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未唯空間第10章

シェアで機動力を増す

 アレキサンダー大王とモンゴルのチンギス・ハンとの共通点。ノマドであること。個人所有しないこと。それによる機動力。マケドニアの風土、ゴビの砂漠が彼らを作った。

 個人所有からシェアの時代に行くことによって、その再現を図る。

 考えてみれば、個人所有というのは、自由を束縛することです。ノマドの時代です。後方にクラウドがあれば、分化と統合の世界になります。車一台を持つことで、どれだけ自由を奪われるか。それは地上の場所を占有することで、生活を圧迫する。本質的なところを求めれば、それは不必要になります。

 争った時にどちらが勝つのか? 機動性からするとどうなるのか。アフリカから身一つで出てきた人類として、それは本当にめざす姿なのか。

本質を求める心

 本も同様です。本の装丁に拘ることに意味があるのか。多くの人には意味がない。本に関わる人はそういったことをあえて言わない。クルマ屋も同じです。本をデジタル化することによって、本が分化していく。そういう時代が先人の努力で近づいてきた。

 公私との関係。道路は個人所有ではない。本来、共有なのに、シェアしていない。資本主義は買うことを前提にしているのか? 作ることを前提にしているけど、インフラを含めて、多くのモノが使うことが主になっている。このバランスは変えることができるはずだけど。

 全員にあまねく、配ることは、本当に効率的なのか。社会を存続できるようにするのか、むしろ、しないのか。本質的に何が必要なのか? どうすべきなのか。

フッサールの「他者論」

 フッサールの「他者論」。主観と主観に間にあるモノ。それを間主観的と構成される。「デカルト的査察」における間主観性の問題。

未唯空間第10章

 第10章が見えなくなった。第10章は「先の世界」です。未唯空間では、ここまで述べるつもりはなかった。けど、「存在の力」「歴史哲学」などの帰結が知りたくなった。

 第9章でほとんど、終わっています。その意味では、9章を補完するカタチかもしれない。それぞれの単元でロジックをハッキリさせるカタチでしょう。なぜ、そもそも、そう考えたのかを中心にする。そうなると、10.1も変わります。

 「10.1分化で生き残り」→「多くの人が生き残られる」にしましょう。環境社会で最初に考えたことは、多くの人がデメリットではなく、メリットになることを考えた。

 エネルギー問題では、人がいることで消費して、全体が悪くなる。エコで係数を減らしてもたかが知れています。一番、簡単な手は人口が減らすことです。それで本当に意味があるのか。多くなることで、うまくいく世界を作るにはどうしたらいいのか。それがあって、初めて、個人の分化が意味を持ちます。

 10.2は環境哲学を前面に出します。ヘーゲルが考えた、意思の力による国民国家での自由からの思考を進めます。個人を制約するモノでなく、個人の自由を求めるための環境哲学。そのためには、個人という原単位での「存在の力」を自由との関係で使っていく。そのために、共有意識をいかに育てるかを述べていく。

 10.3は「民主主義を変える」こととする。そのためには、ローカル起点で考えられるようにする。サファイア循環を見える化して、環境社会を安定的に動かせるようにする。

 10.4は同じ観点だけど、社会の様相を分化と統合として、トポロジー的な観点からアプローチします。グローバル化による国民国家が位相化するプロセスを示す。特にその時に、情報共有というパラメーターがどう生きてくるのか。

 10.5はそれ以前の4つをまとめた形で、歴史をどう変えていくのかの未来予測です。

 「意思の力」での歴史、「歴史哲学」でどう変わるか、「存在の力」で市民が変えていく世界、「社会の位相化」の影響となる。

 10.6は先に先の世界として、LL=GGがどんな形なのかを述べます。LL=GGがトポロジーの延長線上にある限り、数学的な観点が中心になります。もう一つ、大きいのは、なぜ、自分はこんなことを考えいるのかのヒントのために、「放り込まれた存在」というアプローチです。

 10.7と10.8は個人的なことです。一つは大きな目標である「全てを知りこと」はどういうことなのか。二つ目は放り込まれた存在として、「存在の無」から始まったことの答えがどうなるかです。
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チェ・ゲバラの死

『読書礼讃』より

政治を文学として読むことはできるだろうか?おそらく、ときには可能だろう。特定の例にかぎって。たとえば、一九六七年十月八日、ボリビアのスクレの東、ラ・イゲラ村に近い荒野の荒れ果てた峡谷で、ボリビア陸軍に所属する遊撃兵の一団が少数のゲリラを捕えた。そのうち二人は生け捕りにされた。ひとりはウィリーという名前だけが知られているボリビア人のゲリラ兵、もうひとりはエルネスト・「チェ」・ゲバラである。キューバ革命の英雄であり、ボリビア大統領レネ・バリエントスにいわせれば、「カストロ共産主義の手先による外国勢力の侵略」の指導者だった。知らせを受けたアンドレス・セリーチ中佐は緊急にヘリを準備させ、ラ・イゲラヘ飛んだ。セリーチは、崩れかけた校舎に収監されていたこのゲリラ兵と四十五分間にわたって話をした。一九九〇年代末になるまで、死を前にしたゲバラのようすはほとんど知られていなかった。二十九年間の沈黙の末に、セリーチの死後、残された夫人はついに、その貴重な会話について書きとめたメモをアメリカのジャーナリスト、ジョン・リー・アンダーソンに託した。歴史的文書としての重要さ以上に、ある人物の最後の言葉がその仇敵によって大事に記録されていたという事実に痛ましさを感じずにいられない。

「司令官、あなたはどこか悲しそうです」とセリーチはいった。「どうしてですか?」

「私はしくじった。すべておしまいだ。だから、そんなふうに見えるのだろう」とチエは答えた。

「あなたはキューバ人ですか、それともアルゼンチン人ですか?」

「私はキューバ人であり、アルゼンチン人であり、ボリビア人であり、ペルー人であり、エクアドル人であり……わかるだろう」

「なぜ、ここ、ボリビアで戦う気になったのですか?」

「農民がどんな暮らしをしているか、きみには見えないのか?」とチエは反問した。「まるで未開人のようだ。胸が痛くなるような貧困のなかで暮らしている。たったひとつの部屋で眠り、料理をし、身にまとう服もないまま、獣のように見捨てられている……」

「しかし、それはキューバでも同じではありませんか」とセリーチはいった。

「いや、ちがう」とチエは反論した。「キューバに貧困があることは否定しない。だが[少なくとも]あそこの農民たちは進歩の幻想をもっている。ところがボリビアの人びとは希望がないまま生きている。ただ生まれ、ただ死ぬ。人間としての状況にいささかの改善を見ることもなく」

CIAは彼を生かしておきたかった。だが、その指令はこの作戦の指揮をとったキューバ生まれのCIA諜報員フェリクス・ロドリゲスのもとに届かなかったようだ。チェは翌日処刑された。戦闘中に死んだように見せかけるため、処刑者は両腕と両脚を狙った。地面に倒れ、「悲鳴をあげまいとして片手の手首を噛みしめ」ながら、身をよじらせていた男の胸に最後の銃弾が撃ちこまれ、肺が血で満たされた。遺体はヘリコプターでバジェグランデまで運ばれたあと、そこで二日間さらしものにされ、役人、ジャーナリスト、それに町の人々が見にやってきた。遺体の枕元に並んで立ってポーズをとるセリーチや役人たちの写真が撮られた。その後、遺体は「行方不明になり」、バジェグランデの飛行場に近いどこかに埋められた。遺体の写真は、死せるキリストをいやおうなく連想させ(痩せた半裸の体、顎髭、苦しげな顔)、私たちの世代の若者にとってなくてはならない偶像となった。一九五九年にキューバ革命が起こったとき、私たちはまだ十歳そこそこだった。

南部でのキャンプは気楽な観光旅行ではなかった。私たちのパタゴニアは、紀行作家ブルース・チャトウィンの描いたパタゴニアとはちがった。若者らしい情熱にあふれたクラス委員は、私たちにアルゼンチン社会の隠された一面を見せようとした--ブエノスアイレスの快適な家ではけっして見ることがなかった部分である。私たちがなじんでいた富裕層向けの住宅地の周縁には、「ビジャス・ミセリア」すなわち「みじめな村」と呼ばれるスラムがあり、漠然とながら、そのイメージはあった。だが、チエがセリーチに語った奴隷のような暮らしについては何も知らなかった。僻地で暮らす農民たちのあいだには、まだ貧困が根強く残っていた。さらに、先住民への組織的な殺戮が軍の公的な活動として三〇年代までっづいていたことも私たちは知らなかった。クラス委員はたしかによかれと思って、私たちに「アルゼンチンの現実」を見せようとしたのだった。

チエの死の知らせは衝撃的だったが、ほとんど予期していたことだった。私たちの世代にとって、彼はまさしく人民の英雄であり、手の届かない存在であることはわかっていた。勇敢さと無鉄砲さが奇妙に混じりあったチエの存在は、私たちの世代にとって強烈な魅力だった。さらに、のちの世代にとっても、彼は文句なしの英雄だった。私たちにとって、彼は生きていたときからすでに伝説的な人物だった。その輝きは死後も色あせることはないだろう。彼の死後、裏切り者のCIA諜報員ロドリゲスが、チエの持病を受け継いだかのように急に喘息を発症したことは、私たちにとって少しも不思議ではなかった。

チエは私たちが見たのと同じものを見た。私たちが感じたのと同じことを感じた。「人間の境遇」が根本的に不公平であることに怒りを覚えた。だが、私たちとちがって、彼はそれをなんとかしようとして行動した。そのやり方は疑わしく、政治観は底が浅く、倫理観は無慈悲で、究極的な成功は不可能に思われた(おそらくいまでも)が、そんなことよりもずっと重要だったのは、彼が不正だと感じることにたいしてみずから戦いを挑んだことである。これが正しいというはっきりした代案をもたないままに。
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