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ウクライナ 自由と独立を求めて

『スラヴの十字路』より

ヨーロッパにおいて、ロシアに次ぐ面積を有する国、ウクライナ。この国がようやく独立を果たすのは一九九一年のことだが、そこにいたるまでのこの国の歴史は苦難の連続であった。二〇世紀に入るまで隣国のポーランドやロシアに支配され続け、二〇世紀になってからもロシア革命時の国内戦や第二次世界大戦で激戦の地となり、甚大な被害を被った。

ウクライナにはかつて東スラヴ族最初の統一国家キエフ・ルーシがあったが、この国が二一世紀前半に滅んで以降、全ウクライナ的な独立国家は二〇世紀末にいたるまで現われることはなかった。しかし、自由を求め、独立国を建設しようとする動きがなかったわけではない。それを推し進めたのが、「自由の民」コサックである。

コサック(ウクライナ語でK03aK'ロシア語では~~已の語源は、「自由な独立した人、冒険者、放浪者」を意味するチュルク語の言葉にあるとされる。この語源の通り、農奴制を嫌って逃亡した農民や自由を求めて社会から逃れてきた人々が、コサックとなるのである。彼らはドン、ヴォルガ、ドニエプルなどの大河の流域に独自の社会を築いていった。このうち、ポーランドやリトアニアからドニエプル川流域に逃亡し、一五世紀から一六世紀にかけて形成されたのがウクライナ・コサックである。

彼らの根拠地となったのは、一五五〇年頃にドニエプル川の中州のホルティツァ島に築かれた要塞だった。この根拠地は「シーチ(本営)」と呼ばれ、ここに結集したコサックたちはウクライナ・コサックの中でもドニエプル・コサック、あるいはザポロージエ・コサックと呼ばれるようになった。ザポロージエとは「早瀬の向こう」という意味である。

このコサックたちによって、一七世紀中頃にウクライナの地に国が築かれたのである。それはこの頃ウクライナを支配していたポーランドに対して反乱を起こしたボグダン・フメリニツキーをヘトマン(「頭領」の意)とする、ウクライナ・コサックによるものだった。フメリニツキーはポーランドに対抗するため、コサックと同じ正教徒の国ロシアに協力を求め、ペレヤスラフ協定を結んだ。その結果、ウクライナ・コサックはロシアの宗主権を認める代わりに、自分かちの自治が認められることになったのである。フメリニツキーの乱によって成立した国家はヘトマン国家と呼ばれるが、こうして、完全に独立した国家ではないものの、自治国がウクライナの地に誕生したのである。

さらに、ウクライナ・コサックによる独立を求める動きもあった。それはヘトマン国家成立から約半世紀後のイヅァン・マゼッパによる反乱である。当時、ドニエプル川左岸のウクライナはロシア領になっていたが、マゼッパはヘトマン国家の独立を目指し、かつては良好な関係にあったロシアのピョートル大帝に反旗をひるがえすのである。マゼッパはロシアと戦うために、当時ロシアが戦っていたスウェーデンのカール一二世と同盟を結んだ。しかし、マゼッパとカール一二世の同盟軍は一七〇九年のポルタヴァの戦いで敗れてしまい、ウクライナ独立の夢も砕け散ってしまうのである。その結果、コサックの自治はいっそう制限されるようになっていった。そして、エカチェリーナ二世時代の一七八三年にはヘトマン国家自体が消滅させられ、この地域は「小ロシア」と屈辱的な名前をつけられ、完全にロシアの一部となってしまうのである。

こうしてウクライナ・コサックによる独立の夢はついえた。しかし、自由と独立を求めたウクライナ・コサックの伝統をウクライナの人々は今も忘れない。フメリニツキーの像はキエフをはじめとした様々な町に建ち、マゼッパの肖像を印刷した紙幣もある。

ウクライナ・コサックによる独立の試みは失敗に終わったが、しかしマゼッパの反乱から二世紀以上経た後に、ウクライナがほんのつかの間ではあるが、独立国家を建設したことがある。ロシア革命の時代である。

一九一七年、二月革命が起こると、キエフに民族統一戦線としてウクライナ中央ラーダ(ラーダとはウクライナ語で「会議、評議会」の意)が結成された。中央ラーダは十月革命後の一一月に「ウクライナ人民共和国」の創設を宣言し、翌年一月にはこの国が完全に独立した主権国家であると宣言したのである。しかし、この国は長続きしなかった。四月にはドイツ軍の後押しするスコロパッキーのクーデタによって倒されてしまう。コー月にはディレクト・リア政府によってウクライナ人民共和国は復活するが、この政権がキエフにとどまっていられたのは三ヵ月にも満たなかった。

苦難の道を歩み、二〇世紀末にようやく独立を果たしたウクライナだが、その潜在力は高いという声が多い。科学技術の水準は高く、ソ連時代から工業国として知られていた。石油や天然ガスはほとんど生産されないものの、鉱物資源は豊かで、特に石炭や鉄鉱石は豊富な埋蔵量で知られている。また、ウクライナは肥沃な黒土地帯を有し、古くは「ヨーロッパのパンかご」と呼ばれていたほどの大穀倉地帯でもある。現在も穀物不足が叫ばれているが、ウクライナは将来の食糧危機を救う国のひとつであろうという予想もあるほどだ。ウクライナは今後どうなるのだろうか。注視する価値のある国ではないだろうか。
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