果として人々が死ぬことを恐れてはいけない、むしろ歓迎すべきである、と演説した。「もし今日まで孔子が生き残っていたら、えらいことになるではないか?」「妻が死んだときに荘子が両足を投げ出し盆(酒器)を鼓して歌を歌ったのは、正しかった」「人が死んだときには慶祝会を開くべきである」「死は、まさに喜ぶべきことである……われわれは弁証法的思考を信じるわけだから、死を歓迎しないということはありえない」

この軽薄かつ悪魔的な「哲理」は、下々の農村幹部にまで伝達された。安徽省鳳陽県で餓死や過労死した人々の死体を見せられたある幹部は、「人が死ななければ、地球上に人があふれてしまう! 生きるも死ぬも世の常だ。この世に死なない人間などいるかね?」と、毛沢東の言葉をほぼそのまま口にしたという。ある地区では喪服を着ることも禁止され、涙を流すことさえ禁止された--毛沢東が死は祝うべきことだと言ったからである。

毛沢東は大量死に実用的な利点まで見出した。一九五八年一二月九日、毛沢東は最高幹部に対して、「死はけっこうなことだ。土地が肥える」と発言している。この理屈に従って、農民は死人を埋葬した上に作物を植えるよう命じられた。これは農民に大きな精神的苦痛をもたらした。

最近になってようやく、毛沢東がどれほど多くの人命を失ってもかまわないと考えていたかを確実に知ることができるようになった。一九五七年にモスクワを訪問した際に、毛沢東は、「われわれは世界革命に勝利するために三億の中国人を犠牲にする用意がある」と言った。当時の中国の全人口の半分である。一九五八年五月一七日の党大会でも、毛沢東は次のように発言している。「世界大戦だといって大騒ぎすることはない。せいぜい、人が死ぬだけだ……人口の半分が殲滅される--この程度のことは、中国の歴史では何度も起こっている……人口の半分が残れば最善であり、三分の一が残れば次善である……」

しかも、毛沢東は戦時の犠牲者だけを対象にしていたわけではない。一九五八年一一月二一日、幹部との会話で濯漑工事や製「鉄」などの労働集約事業に言及した際に、農民が栄養不足の状態で苛酷な労働を強いられていることを暗黙に、ほとんど無頓着とも呼べるような態度で受け止めたうえで、毛沢東は、「これだけの事業を抱えて、こういう働き方をさせれば、中国人の半分が死んでもおかしくない。半分ではないにしても、三分の一、あるいは一〇分の一--五〇〇〇万--は死ぬ」と述べた。こうした発言があまりにショツキングに聞こえることを知っていた毛沢東は、自分の責任を回避しようとした。「五〇〇〇万人も死なせれば、わたしは解任されかねない。あるいは命を失うか……だが、きみたちがどうしてもと言うならば、やっていいと言うしかない。ならば、人が死んでもわたしのせいにするなよ」

朝鮮戦争をしゃぶりつくす 一九五〇~五三年 毛沢東五六~五九歳

2016年09月05日 | 4.歴史
『真説 毛沢東 下』より

一九五〇年一〇月に中国軍が参戦したとき、北朝鮮軍は敗走中だった。それから二ヵ月後、毛沢東の志願軍は国連軍を北朝鮮から追い払い、金日成の独裁を復活させた。金日成はもはや軍事的統帥力を失い、消耗しきった七万五〇〇〇の朝鮮人民軍は毛沢東が朝鮮に派遣した四五万の中国人民志願軍に六対一で圧倒されていた。中国軍が北の首都ピョンヤンを奪還した翌一二月七日、金日成は軍事指揮を中国側に譲った。志願軍総司令彭徳懐は毛沢東に電報を打ち、金日成が「今後は軍事指揮に直接関与しない……ことに同意した」と報告している。彭徳懐は中朝連合指揮部の総司令となった。毛沢東は金日成の戦争を引き取ったのである。

彭徳懐は南北朝鮮の国境である三八度線の北側で進軍を止めたいと提案したが、毛沢東はその提案を拒絶した。彭徳懐は、現状では補給線が長くなりすぎており、アメリカ軍の空爆にもさらされて危険な状態である、「わが軍は食糧、弾薬、靴、油、塩などの補給を受けることができない……最大の問題は空軍の掩護がなく、確実な鉄道輸送もないことだ。修理するたびにすぐ爆撃される……」と、進軍中止を要求した。それでも、毛沢東は南攻を命じた。スターリンから最大限の援助を引き出すまでは戦いを止めない決意だった。「三八度線を越えて進撃せよ」と、毛沢東は一二月一三日付で彭徳懐に命令している。一九五一年一月初旬、志願軍は韓国の首都ソウルを攻略し、三八度線から南ヘ一○○キロの地点まで到達した。

中国軍の勝利は、スターリンに対する毛沢東の立場をおおいに強めた。スターリンは毛沢東に熱烈な祝辞を送った。これはきわめて異例で、毛沢東が国共内戦に勝利したときさえなかったことだ。スターリンは中国が「アメリカ軍に対して」勝利したことをとりわけ高く評価した。

毛沢東はアメリカ合衆国に甚大な心理的打撃を与えた。一九五〇年一二月一五日、トルーマンはラジオで国家非常事態宣言を発表した。第二次世界大戦やベトナム戦争の際にも、このような宣言が出されたことはなかった。この世の終わりを告げるかのような口調で、トルーマン大統領はアメリカ国民に、「われわれの故郷、われわれの国家が……大いなる危険にさらされている」と呼びかけた。このとき、気温零下で寒風吹きすさぶ苛酷な条件のもと、中国軍はアメリカ軍をわずか数週間で二〇〇キロも後退させていた。ディーン・アチソン国務長官は、この形勢逆転を最近一〇〇年におけるアメリカ軍の「最悪の敗北」と呼んだ。

中国軍も、勝利したとはいえ、おそろしい数にのぼる犠牲を出していた。一二月一九日、彭徳懐は毛沢東に次のように報告している。

 気温は零下三〇度まで下がった。兵隊は消耗がひどく、足が凍傷にかかって歩けず、露営を余儀なくされ……大多数の兵隊は外套も厚手の靴も支給されず、綿入れの上着や毛布はナパーム弾で焼かれてしまった。多くの兵隊がいまだに薄手の綿布製の靴をはき、なかには裸足の者さえいる……。

「想像を絶する数の死者が出るおそれがあります」と、彭徳懐は警告している。志願軍の兵站責任者が一九五一年一月二日にソ連側に語ったところによると、寒さのために全員が死亡した部隊も多数あったという。栄養失調から多くの「志願兵」が夜盲症になった。この報告を受けた司令部からの回答は、松の葉を集めてスープを作れ、生きたオタマジャクシを食べてビタミンとたんぱく質を補給せよ、というものだった。

中国軍は唯一の強みである数の利を活かして、「人海戦術」で戦った。イギリス人俳優マイケル・ケインは朝鮮戦争に徴兵された経験があり、著者のインタビューに答えて、自分自身も貧困家庭の出身だったので朝鮮戦争に出征するまでは共産主義に共感を抱いていた、と述べた。しかし、戦場での経験から、ケインは共産主義に対して永久に消えない嫌悪を抱くようになった。中国兵は西側の弾薬が尽きるまで次から次へと波のように押し寄せてきたという。それを見て、ケインの頭に抜き難い不信が生じた。自国民の生命をなんとも思わない政権に、どうしてぼくへの配慮など期待できようか、と。

中国軍の進軍は、まもなく食い止められた。一九五一年一月二五日に国連軍が反撃を始めると、戦況は一変した。中国側の犠牲者は莫大な数にのぼった。二月二一日、彭徳懐は「重大な難局」と「大量の不必要な犠牲」について毛沢東に直接会って話をするため北京に戻った。彭徳懐は空港から大急ぎで中南海に向かったが、着いてみると、毛沢東は玉泉山の掩蔽壕に隠れているという。玉泉山に着くと、毛沢東は昼寝の最中だという。しかし、彭徳懐は衛士を押しのけて毛沢東の寝室に踏み込んだ(ほとんど大逆罪に等しい行為である)。毛沢東は彭徳懐に喋らせたあと、彭徳懐の懸念を一蹴して、戦争は長引くものと覚悟せよ、「急いで勝利を得ようとするな」と答えた。

三月一日、毛沢東は「全体戦略」の概要についてスターリンに電報を打った。電文は「敵は朝鮮を離れる前に大量の殲滅を免れないであろう……」という書き出しで始まり、中国側の計画は無尽蔵の人的資源を使ってアメリカ軍を疲弊させることだ、と説明している。毛沢東は中国軍がすでに「一〇万人以上の戦死者を出し……今年と来年でさらに三〇万の戦死者が出るものと予想される」と報告し(事実そのとおりだった)、一二万の部隊を派遣してこの損害を補充し、さらに将来の損害に備えて三〇万の兵士を派遣する予定である、「要するに」中国側は「長期戦に備える構えであり、数年かけて数十万のアメリカ兵を殲滅し、撤退に追い込む……」と説明している。毛沢東はスターリンに対して、中国にはアメリカを痛めつける力が十分にあるものの、一流の軍と軍事産業を建設するにはスターリンの援助がぜひとも必要だ、と重ねて強調した。

毛沢東は、中国が朝鮮戦争に参戦した一九五〇年一〇月の時点から、この大目標に向かって動いていた。一〇月にはすでに中国海軍の責任者がソ連へ派遣され、海軍建設に対する援助を要請している。これに続いて、一二月にはトップレベルの空軍使節団が派遣され、かなりの成果をおさめた。一九五一年二月一九日、モスクワは中国国内に航空機の修理整備工場を建設する件について合意案を承認した。損害を受けた航空機が多く、戦域に高度な修理施設が必要だったのである。これらの修理施設をいずれ航空機の生産施設に転用する、というのが中国側の計画だった。中国は非常に貧しい国であるにもかかわらず、朝鮮戦争終結時には空軍は世界第三位の規模となり、最新鋭のミグ戦闘機を含む三〇〇〇機の航空機を持つまでになっていた。工場が次々に建設され、年間三六〇〇機の戦闘機を生産できる体制が三年ないし五年後には整うだろうと予測された(楽観的すぎる予測であったことが、のちに明らかになった)。爆撃機の製造さえ検討されはじめていた。

朝鮮戦争を始めた理由 一九四九~五〇年 毛沢東五五~五六歳

2016年09月05日 | 4.歴史
『真説 毛沢東 下』より

毛沢東自身も、これらの問題に関して眠れぬ日々を過ごしていた。今後さらに大きな野望を達成するための基盤となる国土を焼け野原にしてしまうわけにはいかないからだ。しかし、毛沢東は、アメリカが中国本土まで戦争を拡大することはないだろう、と踏んでいた。中国の都市や産業基盤がアメリカに爆撃されそうになればソ連空軍が守ってくれるだろう、とも考えていた。原子爆弾については、トルーマンがすでに日本に二発の原爆を落としていることもあり、アメリカは国際世論に配慮して中国には原爆を落とさないだろう、と読んでいた。ただし、毛自身は用心のため、朝鮮戦争のほぼ全期間を通じて北京郊外の玉泉山にある軍の最高機密施設(もちろん防空壕完備)に身を隠していた。

毛沢東には、自分がアメリカに負けるはずがない、という確信があった。中国には何百万もの兵隊を使い捨てにできるという基本的な強みがあるからだ。ちょうど厄介払いしたいと思っている部隊もあった--朝鮮戦争は、国民党部隊の敗残兵を戦場に送って始末する恰好の機会になるだろう。彼らは内戦末期に部隊ごとまとまって投降してきた国民党軍兵士で、毛沢東は意図的に彼らを朝鮮の戦場に送り込んだ。万が一国連軍が始末をつけてくれなかった場合に備えて、後方には特別の処刑部隊が待機して戦線から逃げもどってきた兵士たちを始末することになっていた。

兵隊の使い捨て競争になればアメリカがとても中国には太刀打ちできないことを、毛沢東は知っていた。そして、これにすべてをかけるつもりだった。中国兵をアメリカ兵と戦わせるという選択を措いて、世界屈指の軍事大国を作るために必要な援助をスターリンから引き出す方法はなかった。

一〇月二日、毛沢東は「中国軍を朝鮮に派遣する」ことを確約するスターリンあての電文を自ら起草した。しかし、そこで毛沢東は考え直したらしい。それまで、参戦に逸るあまり、毛沢東は中国側の問題点についてひとつもスターリンに言及していなかった。そうした問題点を強調すれば、参戦の値段を吊り上げることができるかもしれない--そう考えた毛沢東は、中国軍出動決定の電報を発信せず、かわりに、中国の参戦は「きわめて深刻な結果を招来する可能性があり……多数の同志が……慎重な態度が必要であるという判断……したがって、むしろ……派兵は暫時差し控え……」という、当初とはまるで異なる内容の電報を送った。ただし、毛沢東は参戦の可能性を残して、「まだ最終決定には至っておらず」「貴台と相談させていただきたい」と結んでいる。

同時に、毛沢東は参戦に備えてアメリカに「警告」を送るジェスチャーを見せた。一〇月三日深更、周恩来をインド大使館に向かわせて就寝中の大使を起こし、アメリカ軍が三八度線を越えた場合には「われわれは介入するつもりだ」と伝える、という手の込んだ芝居を打ったのである。公式声明を出せば簡単に事が済むものを、わざわざ西側諸国にほとんど信用のないインド大使を利用するという回りくどい方法をとったのは、「警告」が無視されることを望んでいたからとしか考えられない。こうしておけば、毛沢東としては、自衛のために朝鮮に出兵したという言い訳が成り立つわけだ。

一〇月五日にはすでに国連軍は北に攻め込む勢いで、スターリンはいらだちはじめた。その日、スターリンは毛沢東が参戦を見合わせるかもしれないと伝えた二日付の電報に返電し、以前に参戦を確約したことを忘れるな、と、毛沢東に釘をさした。

 五ないし六師団の中国人志願軍を派遣する件に関して、貴殿をあてにしてよいものと考えている。中国指導部同志諸君[つまり貴殿]から朝鮮の同志を支援するために軍を動かす用意があるという発言をたびたび聞いたものと承知している……

スターリンは、「消極的な傍観政策」では中国は台湾も失うことになるだろう、と、毛沢東を脅した。それまで、毛沢東はスターリンに空軍と海軍の建設支援を要請する理由として台湾を挙げており、それに対してスターリンは、朝鮮参戦を渋れば台湾も空軍も海軍も手に入らないぞ、と脅したのである。

毛沢東は本心から参戦を取りやめるつもりはなく、駆け引きをしただけだった。スターリンからの電報を受け取るより前に、毛沢束はすでに彭徳懐を志願軍総司令に任命し、独自のスケジュールで動いていた。一〇月八日、毛沢東は朝鮮へ派遣する部隊を「中国人民志願軍」と改称し、金日成にあてて、「われわれは貴国を支援するため朝鮮に志願軍を派遣することを決定した」と打電した。一方で、毛沢東は周恩来と林彪を武器援助の件でスターリンのもとへ派遣した。途中、林彪は毛沢東に長文の電報を送り、参戦を取りやめるよう重ねて強く主張した。毛沢東が参戦にこれほど強硬に反対している林彪をスターリンのもとへ派遣した理由は、中国が直面している軍事的困難をスターリンに印象づけて最大限の援助を引き出すためだった。

周恩来と林彪は一〇月一〇日に黒海沿岸にあるスターリンの別荘に到着し、そのまま朝の五時まで話し合った。スターリンは「飛行機、大砲、戦車、その他の軍事装備」の供与を約束した。周恩来は値段の交渉さえしなかった。ところが、スターリンは突然、最も肝心な要求、すなわち中国軍に対する上空からの掩護を断ってきた。スターリンはこの件について、七月一三日の時点で、「空軍一個師団、ジェット戦闘機一二四機で[中国]軍を空中掩護する」と、支援を約束していた。にもかかわらず、ソ連空軍の準備ができるのは二カ月先になる、と言いだしたのである。空軍の掩護がなければ、中国軍は無防備なカモに等しい。周恩来と林彪は、ソ連空軍による掩護は絶対に必要だ、と主張した。話し合いは行き詰まり、スターリンは毛沢東に対して、中国は参戦しなくてよい、という電報を打った。

スターリンは毛沢東の態度をはったりと見て、「もういい!」(毛沢東が後年使った表現)と、怒ってみせたのである。毛沢東はただちに折れて、「ソ連空軍の掩護があろうとなかろうと、われわれは参戦する」と、スターリンに連絡した。毛沢東には、この戦争が必要だったのだ。毛沢東は一〇月一三日付で周恩来にあてて、「われわれは参戦すべきである。参戦しなくてはならない……」と打電した。この電報を受け取った周恩来は、両手で頭を抱えて考え込んでしまった。同じ日、毛沢東はソ連大使に中国の参戦を告げ、ソ連空軍による掩護が「できるだけ早く、遅くとも二カ月以内には」可能になることを「希望する」と伝えた。まさにスターリンの言いなりだった。

こうして、スターリンと毛沢東という共産主義独裁者の世界的野望に金日成の地域的野望が加わって、一九五〇年一〇月一九日、中国は朝鮮戦争の地獄に放り込まれたのであった。