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モデルとしてのドイツ史 1つのライヒ、複数のドイツ

『ドイツ史研究入門』より 総説 目的としてのドイツ、方法としてのドイツ

かつてニーチエは「善悪の彼岸」(1886年)において、「ドイツ人を特徴づけるのは、彼らにおいて「ドイツとは何か」という問いが決して消えてなくならない、ということである」と述べた。ベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』以来の構築主義の洗礼を受けた現在からみると、それはドイツに限られたものではないのではないか、という反論が返ってくるかもしれない。しかしドイツには、ニーチエが示唆するように、「国民」の自己理解ないしアイデンティティが相対的ににこでの比較対象はやはり英・米・仏となるが)不安定であったことは否定できない。それには、領土の伸縮の激しさに加え、政治体制の変化、宗教改革以来のカトリックとプロテスタントの対抗関係など、さまざまな要因がある。さらにドイツ史を研究する際に基本的前提となるのが連邦制である。この神聖ローマ帝国以来現在まで続く国制は、まさにドイツの伝統ともいってよく、ドイツにおけるナショナリズムのあり方にも大きな影響を与えてきた。前述のドイツ連邦議会の決議にもあげられていた、ドイツにおける国民国家建設とされる1871年のドイツ帝国成立は、日本の場合でいえば廃藩置県ではなく、むしろ雄藩連合に近いものであり、その意味で「モデルとしてのドイツ」からは重要な点において逸脱していた。

ただし、この連邦制という遠心力の一方で、枠組としての「ライヒ」という観念が求心力を発揮したことも否定できない事実である。「ライヒ」は神聖ローマ帝国を出発とし、日本語では一般に「帝国」と訳されることが多い。1806年にこの枠組が崩壊したのち、ドイツのナショナリストたちはその再建を構想し、運動することになる。1866年に成立した北ドイツ連邦議会はすでに「ライヒ議会」を名乗り、71年のドイツ帝国成立とともに文字通り「帝国議会」となる。しかし帝政崩壊後のヴァイマル共和国においても、国会の名称は「ライヒ議会」のままであり、ナチスにも受け継がれた。このように、「ライヒ」という観念は政治体制を超えた「国体」の含意があり、同時にそれは、近代的な意味でのドイツ国民国家としての意味にとどまらず、他民族を包含する「帝国」ともなり、ヨーロッパにおける覇権的地位を正当化する概念ともなった。いずれにしても、こうした「内と外」をめぐる分権的な遠心力と、にもかかわらず「ライヒ」として1っにまとまろうとする求心力とのせめぎあいが、ドイツ史の大きな特徴をなしており、こうした政治的編成の複雑なあり方は、誤解を恐れずにいえば、現在進行中のヨーロッパ統合(あるいはドイツ人がイメージするヨーロッパのあり方)を理解するうえでも参考になるであろう。

しかし、こうしたダイナミックなドイツ史はそれ自体興味をかき立てずにはおかない一方で、いざ入門的概説として「ドイツ史」を書こうとする場合、困難をもたらすことになる。その代表的な例がオーストリアをどう扱うか、という問題である。長らく神聖ローマ帝国の皇帝の座を占めてきたハプスブルク家が支配するオーストリアは、1866年の普襖戦争の結果ドイツから排除され、1938年の併合(アンシュルス)によって再びドイツに加わり、ヒトラーは故郷に錦を飾った。しかし1945年以降再び分離すると、ナチ時代の過去に対する「犠牲者史観」もあり、独自の「オーストリア国民」としての意識が定着することになる。この包摂・排除(分離)はたんにオーストリア自体にとってだけの問題ではなく、ドイツ史にとっては前述のカトリックとプロテスタントの措抗関係においても大きな意味をもっていた。逆にいえば、オーストリアと対抗関係にあったプロイセンについても、近代におけるドイツ統一の中核であったことが強調されるなかで、その非ドイツ的な、あるいは多元的な構成が軽視されてきたという点にも配慮が必要なのである。とはいえ、どのような地理的名称をあてるにせよ、それ自体が歴史のなかで政治的な意味をもち、異なる解釈が対立し、読み替えられていくことは避けがたいといえるだろう。「ドイツ史」の代わりに「中欧史」という枠組を採用しても、「中欧」そのものが政治的なプログラムであり、また制度的な実態をともなわないものであるため、問題はより複雑なものとなろう。むしろ重要なことは、中央集権的な主権国家という近代日本のイメージをそのままあてはめないことであり、ライヒや同君連合、連邦制といった観念・制度を、時代の文脈のなかで理解し、意識しておくことである。

地理的な枠組としてのドイツについて、もうひとっ指摘すべきは、植民地の問題である。植民地宗主国としてのドイツの歴史は英・仏などに比べると極めて短命であり、ビスマルクの植民地政策やヴィルヘルム2世の世界政策など帝国主義の枠組のなかで研究がおこなわれる一方、第一次世界大戦での敗戦による植民地喪失とともにドイツの植民(地主義)史も姿を消すことになった。しかし近年では、ポスト・コロニアル研究の影響を受け、「植民地なき植民地主義」として、帝国建設以前における植民地をめぐるイメージがドイツの国民意識の形成に与えた影響力を指摘する研究や, 20世紀初頭のヘレロ・ナマクア虐殺を20世紀のジェノサイドの最初の例とみなし、それが第二次世界大戦においてヨーロッパに逆流するという植民地からホロコーストヘの連続性を指摘する議論もでてきている。さらには、18世紀後半のポーランド分割以来のプロイセン・ドイツ史を多民族的な「大陸帝国」として、国民国家としての西ヨーロッパ諸国との対比よりも、ロシア、オーストリア、オスマンの諸帝国との比較や関係のなかで考察すべきであるという指摘もある。もちろん海外植民地と大陸の異民族支配(とくにナチ期の「生存圏」)には大きな相違が存在するが,「ドイツ」を国境線の内側だけに狭く限定せず、開いて考察することが今後さらに必要となるであろう。
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