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ギリシアの民主政とローマの共和政の違い

『ローマ史1200年』より

ギリシアのアテナイとローマは、ほぼ同時期に独裁者を倒しています。しかし、アテナイが一世代約三〇年ですぐに民主政を実現させたのに対し、ローマは、身分闘争を繰り返しながら、約二〇〇年の歳月をかけて、共和政を完成させていきました。

ギリシアの民主政では、自由民である民衆の一人ひとりが、平等な立場で政治に参加することができました。自由民は、「アルコン(支配者を意味する最高官職)」をはじめ、さまざまな役人を選ぶ権利を持っていましたし、下級役人は財産の有無にかかわらず、ある程度順番で回ってきました。これほど徹底した民主政を行なったギリシアですが、五〇年も経たないうちに混乱し、民主政が機能しなくなってしまいます。

ギリシアの民主政は確かにすばらしいものだったのですが、システムとしてきちんと機能するためには、有能なリーダーが必要でした。ペリクレスという非常に有能なリーダーがいた時にはアテナイの民主政は良かったのですが、彼のあとに有能なりIダーが出なかったため、アテナイの政治は「デマゴーグ(煽動的民衆指導者)」によって支配され、衆愚政治へと変貌していったのです。

こうした衆愚政治への批判を込めて、紀元前四世紀の思想家プラトンは「本当は独裁政が一番いい」と言っています。もちろん、プラトンの言う独裁とは、傲慢な独裁者によるものではありません。公平で見識を備えた哲学者である「哲人皇帝」が統治する独裁政が一番いいと言っているのです。

確かに、アテナイがもっとも発展したのは、ペイシストラトスが政治のトップの座にいた時でした。彼は僣主になるまではかなり暴力的なことをしていますが、僣主になってからは約三〇年間、安定した政治を行ない、民衆のために尽くしています。借主であっても、公平な政治を行なえば民衆はついてくるし、国は繁栄するということです。

古代ギリシアの歴史家ポリュビオスは、国政にはいくつかの決まった政体があり、歴史のなかでは、それが繰り返されていくにすぎない、という「政体循環論」を述べています。そして、その代表として挙げているのがギリシアです。

ギリシアでは、まず一人の人間が率いる「独裁政」が自然発生的に始まります。やがて「王政」に移行し、さらに集団で指導体制を取る「貴族政」が生まれます。しかし年月が経ち、その貴族たちが対立するようになると、その混乱を収める形で借主が登場し、支配するようになります。この「借主政」は、ペイシストラトスのような良い借主は問題ありませんが、実際には悪い借主のほうが多いので、借主は民衆によって追われ、混乱のなかで「民主政」へと変わっていきます。

しかし、一見理想的に思える民主政も長く続くと、どうしても衆愚政治に変貌してしまいます。これにより、政治は再び混乱。その混乱を収める形で、再び独裁者による支配が行なわれます。ギリシアでは、この二度目の独裁者に相当するのが、マケドニアのフィリッポスニ世とアレクサンドロス大王の親子です。

このように見ていくと、確かにギリシアの政治は循環しているように見えます。ところが、ローマでは「独裁政」「貴族政」「民主政」という三つの政体が循環するのではなく、「共和政」という大きな枠のなかで同時に存在し、絶妙のバランスを取っていた、とポリュビオスは述べています。そして、このことこそがローマが強く、そして巨大になっていった原因だと主張したのです。

ギリシアのポリスは政体が循環するなかで、「スタシス」と言われる政争や混乱をも繰り返したため、国民が内部の争いに疲弊してしまい、ポリスの外へ出て国を拡大していくことにはなりませんでした。もちろん、ローマも内部で権力闘争がありましたが、ギリシアに比べると、その規模も頻度もはるかに小さなものだったので、エネルギーをそこで消耗することなく、国の拡大に向けることができたというのです。

ポリュビオスはもともとギリシアの知識人ですが、のちにローマに二〇年ほど滞在するので、ローマの社会というものを非常によく知っています。

確かに、ローマの共和政は、独裁政的な役割を持つ執政官と、貴族政的な意味を持つ元老院、そして民主政的な働きを持つ民会という三つの組織によって支えられています。ポリュビオスは、これを「混合政体」と言い、そのバランスの良さが、ローマが巨大帝国に成長した大きな要因のひとつだと言ったのです。

ローマでは、何か事が起きて判断と対処を迫られた時、細かいことは執政官だけの判断で行なうこともできましたが、大事なことは必ず元老院で審議されました。元老院で決まったことを実際に執行するのが執政官の仕事です。

その執政官は、民会によって選出され、元老院には選ぶ権限はありません。最高行政執行官である執政官は、あくまでも市民総会的役割を持つ民会において、市民の投票によって選ばれたのです。

このように、三つの権力がたがいの権力基盤となることで、どこかひとつに権力が集中しないしくみが、ポリュビオスの目には、非常にすぐれた国政のありように見えたのだと思います。
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要素還元主義からの脱却

『科学のこれまで、科学のこれから』より 科学のこれから

要素還元主義は科学を推進する上で実に有力な方法であり、三五〇年以上にわたって積み重ねられてきた歴史があるだけに、多大な成果を残してきたことは明らかである。現代の科学・技術文明は要素還元主義の成果の上に成り立っていると言っても過言ではない。また科学の方法として要素還元主義しか確かな方法を見出していないのも事実である。であるから、現実には要素還元主義の方法を基本的な拠り所にして科学を進めるしかなく、要素還元主義を全否定するわけではないことを最初に強調しておきたい。

要は、要素還元主義が通用しない複雑系をどう捉えるかであり、曖昧な科学知しか得られない科学とどう付き合うかである。あるいは、系が多数の要素から成り立っているために統計的な処理をせざるを得ず、確率でしか結果が言えない場合に私たちはどう対応すべきかである。答えが完全にわかっているわけではなく、ある種の可能性が、ある確率で示されるのみということが多いのだ。確率の計算は一般には厳密であり、そこに疑いを差し挟む余地は少ない。しかし、絶対的な答え(っまり一〇〇%の確実さで言える解)ではなく、あくまで可能性の確かさの割合でしか言えないのである。

しかし、人間はシロかクロか、(一〇〇%か○%か)をはっきりさせないと安心できない動物であり、そもそも確率で物事を判断したり考えたりすることに慣れておらず、不得手としか言いようがない。科学に対しても要素還元主義的に明確な答えが得られると期待してしまうので、不確実なことしか言えなかったり、確率でしか言えなかったりすると途端に科学を信用しなくなりかねないのである。

たとえば、IPCC(気候変動に関する政府間パネル)の報告によって地球温暖化問題は常識化しているかのようだが、それにクレームを付ける研究者もかなりいる。それも、地球が温暖化していることに疑いを持つ人(気温の計測が地上や都会に偏っており完璧ではないことがその根拠)、温暖化は認めるが二酸化炭素などの温室効果ガスが原因ではないとする人(温室効果は水蒸気がほとんどであって二酸化炭素などはあまり効かない、むしろ高エネルギー宇宙線の効果や太陽活動の変化を重視するという立場)、温暖化は一時的なゆらぎに過ぎないと主張する人(いずれ地球寒冷化か訪れると達観している立場)など、多様な意見がまじっている(環境保護を主張する人間が自分たちの存在意義を社会に認知させるためという陰謀説まである)。

そもそもIPCCとして、地球温暖化の原因が人間の活動である確率は九〇%(第五次報告書では九五%)であるとは言っているが、一〇〇%確実とは断言していないのである。気象(気候現象)が複雑系であるためにそうとしか言えないのだ。科学的真実は、多数決で決まるものでも、権威(この場合はIPCC)がそう言うから信じるものでもない。あくまで疑ってかかる懐疑主義が科学者として採るべき態度なら、むしろクレームを付ける方が科学者として健全であるかもしれない。また、集中豪雨の頻発や台風の巨大化や砂漠化の進行などの気候変動すべてを地球温暖化のせいだと言ってしまうと、わかったような気になって思考停止に陥る危険性があり、地球温暖化が原因とは限らないとあえてクレームを付けることによって、より慎重でより多角的に研究する態度につながるかもしれない。というわけで、IPCCの言うことを安易に信じて、オオカミ少年のように地球温暖化を喧伝するのは正しくない(だから何もしなくてもょい)、という立場の人間がいることは事実だろう。

しかし、そのように懐疑主義を徹底して何も対応しないという行動原理は、要素還元主義によってすぐに絶対的な解か得られる見込みがある場合には肯定できるが、複雑系においては簡単にそのような答えにたどり着かないのは明らかであり、だからといって答えがわかるまで何もしないわけにはいかないのである。温室効果ガスが実際に地球温暖化を引き起こしているという主張が正しいなら、このまま温室効果ガスの排出を野放しにしていると、やがて温暖化が暴走するようになり、結果的に手遅れになるかもしれないからだ。つまり、地球温暖化問題に関しては不確実な科学知しか得られないのだけれど、市民の合意の下に何らかの行動を選択することが求められているのである(むろん、積極的に何もしないことも選択肢の一つではあるのだが)。

実は、政府が要素還元主義に固執したために対応を誤った事例はいくつもある。たとえば、オゾン層の破壊がフロンによると推測されてフロンの製造・販売を禁止しようとモントリオール議定書が国連で採択されたとき、日本政府は「科学的証明が不十分である」という理由で反対した。また、水俣病の原因物質として工場排水に含まれている水銀が問題となっても、「科学的根拠が明らかでない」として水銀説を採用せず、結果的に被害者を増やすことになってしまった(水俣病だけでなく、数々の公害や鉱害や薬害の認定でも同様の失敗を繰り返してきた)。これらは、要素還元主義の立場から原因と結果が一対一で完全に符合しない限り認めないという態度に起因しており、何も対策を取らないことへの言い訳として「科学的根拠」が持ち出されたのである。これらの問題は、最初は複雑系の様相を呈していてすぐに明快な答えが得られないことが多かったのだ(よく調べると科学的根拠が明確になった比較的簡単な場合なのだが)。

生態系の危機や地震予知のような問題も典型的な複雑系であり、また微量放射線被曝や環境ホルモンの人体への影響など、現在の実験によって一〇〇%確実な結論が出せない問題も複雑系の一種である。こうして眺めてみると、複雑系は私たちが日常的に接しているマクロなシステムに多い。そして、私たちがどう対応すべきか決定を迫られる問題が多く、要素還元主義に固執していては不可知論のままで止まり、何も決められず無責任ということになってしまうのだ。
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モデルとしてのドイツ史 1つのライヒ、複数のドイツ

『ドイツ史研究入門』より 総説 目的としてのドイツ、方法としてのドイツ

かつてニーチエは「善悪の彼岸」(1886年)において、「ドイツ人を特徴づけるのは、彼らにおいて「ドイツとは何か」という問いが決して消えてなくならない、ということである」と述べた。ベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』以来の構築主義の洗礼を受けた現在からみると、それはドイツに限られたものではないのではないか、という反論が返ってくるかもしれない。しかしドイツには、ニーチエが示唆するように、「国民」の自己理解ないしアイデンティティが相対的ににこでの比較対象はやはり英・米・仏となるが)不安定であったことは否定できない。それには、領土の伸縮の激しさに加え、政治体制の変化、宗教改革以来のカトリックとプロテスタントの対抗関係など、さまざまな要因がある。さらにドイツ史を研究する際に基本的前提となるのが連邦制である。この神聖ローマ帝国以来現在まで続く国制は、まさにドイツの伝統ともいってよく、ドイツにおけるナショナリズムのあり方にも大きな影響を与えてきた。前述のドイツ連邦議会の決議にもあげられていた、ドイツにおける国民国家建設とされる1871年のドイツ帝国成立は、日本の場合でいえば廃藩置県ではなく、むしろ雄藩連合に近いものであり、その意味で「モデルとしてのドイツ」からは重要な点において逸脱していた。

ただし、この連邦制という遠心力の一方で、枠組としての「ライヒ」という観念が求心力を発揮したことも否定できない事実である。「ライヒ」は神聖ローマ帝国を出発とし、日本語では一般に「帝国」と訳されることが多い。1806年にこの枠組が崩壊したのち、ドイツのナショナリストたちはその再建を構想し、運動することになる。1866年に成立した北ドイツ連邦議会はすでに「ライヒ議会」を名乗り、71年のドイツ帝国成立とともに文字通り「帝国議会」となる。しかし帝政崩壊後のヴァイマル共和国においても、国会の名称は「ライヒ議会」のままであり、ナチスにも受け継がれた。このように、「ライヒ」という観念は政治体制を超えた「国体」の含意があり、同時にそれは、近代的な意味でのドイツ国民国家としての意味にとどまらず、他民族を包含する「帝国」ともなり、ヨーロッパにおける覇権的地位を正当化する概念ともなった。いずれにしても、こうした「内と外」をめぐる分権的な遠心力と、にもかかわらず「ライヒ」として1っにまとまろうとする求心力とのせめぎあいが、ドイツ史の大きな特徴をなしており、こうした政治的編成の複雑なあり方は、誤解を恐れずにいえば、現在進行中のヨーロッパ統合(あるいはドイツ人がイメージするヨーロッパのあり方)を理解するうえでも参考になるであろう。

しかし、こうしたダイナミックなドイツ史はそれ自体興味をかき立てずにはおかない一方で、いざ入門的概説として「ドイツ史」を書こうとする場合、困難をもたらすことになる。その代表的な例がオーストリアをどう扱うか、という問題である。長らく神聖ローマ帝国の皇帝の座を占めてきたハプスブルク家が支配するオーストリアは、1866年の普襖戦争の結果ドイツから排除され、1938年の併合(アンシュルス)によって再びドイツに加わり、ヒトラーは故郷に錦を飾った。しかし1945年以降再び分離すると、ナチ時代の過去に対する「犠牲者史観」もあり、独自の「オーストリア国民」としての意識が定着することになる。この包摂・排除(分離)はたんにオーストリア自体にとってだけの問題ではなく、ドイツ史にとっては前述のカトリックとプロテスタントの措抗関係においても大きな意味をもっていた。逆にいえば、オーストリアと対抗関係にあったプロイセンについても、近代におけるドイツ統一の中核であったことが強調されるなかで、その非ドイツ的な、あるいは多元的な構成が軽視されてきたという点にも配慮が必要なのである。とはいえ、どのような地理的名称をあてるにせよ、それ自体が歴史のなかで政治的な意味をもち、異なる解釈が対立し、読み替えられていくことは避けがたいといえるだろう。「ドイツ史」の代わりに「中欧史」という枠組を採用しても、「中欧」そのものが政治的なプログラムであり、また制度的な実態をともなわないものであるため、問題はより複雑なものとなろう。むしろ重要なことは、中央集権的な主権国家という近代日本のイメージをそのままあてはめないことであり、ライヒや同君連合、連邦制といった観念・制度を、時代の文脈のなかで理解し、意識しておくことである。

地理的な枠組としてのドイツについて、もうひとっ指摘すべきは、植民地の問題である。植民地宗主国としてのドイツの歴史は英・仏などに比べると極めて短命であり、ビスマルクの植民地政策やヴィルヘルム2世の世界政策など帝国主義の枠組のなかで研究がおこなわれる一方、第一次世界大戦での敗戦による植民地喪失とともにドイツの植民(地主義)史も姿を消すことになった。しかし近年では、ポスト・コロニアル研究の影響を受け、「植民地なき植民地主義」として、帝国建設以前における植民地をめぐるイメージがドイツの国民意識の形成に与えた影響力を指摘する研究や, 20世紀初頭のヘレロ・ナマクア虐殺を20世紀のジェノサイドの最初の例とみなし、それが第二次世界大戦においてヨーロッパに逆流するという植民地からホロコーストヘの連続性を指摘する議論もでてきている。さらには、18世紀後半のポーランド分割以来のプロイセン・ドイツ史を多民族的な「大陸帝国」として、国民国家としての西ヨーロッパ諸国との対比よりも、ロシア、オーストリア、オスマンの諸帝国との比較や関係のなかで考察すべきであるという指摘もある。もちろん海外植民地と大陸の異民族支配(とくにナチ期の「生存圏」)には大きな相違が存在するが,「ドイツ」を国境線の内側だけに狭く限定せず、開いて考察することが今後さらに必要となるであろう。
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未唯宇宙を表現するツール

未唯へ

 月曜日居るかどうか確認したけど、私の方が休みだった。連絡手段がない。

 チップアップブルゾン3000円だったけど、買いました。夏のコートです。バスの冷房対策に使います。

 雑記帳は#777を超えました。#1000までかなり掛かります。

未唯宇宙への旅立ち

 さあ。旅立ちましょう。全てを片付けるために。宇宙論から始まったのは正解かもしれない。-28から+28累乗の世界。

 ローカルからグローバルに上げる恐さは知っているはずです。部品表の時にやりました。品番が属性を持っている。それの集合関係の複雑さ。その意味では、ローカルとグローバルを同時に考える、言葉の極限みたいなものです。

 心の安定装置はIさんだけにします。あと6カ月間の暮らしの仕方です。

パートナーの相談

 一昨日で、パートナーとの関係は終わりました。始まってもいないけど。なにしろ、奇跡の3週間の後です。

 ここまでやる気になってきたのは、パートナーのおかげです。「もう、いやだ」と言いながら、あのやる気を膨大な思い。そして、悩み抜く力。私のエネルギー源です。全てのはじまりです。

 パートナーに一番、知ってもらいたいのは、あなたのために世界は動いている。もう少し、付け加えると、あなたのためだけに世界は動いている。

未唯宇宙を表現

 やはり、未唯宇宙全体を示すためのデータがいります。パソコンを開いていては面倒くさくてしょうがない。紙ではでかすぎる。だから、タブレットを使います。何しろ、コンパクトにします。膨大な文書処理から答えが出るかどうか。

 キンドルペーパーは単機能です。文献と考えることは分けた方がいいです。考えることを紙の方に期待しましょう。文献の方にはインデックスを付けないといけない。キンドルペーパーの機能はかなりあるので、それを使いこなします。

 未唯宇宙の拡がりをどう表現するのか。次元を超えた位相化するしかない。紙とキンドルで空間定義を行えるようにします。キンドル上に未唯宇宙(μ-Space)を作り出す。
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