『日本財政の現代史』より フランス・ドイツの福祉国家への分岐 土建国家とは異なる道 なぜ土建国家へと向かわなかったのか なぜ大きな福祉国家へと向かったのか
ドイツは戦後、とりわけ1970年代までに福祉国家規模の著しい拡大を経験した。現在、ドイツの歳出構造のなかで最も大きな割合を占めるのは社会関係支出であり、1963年時点でその値は29%程度であったが、2003年になると全体の52%を占めるまでに至っている。こうした福祉国家の拡大はいかなる要因により実現したのであろうか。
まず高齢化はフランスの福祉国家の拡大の要因としてもあげられていたが、それはドイツにおいてもあてはまる。一般的には、経済水準を説明変数とし、その結果として生じる出生率の低下および老齢人口比率の上昇が社会保障制度の形成と拡大を助長すると説明される。経済水準の変化が人口構成の変化に直結するかどうかは議論の余地があるものの、人口構成の変化が福祉国家の形成と拡大に影響を与えることは明らかである。
ドイツは日本と比して、早い段階から少子高齢化を経験している。ドイツの1960年の合計特殊出生率は2.36,日本は2.00とほぼ同値であったが、75年にはそれぞれ1.45、1.91へと低下しており、その低下率は明らかにドイツの方が高かった。さらに65歳以上の人口の全体比をみると、ドイツは同期間に10.9%から14.6%,日本は5.7%から7.9%とともに上昇しているが、やはり上昇率はドイツの方が高かった。
くわえて、福祉国家の拡大を政治的な側面から説明しようとするものとして権力資源動員論がある。この理論は福祉国家の拡大を強力な労働組合と左派政党の影響力によって説明しようとする。西ドイツの左派政党であるSPDは1949年の総選挙で29.2%の議席占有率を確保してから、一度はその割合を低下させたものの、57年以降は占有率を伸ばしつづけ、72年には第一党(45.8%)としての地位を勝ち取った。その間、1966年に右派政党CDU/CSUとSPDの連立政権が誕生し、さらに69年からはFDPとの連立によってSPDが与党の座に就いている。くわえて、ドイツ最大の労働組合であるDGBがヨーロッパ最大規模になったのも、この時期のことであった。
以上が一般的な福祉国家の拡大を説明する要因であるが、これらの要因はドイッ福祉国家の歴史的展開の一面を説明するにすぎない。このように主張するのは、戦後、ドイツ福祉国家が著しい拡大を経験しながらも、その形成期においては必ずしも普遍主義的な方向へと進まなかったという事実が存在するからである。それでは、どうしてドイツは普遍主義的な社会保障制度の構築へと向かわなかったのであろうか。
周知のように、ドイツの社会保障制度は、0.ビスマルクによって導入された疾病保険(1883年)、災害保険(84年)、老齢・廃疾保険(89年)という世界初の社会保険三部作をその端緒としている。こうした試みは、当時高まりつつあった社会主義運動の弾圧を実施する一方、労働者の福祉増進を図る施策の立法化を通じた宥和策として行われた。ワイマール期にはこの3つの社会保険に全国規模での失業保険が加わり、ナチスと第二次世界大戦の間の一時中断を挟みながらも、今日につながる社会保障制度の基盤が形成された、と評価される(足立[1999] 15~20頁)。こうして戦後、ドイツでは古い型の社会保険が疾病、失業、老齢・障害、労災を対象として、特定の職種・職業別に区別・分化された体系、所得別の保険料に応じた差別給付という構造的特徴を維持したまま、再建されたのである。
以上のようなドイツ福祉国家の戦前からの連続性を説明する要因としてあげられるのは、保守性と自由主義的性格であり、こうした特徴をもつドイツ福祉国家は「保守主義レジーム」、あるいは「自由主義経済体制下での高福祉国家」といった形で表現される。フランスにおいて戦後の福祉国家形成の要因としてあげられていた制度の普遍化の気運の高まりのようなものがドイツにおいてなかったわけではない。実際、敗戦後、連合国管理理事会からドイツに対して普遍主義的な統一型社会保険の導入が提案されていた。ソ連占領地域ではこの法案が実施に移されており、さらにDGBやSPD、共産党なども統一型の社会保険を戦前から要求していた。しかし、この試みは西側地域において実現することはなかった。実現しなかった理由は、まさに上述したドイツの保守性と自由主義的な性質にあったのである。
戦後、SPDの勢力が拡大したことは事実であるが、1972~76年を除いて第一党はCDU/CSUであり、とりわけ戦後しばらくの間はこの右派政権が絶大な議席占有率(57年:50.2%)を誇っていた。そのため、労働者政党が福祉国家の発展に影響を及ぼすことは事実であるとしても、その影響が右派政党の権力のあり方に制約を受けたことに疑いの余地はない。実際、連合国の社会保険制度改革に関する上記の提案の議決を委ねられた西ドイツ連邦議会の前身とされるフランクフルト経済評議会において主導的な立場にあったのはCDU/CSUであり、管理理事会案を排し、伝統的な社会保険体系を維持したのも彼らであった(福jf [2012] 186~192頁)。
このように人口構成の変化、左派勢力の動向、保守性によってドイツ福祉国家の歴史的展開の大枠をとらえることはできる。しかし、判然としないのは、保守勢力の影響力が依然として強い1950年代に、なぜ普遍主義的な制度改革の一環として57年年金制度改革が実現したのか、ということである。この改革は年金の動態化、賦課方式への転換に加え、給付の目標として賃金代替効果を付与することを通じて、高負担・高福祉基調の給付システム体系を確立させていく唱矢となり、さらに1961年社会扶助法、64年児童手当法の実施といった福祉国家政策進展の起点と位置づけられる出来事となった。こうした変化については単に右派CDU/CSU、左派SPDという二項対立的な観点から読み解くことができるものではなく、保守性のみに限定されないCDU/CSUの性格等に目を向けなければその説明は難しい。
こうした問題に対して、近藤正基は説得的な議論を行っている。近藤は「党派交叉連合」という概念を用いつつ、SPD台頭以前の1949~66年をドイツ福祉国家の定礎の時期と位置づけている。そのなかでは福祉国家の制度化の促進要因としてCDU/CSUとSPDによる福祉連合(「党派交叉連合」にあたる存在)の存在があげられている。終戦直後の社会関係支出の拡大は戦争被害者の補償によるものが大半であったが、1950年代後半以降に行われた年金・社会扶助・児童手当に関する一連の改革や法制化は、CDU/CSU内の福祉政治に関心をもつ社会委員会派の主導のもと、SPDや労働組合との協働を通じて推進された、ということが同研究では明らかにされている。重要なのは同期間CDU/CSUが政権にありながら、福祉国家政策の主導権を握っていたのが内部の経済派ではなく、社会委員会派とSPDであったということである。