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大連図書館の成立

『図書館をめぐる日中の近代』より

図書閲覧場

 一九一〇年七月、付属地に住む社員・居留民の教育文化施設として、図書館を沿線各地に設置する計画が立てられ、九月に図書閲覧場規程が制定された。十一月に遼陽・奉天・長春・公主嶺・瓦房店・大石橋、翌年一月に安東・鉄嶺の、合計ハカ所の図書閲覧場が相次いで開設された。

 図書閲覧場は「町の書斎」として在満邦人に親しまれ、以後も図書閲覧場は沿線各地や大連市内に続々と開設された。図書閲覧場規定制定から十年を経た一九一九年には十九館に達し、最盛期満鉄図書館網の大半がこのころまでに形成されたことになる。

 こうした発展を受け、図書閲覧場は一九一七年六月に簡易図書館と改称され、二二年六月からは単に図書館と呼ぶようになった。

調査部図書室

 一九〇七年四月、調査部(翌年、調査課と改称)図書係管理の図書室が設置された。満鉄が調査事業を重視していたことが、創業の翌年に早くも図書室を作り、資料収集の体制を整備していたことからも理解される。

 図書室設置・運営の責任者が、調査部の担当理事岡松参太郎である。岡松はかつて京都帝国大学付属図書館の創設に関与していて、図書室開設の際にも、自ら図書の整理にあたったといわれる。

 図書室は設置当初は満洲資源館三階の一室にあったが、一九〇八年の本社社屋の移転にともない、本社の一室に移転した。しかし所蔵資料の重みで床板が下がり危険になったため、本社内の別室に再移転した。その後も収集資料は年々増加し、満鉄本社第一玄関前に書庫を建設することになった。書庫は二階・地下一階建て総建坪百十八坪(約三百九十平方メートル)。内部には六層構造のアメリカスニード社製書架を配していた。一二年十月に起工し、一四年一月に竣工した。

図書室の資料

 図書室所管の資料には普通図書と専用図書の二種類があり、このうち普通図書が図書室の資料だった。専用図書は社内各課や学校などの諸施設に職務上必要な図書で、図書閲覧場の巡回書庫と常備図書が含まれていた。

 図書閲覧場規定によれば、図書閲覧場の図書には、巡回書庫・常備図書・臨時備付図書の三種類があった。巡回書庫は地方課の要求により、調査課が編成し、一定期間回付された。常備図書・臨時備付図書も同様に、地方課の要求によって調査課から配布された。

 つまり図書類の注文・管理など一切の事務を調査課図書係が担当し、図書閲覧場側は施設の管理だけを受け持っていた。これは所有図書類の一元的管理を目的とした、会社の方針に基づくものだろう。しかし図書館にとって資料は施設以上に重要な要素であり、図書閲覧場に購入資料の選定などの権限がないことは、かえって不合理だった。

 他方調査課としても、その本来の職務を外れた一般的な内容の図書類を含む会社全体の資料の管理は、重荷だったと思われる。普通図書の専用図書をはるかに上回る増加は、調査課には余計な負担増だった。また資料の購入は調査課が一括しておこなうべきであるのに、撫順炭坑のような業務が活発なところでは、資料の直接購入がおこなわれていて、会社側が意図した図書類の一元的管理は事実上破綻していた。

 満鉄の図書館は、施設の数から見ると創業初期から充実していたが、運営上では改善すべき課題もあったといえる。資料の購入や管理のあり方については、見直しを求める声も強かったと考えられる。だがこれは地方課と調査課という、異なった部署にまたがる所管業務の調整であり、実務者レベルでは処理のできないことだった。この問題の解決には、会社上層部の合意と、それを促す背景が必要だった。

書庫の新築

 前述のように、調査課図書室の書庫の建設が一九一二年十月に着手され、一四年一月に竣工した。書庫建設に至った事情は、所蔵資料の増加により収蔵スペースが不足するようになったこと、また「将来図書館トシテ公開スルノ基礎ヲ作ルヘクー大図書館ヲ建設スルノ計画ヲ立テ」たことによる。

  これは一九一〇年代の初頭(明治末年)に、大連市内本社前に大規模図書館を設立する構想が社内で検討され、一定の合意が形成されていたことを示す。この場合の図書館は、おそらく調査課図書室を発展させたもので、社員以外への公開も多少は想定されていたと思われる。

 実際、書庫完成後「社員閲覧ノ傍ラ社外ノ一部閲覧者二其ノ便宜ヲ与へ」、社外の利用者が書庫内の資料を利用できるようになった。また二九一四年十月から夜間と日曜開館を実施し、利用者へのサービス向上が図られた。

 しかし部外者の書庫内資料の利用は、前記のように「社外ノ一部閲覧者二其ノ便宜ヲ与へ」たもので、満洲研究者などごく少数の人たちに限定されていたと思われる。なぜならば閲覧室の建設はその後一九一八年十一月に始まったのであり、一四年竣工の書庫は閲覧者のためのスペースが十分に確保されていない、文宇どおりの「書庫」だった。

 つまり書庫建設の時点では、会社はその全面的な公開を予定していなかったと見るべきだろう。ところが一九一八年一月の会社分掌規定改正によって、調査課図書室が図書館となり、同年十一月に閲覧室増築工事が着手されたことで、公開へと大きく舵が切られた。すなわち一〇年代の半ば以降に、満鉄社内で調査課図書室の位置付けをめぐって方針の転換がなされたと考えられる。

一九一八年の分掌規則改正

 一九一八年一月、満鉄は調査課図書室を図書館として独立させ、調査課図書係と地方課教育係を一体化する、会社事務分掌規定の改正をおこなった。この改正によって、従来調査課図書係が担当していた図書類の購入と管理に関する事務と、地方課教育係が担当していた簡易図書館と巡回書庫に関する事務を、あわせて図書館が担当することになった。

 この機構改革を受け、同年十一月に閲覧室の増築工事が始まり、翌一九一九年九月、竣工した。閲覧室は建坪七十二坪(約二百三十八平方メートル)、百席の一般閲覧室、十席の特別閲覧席、新聞閲覧室からなっていた。閲覧室工事が竣工した九月に図書館規則が制定され、十月一日から大連図書館公開が始まる。

 図書館独立時の職員数は十四人(職員六、雇員二、傭員六)で、これが公開時には六十人(職員七、雇員十三、傭員四十)に増員された。また初代の館長には、第二代の調査課課長であった島村孝三郎が就任した。

 蔵書数は一九一八年度末で四万一千四百五十六冊(和漢書三万六千三百六十一冊、洋書五千九十五冊)であり、調査課図書室の普通図書の大半を受け継いだものとみられる。大連図書館の蔵書数はその後着実に増え続け、三七年七月には二十一万五千六百四十五冊を数えるに至り、アジア有数の規模となる。

大連図書館の利用状況

 表16は一九二〇年度の大連図書館、ならびに大連市内各簡易図書館の蔵書冊数と閲覧者数である。大連図書館が他の簡易図書館に比べて蔵書数については群を抜いた存在であるにもかかわらず、閲覧者数では大きな差がないことがわかる。これは公開初期の大連図書館の蔵書のほとんどが旧調査課図書室所蔵の資料であり、一般向けではなかったことが理由だろう。

 閲覧者の内訳を見ても、簡易図書館では女性・児童の閲覧者が多いのに対し、大連図書館は女性閲覧者は極めて少なく、児童の利用はできなかった(ただし、図書館規則では児童の利用制限を明文化してはいない)。また「その他」の閲覧者が多いが、その大半は閲覧席目当ての学生だったと思われる。

 学生たちの来館の目的は、図書館の資料ではなくその閲覧席を使っての受験勉強にあった。試験期に学生の利用が増える傾向は、開館初期にすでに現れていて、閲覧席を占拠する学生に対しては、会社内からも一般の利用者からも強い不満が集まり、一九三六年四月から中等学生以下の入館が禁止になった。

 表17は大連図書館公開前後の、同館と大連市内各簡易図書館閲覧者数の推移である。大連図書館公開のあおりを受けて、他館の利用が激減するようなことはなかった。むしろ大連図書館の公開、埠頭簡易図書館の開館(一九一九年八月)というサービス拠点の増強によって、市民の図書館利用が一層盛んになった様子がうかがわれる。その意味で大連図書館の公開は意義あることだった。
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