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民主主義ステージⅡ

『EU騒乱』より

民主主義の出口の後には何かあるのか? 民主主義である。

一九世紀から二〇世紀、遅れている世界に「西洋文明」の光を与えるという名目のもと欧米諸国が「民主主義」を広めた。その民主主義は、パッケージになった完成品として、まるでかつての宣教師が説いた「神の福音」のごとく伝播された。

しかし、民主主義は、絶対の神の言葉ではない。人が試行錯誤を続けながらつくり出していくものである。たとえば、戦後アメリカから日本に入った民主主義は、あくまでも、「一九四五年から五〇年頃のアメリカの民主主義」であるにすぎない。つねに問いかけがおこなわれ、改良されていくシステムである。封建制や独裁制・全体主義……みごとに秩序が固定し治安が維持された時、つまりその模索ができなくなった時、民主主義は機能不全に陥る。いまそこにあるシステムが不完全だからといって「民主主義は終わった」というようなものではない。それは、ただ単に一つのステージが終わって、新しいステージに入ったというだけのことである。

欧州で顕著になったエリートと民衆の乖離は、民衆が「お上」に従う「下々」であった時代の民主主義ステージⅠの限界を示している。それは、同時にステージⅡへの新しい模索でもある。

ステージⅡが具体的にいったいどのような形になるのかは、まだわからない。ただ、はっきりしているのは、人類の歴史は、人間の数が増えた歴史だということである。ここでいう人間とは「生まれながらにして自由で、尊厳と権利とについて平等である」(世界人権宣言第一条より)者のことである。

ついでに述べておきたいが、権利には「在る」権利と「持つ」権利がある。「持つ」権利は獲得するものであって「義務」と表裏一体である。だが「在る」権利は先天的に備わっているもので義務とは関係ない。基本的人権とはまさにそういう権利である。

その昔、こういう人間は、ただ一人君主だけであった。それが貴族全体に広がり、さらに家柄とは関係のない資本家など社会のエリート層に広がった。そんな中で第一次世界大戦は、素朴な、しかし根本的な疑問を投げかけた。戦場では将校も兵卒も区別なく大量の血を流した庶民が、なぜ平時にはエリートたちと同じ権利を得られないのか? 解決を見ないまま、再び戦争が始まってしまった。

いま人類は誰でも人間になった。いま民衆には教育もある。十分に理性を備えている。たしかに学校へ行って習う「知識」はまだエリートにはかなわないだろう。だが、エリートが失った「知恵」はもっている。

「人間」全体が参加できることが、出口のあとの民主主義ステージⅡにおいて不可欠であることはまちがいない。

なお、全員参加というと、最新テクノロジーを使って、なんでも直接民主主義にすればいい、という意見も出てくるが、私は違うと思う。人々はみな仕事など社会の持ち場で忙しくしている。そうそう政治ばかりに構ってはいられない。それに、エリートがつくった巧妙な罠を見破ることは難しい。また、マーケティング、コミュニケーション技術が相当に発達している現在、人の心を操作するのは簡単である。そもそもテクノロジーはあくまでも道具にすぎない。テクノロジー以前に、それを使う者、発信者受信者の質が問題なのである。

はっきりしていることがある。

グローバル資本主義の「スーパー国家」は民主主義ステージⅡではない。

近代の科学信仰と世界情勢のために生じた経済と政治の関係についての人類の勘違いの到達点であるにすぎない。

アダム・スミスが「国富論」を発表した一七七六年、アメリカが独立した。一九世紀には欧州全体に民主主義が広がる一方で、マルクス、エンゲルスが経済と政治が表裏一体の思想を生んだ。資本主義でも経済学と政治の結びつきはないわけではなかったが、冷戦でマルクス主義に対抗してその傾向が深まり、とくに冷戦の終り頃一九八〇年代には、レーガノミクスやサッチャリズムでまったく共産主義国とかわらない表裏一体の関係になった。ソ連の崩壊はなによりも経済の勝利ととらえられ、その後のテクノロジーの発達とともに経済が思想そのものとして支配するようになってしまった。これがグローバル資本主義のスーパー国家、フランスでいう「リベラル」の帝国である。

この帝国が発達するにつれて、中産階級を厚くする方向に進んでいた資本主義の発達は中断し、ふたたび格差が拡大していった。人権は、連帯の第三の人権から、自由を偏重する第一の人権に戻り、経済学でも分配の問題は忘れ去られ、成長だけに逆戻りした。世界は人権を享受する「人間」(お上、エリート)と「それ以外」(下々、民衆)に分かれていることがあたりまえの時代に退化した。

経済に支配されたグローバル資本主義の「スーパー国家」(「リベラル」帝国)は、連帯なき競争原理、他人を蹴落としてでも勝とうとするエゴイズム、融和ではなく排斥の論理に支配された世界である。優等生は劣等生を軽蔑し、憎悪を生む。

そもそもこの帝国には、「人間」がいない。そこでは、「消費者のために」とは言うが、「人のために」とはいわない。大衆は「人間」ではなく、「消費者」であり、生産においては「人件費」というコストのかかる部品でしかない。「人間=民」のいないところに「民主主義」があるはずがない。
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