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ジャンケン大会の会話

Iスタバの会話 ジャンケン大会

 おはようございます。もうさん

 今日はジャンケンの日ですね。覚えていますよ。

 心の準備はいいですか?

 じゃ、ジャンケンポンで。

 ジャンケンポンで。ちょっと待ってください。

 汗が出てきました。フーって、感じです。

 ジャンケン・ポン

 あいこで

 おめでとうございます。

 ちょっと、プレゼントを用意してまして、じゃ、上げます。バナナを。

 それを金曜日に思いついて、家にあると思って、だから、ジャンケンは月曜にしようと思って。もうさん、勝ったら、バナナあげようと思って、ハイ。

 使ってください。私が付けていたバナナちゃんです。ハイ。

 フー、疲れた。ジャンケンで疲れた。ドキドキしていた。

 朝のうちのドキドキが伝わって。
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スピノザ『神学・政治論』序文

『神学・政治論』より

[一]自分にかかわることを、すべて決まった計画に基づいて取り仕切れるなら、迷信など無用だろう。また、人生がいつも願ったりかなったりの幸運続きなら、やはり迷信に振り回される人などいないだろう。しかし現実には、ひとはしばしば、計画など役に立たないような窮地に陥るものだ。また、幸運などそう続くわけがない。そんな幸運を無節操に望めば、ひとは大抵の場合、希望と不安の間を痛ま土いくらい揺れ動くことになる。

 だからこそ、ひとの心は往々にして、何でもあっさりと信じてしまいがちである。一旦疑いの念に取りつかれたら、些細なきっかけであちらこちらへ揺り動かされるし、まして希望と不安に駆りたてられればますます簡単に動揺する。そのくせ、その同じ人間が別の角度から見れば自分に自信たっぷりで、やたらと自己評価が高く、慢心しがちなのである。

[二]自分で自分のことを知らない人は確かに多いけれども、今述べたようなことを知らない人はいないと思う。というのも、他人に囲まれて暮らしていれば、誰でも次のようなことに気づかずにはいられないからだ。多くの人は、ものごとの成り行きが順調な時には、たとえ未熟きわまりない人でも自分は十分な知恵者だと思っていて、他人が口添えでもしようとすると侮辱を受けたと思い込むことさえある。ところが成り行きが逆境に転じればたちまち動転してなすすべを知らず、他人という他人に哀願しては助言を求め、たとえそれが不適切でも馬鹿馬鹿しくても無意味でも、耳にした限りのあらゆる助言に従おうとする。おまけにごく他愛ないきっかけにも、これで事態が好転するのではないかと希望を寄せたり、反対に一層悪くなるのではないかと恐れたりする。実際、ひとは恐れに駆られて右往左往している間は、以前にあった好事凶事を思い起こさせるような出来事がたまたま生じるのを目にしては、そうした出来事がよい結果や悪い結果を予兆していると思い込むのである。だからこそ、たとえ何度となく裏切られても、それを吉兆とか凶兆とか呼び続ける。それどころか、何か普通でない出来事を目にしただけで仰天し、それを何かの兆しのように、たとえば神々だか至高の存在だかの怒りの兆しのように思い込んでしまう。迷信にとらわれやすく、まともな宗教に服さない人なら、お供えやお祈りを捧げてこれを鎮めなければならないと思うのである。

 このようにして、ひとは空しい想像を果てしなく繰り広げる。そして、まるで自然全体が自分と一緒に正気を失ったかのように、自然[の出来事]を奇怪な仕方で解釈し続けるのである。

[三]こういうわけだから、特に次のようなことは誰の目にも明らかだろう。あらゆる種類の迷信のとりこに一番なりやすいのは、必ず得られるとは限らないことを無節操に望む人である。中でも、危険にさらされていてしかも自力ではどうにもできないような場合には、そうした人は誰であれ、祈ったり女々しく泣いたりして神様に助けを乞い願う。そして理性など(その人が求めている空しい目標にたどり着くための確かな道筋を示してくれないから)ものを見る役に立たないし、人間の知恵など空しいと叫ぶのだ。その一方で、想像力の産物に過ぎない妄想、夢、子供じみた珍解答を神のお告げと信じ込む。それどころか、神は知恵あるものがお嫌いであるから、ご自分の決められたことを「人間の」精神ではなく獣の臓物に書き込まれたとか、あるいは愚者や狂人や鳥こそ神の息吹や刺激に呼応し、神の思し召しを予言するものたちであると信じ込む。不安に駆られると、人間はこれほどまでに正気を失うものなのだ。

[四]したがって恐怖こそ、迷信が生まれ、保たれ、育まれる原因なのである。その実例を、今述べたこと以外にも具体的に知りたければ、たとえばアレクサンドロス大王を見るがいい。この人はスーサの山道で運命の恐ろしさを初めて思い知ったのとちょうど同じ時期に、心に迷信が生まれて占い師を招くようになった(クルティウス『アレクサンドロス大王伝』第五巻四章を参照)。ダレイオス[=ペルシャ王ダレイオス三世]に勝利した後、易者や占い師に相談するのを一旦止めたのだが、それも長くは続かなかった。よりによって自分が負傷してぐったり寝込んでいる時に、バクトリア人の反乱やスキタイ人との戦いに苦しめられたせいで、大王は時の運に恵まれないことをまたしても恐れ始め、「再び(クルティウスが同書第七巻七章で言っているように)ひとの精神の戯れから生まれた迷信にはまり込み、軽率にも信頼を寄せていたアリスタンドロスに、生贅を捧げてことの成り行きを探るよう命じた」のである。

 このような実例はいくらでも持ち出せるだろう。そうした例からはっきり分かるのは、ひとが迷信に心を動かされるのは、恐れの続いている間に限られるということである。ひとびとがかつて空しい宗教に惑わされて崇拝していたことはすべて幻想であり、苦しむ心、恐れに駆られた心が生み出した妄想にすぎないのだ。また占い師というものは、国が抱えている困難が多い時ほど民衆を意のままに操り、王たちを恐れさせたのである。しかしこうしたことは誰にでも知られていると思うので、これ以上立ち入らないことにする。
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