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スタバの相談の前に

スタバの相談の前に

 真剣に考えて、答を出しましょう。

 あの資料で述べていることは何なのか? 結局、やったことは企画を作ること? それはどういう意味なのか? なぜ、企画がなかったのか? 作ればいいというものなのか? そこに、パートナーの存在を感じるのか?

 品質というテーマがなぜ、起こったのか? しかるべきものなのに。ルールさえ作れば、出来るものなのに。冷めた目で、パートナーが考えられるようにすることぐらいしかない。ルールは電算部と開発、そして、企画との関係。

 何かを決めようとした時に、何が必要なのか? 決めたことが意味があるのか? 作ることに対して、ルールだけで出来るのか? プランの段階で、どこまで、活用シーンが読めるのか?

 結局は、使われないと意味がない。使えるためのモノをどう作るのか? 販売店の中に入らないといけないが、それをやれる部署ではない。やれるところをプッシュするしかない。そういうことなのか?

 ベーシックな疑問がいくらでも湧いてきます。結局、何だったのか? 何をすればよかったのか? 目的がハッキリしない。その部分をどうまとめていくのか? そんあことで仕事ができるのか? その悩みをどう解決させるのか?

 本質的に品質を上げるためには、どうやって作っていくのか? そのために何の情報を持ってくるのか? その結果をどうチェックするのか? 要望そのものも、どのように新しく持ってくるのか? それが本当に使われているのか? どうしても、そこに行ってしまう。ということをどう表現すればいいのか?

 これはロジックだけでは済まないでしょう。大きな枠組みとディーテールをどうつなげるか。小さいことをしながら、大きなことを考える。大きなことをしながら、小さなことを考える。そういう人材。そこが、パートナーが生きていく、存在の意味そのものです。

 それを誰に分かってもらうのか? 得体のしれない人たちに対して、そんなことを言って、意味があるのか。結局、自分の中で分かること、それが自分の武器だということが分かること、それが多分、スッキリするということの意味なんでしょう。他人に求めない。組織に求めない。

 だから、新しい行動ができる。自信を持って行動する。突出しても決して、臆さない。Iさんの態度と結びついています。

Iさんのやり方

 私の思考のベースはIさんのやり方です。全然、力が入っていないのに、ものすごく魅力を感じます。1時間のパソコン作業で疲れたと言い、そして、汗だくで行っている。ある意味では脱力感です。

 それが故に、チームからは好かれているのでしょう。チーフでありながら、コントロールしているのか、コントロールされているのか分からないという表現。

パートナーの相談

 こうやって、パートナーと考えるのは、多分、今日が最後でしょう。オーラルは書いてあることを述べなくても、読めばわかる。

 どういうアプローチしたか。ふつうの人のやり方が異なっていることを理解させることです。問題の展開のところは、絵の解釈がポイントです。見ると、狭間で起こっている。

 全体の構成を見ても、歪になっています。詳細仕様は作るけど、システムテストは任せる。その結果は確認していない。ユーザーテストをすべてやるわけにはいかない。ベースとしての仕様書が無い。詳細仕様書が最新になっていない。

 これで動いているからといいとは言えない。トラブルが出て来ているから、悪いことは明らかです。それを断言する。詳細仕様書が無いというよりも、コーディングレベルになっている。その人でないとどうなっているかが分からない。その人が変われば、当然、変わる。

 だから、要件検討からプログラムに落として、それから詳細仕様になっている。これでは、トラブルは起こるはずです。特に、システムテストの時に詳細仕様書が無ければ、何が変わったのか、その分だけでいいのか。

 では、パートナーが出てくるまで、それがどうなったのか、それで何が変わったのか。私がこういうことをしたから、こう変わった。ルールを作ることでお互いが認識できる。トラブルの発生を一つずつ潰すのではなく、体系として潰す。

 9時半から13時までの相談をスタバで行った。ひたすら、話すだけです。オーラルには行けなかったので、日曜日にすることにした。これが最後の相談になるような気がします。
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オーストリアの頭上に振り下ろされた鈎十字

『オーストリアの歴史』より

そして〈アーリア化〉(Arisierung)が始まった…

 ナチス体制はオーストリアにおける住宅建設も促進した。しかし住宅難は、--とりわけウィーンでは--ユダヤ人の住宅およそ7万戸を強制接収(Enteignung)してのみ、ようやく一定程度解消されたにすぎなかった。住み慣れた住宅から強制的に追い出された人々の運命に対して多くの人はまったく気に留めることもなかった。

 1945年以降、〈アーリア化された〉(ユダヤ人の財産を没収してドイツ人の所有に移すこと=訳者注)財産の返還問題が生じた。以前のユダヤ人所有者-むろんそれは彼らがナチズムの地獄を生き延び、元々自分たちが所有していた住宅の返還要求の声を上げることができた限りの話であるが--と新所有者、諸政党との三者の間で深刻な相克が生じた。ユダヤ人は強権による返還を要求し、新所有者は場合に応じての--たいていは雀の涙ほどの--弁済金支払いを主張し、政党は選挙の得票の行方について戦々恐々としていた。総じて、この問題はきわめて特殊な、限定的な問題としてのみ扱われた。2000年になってようやく、強制接収された住宅の賠償問題を解決するための新しい措置が緒に就くことになった。

 戦争終結後、国家社会主義者たちが、いかなる手段を用いてこのような〈成果〉(アーリア化)を達成し、またどのような目論見を背後に隠していたかについて問い糾されることはめったになかった。彼らは、宣伝機関(Propagandamaschiner)を有効にかつ効果的に活用し、将来はもっといいことがあるぞ、と口約束していたのであった。多くの人々はこんにちなお、弁済金の不払いは敗戦にこそその根本理由を帰すべきである、としている。

このようなナチスの政策の理由は?

 ●総力戦的な軍備のため:オーストリアを〈併合〉した直後から、オーストリアの全産業はただちにナチス体制の戦争準備に組み入れられた。繊維産業のほとんどはより多量の制服の生産のみに奉仕させられることになった。重工業は軍需品の生産に切り替えさせられた。国内の自動車専用道路(Autobahn)は、この時期--ほとんどの人がマイカーを持つことができなかった時代であるがぺとして武器輸送にのみ供されることになった。新たな産業が成立した。たとえばヘルマン・ゲーリング帝国工業会社(今日の、VOEST)や、リンツの窒素工業、ランスホーフェンのアルミニウムエ業会社などがそれである。

 ●人種差別:ユダヤ人に対しては、はじめは隔離(Ausgrenzung)と追放(Vertreibung)が、後には絶滅(Vernichtung)措置が強行された。-そしてこれらもまた、新たな職場と住居を生み出したのであった……。

 ●強制労働(強制収容所内だけではなOのため:帝国勤労奉仕隊への召集が余剰労働力を吸収した。それにとどまらず、国防軍はそれが追求する侵略政策のためにさらに次第に数多くの兵士を必要とし、そのため早くも1939年末には実質的な労働力不足が生じ、女性たちが家庭の竃を守る代わりに(軍需)工場のベルトコンベア--の脇に立つ労働へとかり出された。しかし女性を労働現場に駆り立てることは--皮肉なことに--ナチズムのイデオロギーには反していたのだが。

抵抗--自由を求めての奉仕

 <ナチズムのために働かぬ者は、ナチズムに反逆する者だ〉というのが国家社会主義者の根本原則であった。ナチズムに対する拒否的な態度はすべて反逆罪に値するとみなされたのであった。そのため〈国家の害獣〉や〈防衛力を破壊する者〉に対する独裁権力者の対応は過酷を極めた。それは秘密警察(Gcheime Staatspolizei= Gestapo)の監獄への〈予防拘禁〉(Schutzhaft)や、強制収容所(Konzentrationslager)への収監から処刑にまで至るものまであった。それでもなお、ヒトラーのナチズムに占領された国々のすべてで侵略者に対する抵抗運動が起こった。これらの国々では、ナチスの占領軍は完全な敵とみなされた。ナチス占領軍への協力者は当然のごとく周囲から孤立し排撃された。

 女性たちも、オーストリアの対ナチス抵抗運動に加わったことはしばしば忘れられている。少女や大人の女性もまた--たった一人で、あるいは彼女らの父親や兄弟や夫たちを手伝いながら--ナチス体制や戦争と戦ったのであった。

 しかし、ひとたびナチスに捕まれば、女性も男性と同じように、<情け容赦もなく絶滅させる〉ための法廷に引きずり出された。たとえば、ザルツブルクのお針子ロスル・ホフマン(Rosl Hoffmann)に下された死刑判決はまた他の多くの人々に下されたものと同じであった。

 オーストリア市民が、ナチズムの明白な敵対者であると宣告された者に対してどのような対応を見せたかは、インフィアトゥラー村のフランツ・イェーガーシュテッター(Franz Jagerstatter、1907―1943)の逸話が示している。 1938年4月10日の国民投票の際、彼イェーガーシュテッターは村民の中でただ一人〈反対〉票を投じ、そのため彼は直ちに村八分の身へと追いやられたのであった。

 やがてこの役割は彼の親族に委託された。処刑されたフランツ・イェーガーシュテッターの妻は語っている:
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アメリカの独立系書店にみるコミュニティーとの連携

『出版産業の変貌を追う』より 二〇一三年の出版産業 図書館と書店が地域で連携できないか

CCCが武雄市図書館や函館蔦屋書店を開設するにあたって発行した書籍『図書館が街を創る。』『文化の樹を植える。』をみると、地域との共生やコミュニティ・デザインなどのキーワードがしばしば登場する。十月に開かれた図書館総合展でのシンポジウムでも、武雄市長やCCCの図書館担当者は、「図書館らしい図書館を作ることが目的ではなく、地域住民のための図書館を作ることが目的」と話していた。

余暇時間の奪い合い、電子書籍の市場拡大などに、リアル書店が対抗できる最大の強みは、言うまでもなく店舗であり、地域との連携だろう。そういう意味で書店は、指定管理といった取り組みには至らなくても、改めて地域の図書館との連携などを模索してみるべきだろう。

やはり二〇一三年に改築されて多くの来館者を集めている山梨県立図書館と甲府市内の書店を取材した際にも、連携の必要性とともに、これまで両者の間にほとんどコミュニケーションがなかったことを痛感させられた。

両者の間にはこれまで長年にわたり競合や納入の問題が横たわってきたが、電子化という共通の課題を抱え、地域で出版物を提供するという同じ目的をもっている。そうした存在として、小さいところからでも、継続的な連携を始めていければと思う。

電子書籍の市場が日本よりも急速に拡大してきたアメリカでも、実は独立系書店のキーワードは「コミュニティー」や「ローカリズム」だという。二〇一二年に訪れたニューヨークで、それを体現している書店を二店訪ねたので紹介したい。

一店はマンハッタンにあるマクナリー・ジャクソン・ブックストア。約三百平方メートルほどの店舗内にはカフェスペースもあり、落ち着いた雰囲気の店内には、平日にもかかわらず大人のお客が何人もいた。

この店で何よりも目を引くのは、「エスプレッソ・ブックマシーン(EBM)」と呼ばれるプリント・オンデマンド(POD)システムだ。日本でも三省堂書店が神保町本店の一階に設置しているが、電子化した書籍のデータベースから、客の求めに応じて一冊ずつその場で印刷・製本して手渡す仕組みである。見た目は小さな印刷機か大型のコピー機といった感じだ。

このシステムを使って、同書店では月間千冊の本を制作している。しかもそのほとんどは、過去の本のオンデマンド版ではなく客が持ち込んでくる自費出版であり、その客の大多数が地域の住民だという。アメリカでは同様のセルフパブリッシング(自費出版)・サービスをアマゾンなど多くのネット企業が提供しているが、「自分の本をマクナリー・ジャクソンで出したい」という地域のファンが、同店には多く訪れるという。そのおかげで、導入に千二百万円ほどかけたという「EBM」は、採算がとれるビジネスになっている。

もう一店は、ブルックリン地域にあるグリーンライト・ブックストア。こちらは、自治体の公募に応募した元書店員と出版営業の二人の若い女性が三年ほど前に開業した、まさにコミュニティーが生み出した書店だ。売り場面積は約二百平方メートルほど。自治体の紹介で元保険会社の事務所を店舗に改装した。オープンの際に地域住民から出資を募ったところ、七万ドル(約七百万円)の「コミュニティ・ローン」が集まったという。地域のコミュニティ・カレッジや中学校こ局校などでの書籍販売も請け負い、開業から三年間成長を続け、コミュニティ・ローンも五年で返済するめどが立っているとのことだった。

日本でも、電子化が進行する一方で、地域性が見直され始めている。「コミュニティ・デザイン」をテーマにした出版物が多く刊行されているのもその表れだ。同時にリアル書店、特に地域の独立系書店の存在を見直す風潮もあるように思える。

出版物の販売量が減少し、しかも書籍の収益性が低いという課題を抱えるなかであっても、「コミュニティー」をキーワードに、そこに暮らす人々に向けた商材やサービス、空間を工夫し提供していく余地はまだまだあるのではないだろうか。一見ネガティブにみえる環境変化も、前提なしに自らの立脚点を見つめ直してみる機会にすることができれば、展望が開けてくるのではないかと思う。
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21世紀の図書館 電子図書の台頭

『図書館情報学概論』より 21世紀の図書館をめぐる技術的な問題

アマゾンドットコム、AOLタイムワーナーブックグループ、バーンズアンドノーブル、デル、ハーパーコリンズ、ホートンミフリンと、サイモンアンドシュースターなどの大手企業は、軒並み電子図書の出版か流通のいずれかに関与している。カストロは、電子図書には次のような長所があると指摘した(Castro 2007)。

 1.本文がすぐに検索可能で、ハイパーリンクによる相互参照が張られている。

 2.物理的な空間をほとんど占有しない。

 3.ハードウェアに何百冊もの図書を保存できる。

 4.文字サイズとフォントを調整できる。

コナウェイは、電子図書の需要を拡大させる主たる傾向を5つ指摘した(Coimaway 2001)。

 1.電子図書市場は成長を続けている。

 2.電子図書のコンテンツ配信に参入する出版社が増加している。

 3.電子的な「いま必要な知識」へのアクセスがますます求められるようになってきている。

 4.遠隔型、分散型の学習プログラムが増加しつつあり、このような授業や学習を支援する電子化されたリソースヘのニーズも高まりつつある。

 5.電子コンテンツを利用するための新しい機能、より進歩した技術への需要が増加している。

今後、図書館にとっての電子図書の重要性は高まると考えられるが、それにはいくつかの理由がある。1番目に、電子図書は、デジタル化の進展に伴い、ますます幅広く利用されるようになっている。2番目に、スティーヴン・キングやジョン・グリシャムといったベストセラー作家の作品が電子図書として出版されており、その中には電子図書でしか読むことのできないものもある。3番目に、大学図書館にとっては、電子図書のメリットについては議論の余地がないことがわかった。というのも、大学図書館においては、オンラインで入手可能な図書は、冊子体のものより少なくとも6倍利用されているらしいからである。ユニヅァーシティカレッジロンドンなどが実施した調査によれば, 2017年までには「消費者需要の後押しを受けて、電子図書は、教科書や学術書、論文、あるいは参考図書のもっとも重要な形式として定着するだろう」。

電子図書出版の経済学については、まだ完全には明らかになっていない。現状では、電子図書は個別のタイトルごとに販売されるか、ネットライプラリーが採用しているような購読モデル形式で販売されており、後者だと図書館のコスト削減に寄与するところは大きい。オームスは、図書あたりのコストの低減が全体のコスト節減になると指摘した。すなわち、同じ図書についてハードカバーとペーパーバックの両方を購入する必要がなかったり、補修や買い替えの費用がかからなかったり、大活字版が不要だったり、受入作業、保管、保存の費用がほとんどかからないといった点である(Ormes ii。d。)。加えて、コレクション規模を大きくしたい場合も書棚を増やさずにすませられる。これらのすべてはかなりの恩恵をもたらす。

電子図書の限界としては、読書用の端末が必要な点、端末用ディスプレイの品質の問題と、ちらつきとまぶしさに関する問題がある。ハードウェアの選択肢は3つある。電子図書専用に設計された端末、多目的用のパーソナルデジタルアシスタント(PDA)、デスクトップやラップトップのコンピュータである(Long 2003)。 2007年に発売されたアマゾン・キンドルを皮切りに、ソニー・リーダー、およびその他の電子図書端末は、ますます普及を見せている。電子図書が今後成功するか否かは、多くの場合、その端末が使いやすい、価格が安い、ありふれたものになるといったことにかかっている。例えば、初期のキンドルに対する批判の1つに、新聞や教科書を表示できないことがあった。その機能を備えた新しく、より大きなキンドルが2009年に販売されたが、その価格は500ドル近かった。 2010年に、同程度の価格でアップルがiPadの販売を始めたが、それには電子図書リーダーだけでなく、電子メール、ウェブアクセスや、映画や写真の閲覧機能など他にも多くの機能が統合されていた。絶え間ない新製品の投入と技術革新は今後も熾烈なものになると予想される。並行する形で、グーグルのような大手のインターネットコンテンツプロバイダが図書の大規模なデジタル化を進めつつあり、電子図書は、今後ますます利用しやすくなるだろう。実際、ソニーエレクトロニクスは、グーグルと包括的な提携関係を結んだが、それはオンラインのソニーのeBookストアを通じて、50万冊の著作権フリーの図書を提供するためだ。そうした提携は今後、さらにたくさん結ばれていくと予想される。

ソットンは、電子図書が抱える問題を何点か指摘した。例えば、私たちの平均的な視覚プロセスにとって、電子図書で長い文章を読むのは快適ではないことが示されている。これは、人々が記事のような短い文章はよく読むだろうが、図書はあまり読みたがらないことを示唆している(Sottong 2008)。ある調査によれば、学生は調査やレファレンスが目的の場合は印刷資料よりも電子資料を好むが、娯楽として読書をする時は、むしろ印刷資料の方を好む(Safley 2006)。ソットンは、電子図書端末をiPodと比較した上で、電子図書端末がiPodと同じような成長をたどるとは考えられないと主張した。その理由は、次の通りだ。(1) MP3のような競争と低価格化を促進するオープンフォーマットが、電子図書端末にはない。 (2) iPodでは音楽を繰り返し聴くが、図書はたいてい1回しか読まない。 (3) 1度に読む図書は1、2冊なので、電子図書端末は、大容量ストレージを必要としない。(4)音楽を聴きながら別の作業をすることはできるが、読書は全神経を集中させなければならない。電子図書端末の価格がまだかなり高いことを考えると、これらの理由は成長の大きな妨げとなりかねない。

2007年に、国際電子出版フォーラムはオープンパブリケーションストラクチヤ(OPS)2,Oを採択し、業界の標準的な規格が成立した。これにより、出版社は多様なフォーマットに代わって電子図書用ファイルを1種類だけ作ればすむようになった。0PSが掲げる目標の1つとして、次のような記述がある。電子図書のプロバイダ(出版社、エージェント、作家等)が使用する、コンテンツ記述に関する統一的な基準を定義することで、様々な読書端末への配信を可能にし、また、どんな読書端末においても同じような表現が可能になるよう、できる限りの保障を与える。

電子図書端末の機能が今後も引き続き改善・拡張され、利用可能な電子図書が増加するにっれて、電子図書の利用は増えていくだろう。こうした状況に絶えず目を光らせ、必要に応じて注意深く順応していく必要があるだろう。
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